降伏条件



物心ついた頃から、彼はといえば紙とお友達だった。



記憶が残る幼少期の頃から、吉野は一人で真っ白な画用紙に常に何かを描いていた。当時はそんな彼の隣で同じように腕を動かしていたものだが、年を重ねるにつれて、いつの間にかやめてしまった。絵を描くことが嫌になったわけでは決してない。成長を遂げる過程で、未知なる物事を知り、未来への可能性を知り、そして現実を知っただけ。絵を描くことよりも自分のやりたいことを見つけた、と言えば聞こえはいいが実際はそうじゃない。絵を描くという行為が、他のどんな行為よりも「無意味」であると気づいた。つまりは、そういうこと。

だから幸せそうにせっせせっせと手を動かして、自分の頭の中にある空想を描く吉野を内心は馬鹿にしていた。いくら素晴らしい絵を描いたとしても、見知った大人に「上手ね」と褒められてそれで終わり。それ以外に何の価値も結果も見出せない。賛辞を受け取るために費やした時間があるのだとすれば、漢字の一つ、九九の一つ、覚えるのに利用する方が有意義だと。信じていた。疑いの一つも持たなかった。それを指摘する時間すら惜しくて、無駄に思えて、だから彼には何も言わなかった。


その認識が覆されたのは、数年も前の母の日のこと。子供の割には溜め込んだ貯金で二人分のカーネーションを購入した。これに似顔絵もつけようと言い出したのはやっぱり吉野の方で、まあそれもいいかなと思ったのは、その日に絵を送るのは妥当なことだと理性的に判断しただけ。無理やりに押し付けられた油っぽいクレヨンを受け取り、慣れない手つきでどうにかこうにか絵として完成させた。


元はといえばそんな場所に置きっぱなしにした自分の不注意のせいでもあるし、飲みかけのグラスをそんな場所に置こうとした吉野のせいでもある。気づけば、水浸しの画用紙。疲れが一気に出たものの、覆水盆に返らず、だ。濡れてしまったものはどうしようもないし、そんな不良品を母親に渡すわけにもいかない。とりあえず花だけでもあって良かったと冷静に考える自分とは正反対に、吉野は傍にあったタオルで何度も何度もその表面を拭っていた。


ぼろぼろと、涙を零しながら。


ごめん、芳雪。せっかく芳雪が描いてくれたものなのに、本当にごめん。ごめんね。


拭いたそばから吉野の涙が落ちるものだから、水を吸い取ろうとする彼の行為には全く持って意味がない。何度も何度も謝罪の言葉を繰り返しながら、はらはらと泣く吉野を見て。悔いたのは自分の方だった。

吉野は本当に絵を描くことが好きで、好きで。その好きな想いを、紙いっぱいに籠めていただけなのだ。誰かに褒められたいとか、有益な結果が欲しかったわけでもなく、ただ好きだったから。描きたかったから描いていただけ。完成させた絵の一つ一つは、言わば彼の心そのもので。だから思い込んだのだ。ちょっとした気まぐれで描いただけの母親の絵に、俺の愛情の全てが籠められているのだと。その愛を汚してしまったと考えたから、だから吉野は泣いたのだ。絵を傷つけたことが、俺の心を傷つけたことと違わないから。

無意識に、吉野の描くという行為を、彼の精一杯の「好き」という純粋な想いを。踏み躙ったこと、馬鹿にしていたこと、「無意味」という言葉一つで、全ての想いを否定していたこと。浅はかな自分の思考回路を後悔して呪って、彼と一緒に泣いた。


ソファーの上で我が物顔で、眠りこける吉野の姿が目に入った。夕飯を作って欲しい、と連絡してくるものだから、忙しい中わざわざ材料を買ってきてやったというのに。客人を出迎えるには、随分とふてぶでしい態度だ。

床に転がっていた目覚まし時計を手に取り、それを耳元で鳴らしてやった。昔からのお決まりの起こし方。切り裂くようなベルの騒音に、吉野の体がびくりと反応する。焦点の合わない瞳で、瞬きすること数回。ようやく自体を認識したらしい。呑気に、おはよー、トリと口にしながらけらりと笑う。


「夕食を作り終えるまで、きちんと仕事を片付けておけよ」
「はいはい」

寝ぼけ眼をごしごしと手で擦りながら、胸元に抱えていた原稿用紙に向き直る。それを確認して、背を向けた。買い物袋の中から本日の食事の材料を取り出して、頭の中で調理順序を組み立てる。さらりさらりと鉛筆が紙を削る音が聞こえた。やがてそれは、まな板を叩く包丁の音で掻き消され。


「そのうちでいいから、俺、トリの絵を描いてみたいんだけど」
「駄目だ」
「何で?」
「何ででも」


口にする料理に精一杯の俺の想いが籠められているだなんて、彼は知らない。昔の俺が今の俺を評価するのなら、叶わぬ恋に期待して、なんて「無意味」なことをしているのだと哂うのだろう。けれど、俺はそれでも好きなのだ。ただ、吉野が「好き」なだけ。出来上がった料理は、だから俺の心そのもので。全くの見返りを求めていないというのなら、それは嘘になるけれど。幸せそうに食べてくれることが嬉しい。美味しいと言ってくれることが嬉しい。

もし、何かの間違いで。不器用な吉野が自分の為に料理を作ってくれて。その料理が、もし駄目になってしまったときは、昔の彼と同じく、きっと泣いてしまうことだろう。


箸を運ぶ吉野が、どうしたらトリを描かせてくれるのだと真剣に尋ねた。



「お前がこうやって、俺を母親代わりにしなくなったら考えてやる」


ついでに、もう一つ欲を言えば。


失ったら泣くくらい、俺のことを好きになったらな。



降伏条件=幸福条件




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