ぽたりと紙面の上に涙が零れた。瞳から溢れ出たそれらは白い紙に広がり滲む。手の甲で頬を伝う雫をそっと拭った。


「何ですか?これ…」
「貴方の未来を描いた本」
「これが未来?」
「貴方にとっては過去でもあるわけね」
「昔の俺もこの本屋に来たんですか?」
「そう。ここに来るのは二度目よ。小野寺さん」


目の前にいる幼馴染の杏ちゃんに瓜二つな少女は、素知らぬ顔でずずりと紅茶をすする。空になったカップをテーブルの上に置けばそれらはいつの間にか熱い液体で満たされている。


「俺、全然覚えていないんですけれど」
「そんなの当然。本を読んだ後、全ての記憶をいただくと私は説明したはずよ。"意味"は覚えているものではなく、見出すものだとも」

一冊の本がぱたりぱたりと彼女に近寄り、とすんと膝元に落ちる。滑らかな指先でなぞるように、ああ、この子が好きなのね、とぽそりと彼女は呟いた。


「ただでさえこの場所に来訪出来る人間なんて珍しいし、しかも二度目なんて特に稀だから。少しサービスしちゃった。いつもなら、ここで読ませることなく直ぐに追い出しちゃうのよ?」
「…高野さんも、ここに来たんですね?」
「ついさっき帰ったばかりよ。入れ違うように、貴方が来た」
「…高野さんの記憶も無いんですか?」
「質問ばかりで考えもしないのね。でも、珍客には少し位甘やかしてもいいかしら」


パチリ、と彼女がまたもや指を鳴らすと今度は俺の膝元にぱたりと本が落ちた。これは一体?と首を傾げると、彼女はさも可笑しそうにくすくすと笑う。


「それ、貴方が初めてこの店を訪れたときの"記憶"が埋められた本よ」
「…俺の、記憶?」
「そう。そして貴方が今まさに読んでいるのが、"高野さん"とやらの記憶を記した本。だからこの本屋を訪れた人間は、最後に記憶を失ってしまうの。それが"絶対"のルールだから」


じっと、二つの本を見比べる。


「貴方が昔のことを覚えていないのもそういう理屈。私の本屋にある本はすべて誰かの記憶」
「記憶を奪うなんて、酷いじゃないですか」
「その代わりに、"未来"と"奇跡"を与えてあげているんじゃない。人聞きの悪いことを言わないで。…でも、"未来"は兎も角"奇跡"というものの認識が貴方と私では異なっているのだけどね」


高野さんが最後にみた少女の笑みと寸分変わらぬ存在が目の前にいる。幼馴染のそれとは全く違う表情を見せながら、彼女は語る。


「貴方達の言う"奇跡"って一体何?」
「例えば、"九死に一生を得る"ような出来事を"奇跡"と言うんじゃないですか?」
「馬鹿ね。そんなことを"奇跡"って言うわけないじゃない。一生の間、何の事故にも事件にも巻き込まれない人間の存在こそ、"奇跡"と呼ぶべきなのよ?人間の主観というものは恐ろしいわ。特別であることを特別でないと考え、特別でないことを特別だと思い込むから」


もし自分が美術学校に入学したら、そこに在中する生徒の中に気が合う人間は一体何人いるかしら。昔から絵を描くのが好き。展覧会を見に行くのが好き。真っ白なキャンパスを前にしただけで胸がときめく。きっとそんな人達ばかりね。自分が昔から好きだった画家、最近になって好きになり始めた絵。友人を見つける度に、こんなにも好きなものが共通しているなんて"奇跡"だ、とか人間は言うのよね。


同じ趣向を持つ人間が集まった場所だもの。同じ趣味を持って当然じゃない。これから先同じものを好きになることだって重なるわ。そんな当たり前のことを"奇跡"だなんて言わない。"奇跡"っていうのはね、絵なんて今まで全く興味がありませんでしたっていう人間と、その場所で出会うようなことを意味するのよ。


「貴方にも、心当たりはあるでしょ?」
「心当たり?」
「今までずっと漫画になんて興味のなかった人間が、転職したら少女漫画部に配属されて、そこで十年前の初恋の人に会うなんて。"奇跡"としか言い様がないじゃない」


出会えたこと。それこそが紛れもない"奇跡"なのだから。


「さてと、貴方の読書もこれで終しまい。約束通り、この本に関する全ての記憶は頂きます」
「でも、俺はまだ…」
「サービスするって言ったでしょ?貴方にとって一番の"未来"をあげると約束するから」
「…何も覚えていないなんて、嫌です。もう忘れたくない」
「覚えていなくても、きっと貴方なら分かるわ」
「分かるって、何を?」
「"奇跡"を。"奇跡"というものは起こるものでも起こすものでもなく、日々の中に潜んでいるそれに"気づく"ことなのよ。出来るわ。昔ここを訪れたことに気づいた貴方なら」


だから、私の"奇跡"というものは、一度切りとは限らない。何度でも気づけて、何度でも幸せになれるものだから。ね?




パチリ。




小野寺律は兎に角急いでいた。彼はずっとずっと心の中で早く辿りつかねば、という言葉を繰り返していた。何処に向かっているか、何の為に足を動かしているか。その目的すら分からないのに、腕の中に白紙の本を抱きながら、ひたすらに歩いた。歩いて歩いて歩いて、何故だか胸が押しつぶされそうなほど痛かった。


公園のベンチに座りこんで眠る高野さんの姿が目に入る。そこに駆け込んで、べちりべちりと彼の顔を軽く叩いた。高野さん、高野さん、早く起きてください。


「こんな所で寝てたら風邪を引きますよ」
「…早く来ないお前が悪い」
「約束の時間のまだ五分前じゃないですか」
「だから俺は十分前に来たんだよ」
「何俺に対抗してるんですか。大人げない」


寝起きで頭がくらくらしているのか、高野さんが低い唸り声をあげる。大丈夫ですか?と声をかけると、あっと言う間に顔が近づき唇を奪われた。公共の場で何すんですか!アンタは!と声を張り上げると、高野さんはいつも通りに意地悪く笑って。


繋ぐ掌。絡める指先。唐突に高野さんが言った。


「俺って、十年前も今もずっとお前に会いたかったんだよな」
「…俺はちっとも会いたいなんて思っちゃいませんでしたよ」


胸がきゅっと詰まって、思わず涙がぼろぼろと零れた。何故だか分からないけれど、何だかとても大事なことを忘れて、その代わりに大切なものを手に入れた気がして。



「でも、会えて良かったと思っています」



十年前も。今も。本の中で巡り会えた幻みたいな一瞬も。


本と未来と奇跡を一つ。出会えて幸せでした。




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