見慣れない時計を見つけたのは、今しがたのことだ。


木佐さんの部屋の中は、一言で表すとするなら「殺風景」だ。整理整頓はきっちりとされ、それなりのインテリアを施してはいるものの、部屋に存在しているものはあくまで必要最小限。例えば彩色を飾る花だとか、熟れるのを待つ果物とか。その季節毎に沿った旬のものを彼の部屋で見た試しがない。時の流れに疎い男という性別や出版業に勤める多忙さを理由とするのなら、それを納得できないわけでもないが。問題なのは彼の部屋には、日用消耗品以外に「新しいもの」という物が存在しないということ。


単に面倒くさいだけ、と木佐さんは説明する。例えば新しいお洒落な食器を買ったとしても、それを使うのは数日だけ。しばらくすると前に使っていた食器が恋しくなり、食器棚の奥から取り戻すのはいつものこと。元々料理をする習慣も時間も余りないものだから、美しく装飾された食器を目にするだけで「このお皿に見合う料理を作りなさい」という脅迫観念が胸中に生まれ。それから逃れる為に食器棚の奥に入れ違いに押し込み、しばらくした後、未練もなく潔く処分しているのだと言う。


無機質物の皿が意思を持つわけはなく、それは単なる思い込みだということはさておき、如何にも木佐さんらしい行為だなあ、と妙に納得してしまうから困る。お気に入りの「新しいもの」手にいれて、でも少し時間が経てば飽きて捨てる。まるで彼の今までの交友関係を象徴しているみたいで、内心何度も苦笑いしたものだ。


木佐さんは、俺のことを「好き」だとは言ってくれる。「お前のことを飽きることはない」と。でも、どうだろう?果たしてその彼の言葉は真実なのか。彼の真摯な瞳はそれを嘘偽りないと証明してはいるものの、それは「現時点」のものであり「未来」を約束したものではない。毎日の天気よりも変わりやすい人の心だ。いつ、どの時点で木佐さんが俺に「飽きる」か分からない。


好きな人の言葉をもっと信用しなさい、ともう一人の自分は囁きかける。けれど信じていないのは何も自分だけではなく木佐さんも同じなのだ。何度愛の言葉を告げたとしても、いつだって木佐さんは俺に捨てられてしまうことに怯えている。ある出来事を経て、幾分か頑なな感情は和らいだものの、完全な融解とは言えない。飽きられて、捨てられたくない。思う気持ちは同じなのに、「飽きることなんてない」と断言出来るくせに、相手のそれは純粋に受け取れない。言葉を「理解」することと「信じる」ことは似ているけれど違うのだ。


本題に戻そう。つまりは新しいものをめったに買わない、買うことがないと宣言している木佐さんの部屋で見つけた新しい時計。今まで使っていたものが壊れたのかと推察するも、見慣れた古株はベッドサイドでちくたくと元気に動いている。同じ数字を指し示すそれは、オブジェクトとして飾る為ではなく、実用的なものなのだろう。一つ在れば十分なのに、何故二つ?


「ああ、それ。最近起きれなくなったから、もう一つ買ったの」


尋ねてみれば、かなりあっさりとした返答が返ってきた。黙々と自分が作った料理を口に運びながら、その合間に淡々と告げる。


「最近忙しいから。一つ目の目覚まし鳴っても消して寝ちゃうんだよ。だから五分ずらしてもう一個にタイマーをセットしてる。同じ時間でも別に良いんだけど、流石に二個同時の大音量は耐えられないから」


ああ、そうか。木佐さんにとって、あの新しい時計は生活必需品であるわけだ。納得して、心の何処かでがっかりした。別に今の関係性を否定されたわけでもないのに、俺はこのまま変わりませんよ、と暗に宣告されたみたいで。


「で?何。時計がどうかしたの?」
「………何でもありません」


笑顔で答えるのが精一杯だった。


お泊り期間が延長され、一緒にいる時間は以前よりも断然増えはしたけれど、満足出来るものには程遠い。学生と社会人。隔てる境界は余りにも大きい。大学もバイトも一日の内には終わりを迎えられる気楽な俺とは違って、木佐さんにとって仕事帰り午前様なんて当たり前だ。そりゃあもう忙しくて仕方ない時には数日間帰宅すら出来ない。ふらふらと明け方近くに帰ってきて、今までの分を取り戻すかのように、貪るように眠る。そうして自分が帰ってくる時間帯に彼は目覚めるものだから、意識のあるうちに一緒にいられる時間は更に限られてしまう。ある程度覚悟はしていたものの、ここまで時間が噛み合わないといくら楽天的な自分と言えども流石に落ち込む。



九年先を生きる彼に、時間が噛み合うことなんて一生無いのだけどね。



二人の休日は、珍しく出かける予定で一杯だった。遠足前の子供みたいに前日の夜楽しみすぎて眠れない、なんてことは無かったが、目覚ましをかけた時間より数分程早く起きてしまった。うつらうつらしながら腕の中にある木佐さんを、きゅ、と寝ぼけ眼で抱きしめる。後を追うように、けたたましい音が頭上から響いた。もう少しだけこのまま幸福感を味わいたいという気持ちが後ろ髪を引いたが、今日これから先の出来事を天秤にかけて木佐さんを引き剥がしてベッドから離れる。体を起こした際に、鳴り終えた機械の側で同じく主の目を覚まそうと待機する時計を手に取り、設定を解除した。五分後、代わりに俺が彼に声をかければいいだけの話だから。


冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出し、一口飲み込む。さて、そろそろ五分経ったかと思う頃、彼を残した部屋に戻った。途端タイミング良くむくり、と起き上がる木佐さん。お早うございます、と朝の挨拶をする前に、唐突に彼が奇行に走った。


身を乗り起こして新しい時計をばしんばしんと叩いたかと思いきや、鳴ることのない時計を胸に抱き寄せてはまた布団の中に潜りこみ。むにゃむにゃと唇が僅かに綻ばせ。


「…おは…よー、ゆ…きな」


本当に幸せにそうに目覚まし時計に語りかけるものだから。


ん?と考え込む間に、木佐さんはまたもやすやすやと眠りこんでしまう。えーと、つまり、今のは一体何なのだろう。俺を視界には捕らえなかった木佐さんは、明らかに新しい目覚し時計を「雪名」と呼んでいた。ああ、うん、だから、これは、この時計は。


言わば、俺の身代わりなのか。


唇が嬉しさの余りに歪む、何処か叫びだしたい衝動を掌で押さえ、ぐ、と飲み込んだ。何だ、何だそういう事だったのかと、真実が一つ明らかになればするすると全てが視えてくる。そういえばそうだった。俺がこの部屋に来る時は、いつもいつも俺が木佐さんを起こしていた。鳴り響く騒音に、あと五分と手を伸ばす彼の腕を引き止めて。五分後、俺が起こしますから、と宥めて胸の中で赤ん坊のように眠らせて。独り占めをしたいというささやかな欲求を満たすためだけだったそれ。いつの間にか、木佐さんの中で習慣になってしまったのだ。だから、起きれなくなったのだ。時計を止めても五分後に起こしてくれる自分がいないから、起きることが出来なくなった。時計がもう一つ必要になったのは、つまりは俺の所為。


瞬間顔がどんどん高揚していくのが分かった。えーと、うん。もうどんだけ可愛いんだよこの人は!とぼそりと言いつつも、表情はきっとだらしなく笑っている。抱え込んだ時計を取り上げて、本物がここにいますよ、と言わんばかりに、もう一度布団の中で彼を抱きしめた。



「…ん…ゆき…な?」



はい。今度こそ正解です。



温かな陽射しが、窓から潜りこんで柔らかな陽だまりを作る。流し見た空の色は鮮やかなブルー。きっと最高のお出かけ日和だ。分かっていても、この幸福は手放せない。願わくは、あと五分だけ。五分だけでいいから、どうかこのままで。


二つ寄り添う時計。古いものと新しいそれ。ここにいても良いんだよ、彼にとって無くてはならないものなんだよ、と認められた小さな俺の分身は、嬉しそうに小刻みに動く。いくら時間が噛み合わなくても、例え愛する人が九年先を歩んでいても。進む二つの針とそのままに、こうやって同じ時を一緒に刻めるのだね。


震える秒針は胸の鼓動。感じながら、今はただ二人安らかに眠ろう。



某素敵企画に参加したくて、カッとなって書いたお話。



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -