そうだ、京都、行こう。


「トリ、俺、京都に行きたい」
 次の新連載のプロットの話をしていると、吉野が突然JRのCMのようなことを言い出した。
「……は?」
「だから! 今度の話の舞台に京都の街並みとかを参考にしたいって言ってんだよ」
 今回の話は今までとは少し毛色を変えてみたいと言っていたのだが、そういうことか。
 羽鳥は頭の中に叩き込んである予定と照らし合わせ、恐ろしい早さで日程の算段をする。
 スケジュール的にはかなりきついが、この吉野のやる気を上手く作品に繋げてやるのが担当編集としての仕事だ。
「わかった。何とか日程を組んでみよう」
「やった! この際時間が許す限りじっくり見て回りたいんだけど。俺、京都なんて中学ん時の修学旅行以来だからさ」
 そう言ってまさにその中学生のようにはしゃぐ吉野を見ていると、本当に取材旅行という意識があるのか疑問に思ってしまう。
 だが、ここのところオーバーワーク気味な彼を労わって甘やかしてやるものいいかもしれないと思ってしまった羽鳥の負けだった。


 そして羽鳥が高野に吉野の意向を打診したところ。
「お前のスケジュールの都合が付くなら、先生の希望に出来るだけ沿ってやればいい。留守の間のことは気にしなくていいから」
 というありがたい返事が返ってきたので、羽鳥的には少々厳しいスケジュールになるが来週の水、木の1泊2日で京都に行くことになった。
 その日の帰りに吉野の家に寄ってその旨を伝えた途端子どものように顔を綻ばせて喜ぶ姿を見ると、無理をした甲斐があったなと思う。
「……でも、1泊2日で京都を端から端まで周ろうと思ったら、かなり綿密な計画を立てなきゃダメだよな。嵐山にも行きたいし出来れば大原の方も見てみたいし……。だってこの時期だぜ? 桜の名所めぐりとか、よくね? 誰か京都に詳しい人が案内でもしてくれると助かるんだけどなー……」
「それはちょっと欲張りすぎじゃないのか。端から端までなんてどう考えても無理だろう。時間に限りもあることだし、ポイントを絞って見るしかしょうがないんじゃないか」
「うーん、そうなんだけどさー、せっかく行くのにもったいないじゃん」
 どうしても思う所全部を周りたい様子の吉野に、やれやれとため息をついた。


「京都って、シーズン中なら平日でも名所を案内してくれるガイドとかいるんでしょうか?」
 昨日から吉野の言葉が頭に残っていて、出張の申請書に判をもらいに行った時にふとそんな言葉が口から飛び出してしまった
「ツアーとか団体で行くなら付くんだろうけど、個人で行く場合はどうなんだろうな」
 その時、頼まれたコピーの束を持ってきた小野寺がひょいと高野の手元を覗き込んだ。
「羽鳥さん、京都に出張ですか。今が一番いい時期ですよね。けどきっと混んでますよ。上手に穴場を周らないと写真を撮るのも人が邪魔で難しいかもしれないですね」
 その口調がとても京都に詳しそうだったので、勢い込んで小野寺に尋ねた。
「小野寺は京都に詳しいのか?」
「え? いえ、あの、母方の祖父母が京都に住んでいるので、昔は母に連れられてよく行ってましたけど……」
「その、穴場ってのにも詳しいのか?」
「いや、あの、昔の穴場ですから、今はメジャーになってるかもしれないです、よ……?」
 羽鳥らしからぬ勢いに、思わず身を引きつつ小野寺は答えた。
「……高野さん! 出来るだけ吉川千春の希望に沿ってやれと言ってくれましたよね? 小野寺を貸して下さい。お願いします!」
「……え? え?」
 羽鳥の言葉に事情が分からず目を白黒させる小野寺と、承認印を押しながら一気に機嫌が降下した高野と、らしくなく必死に食い下がる羽鳥と。
 三者三様の反応を、外野の二人は楽しげに眺めていた。


 二人で行きたいなどと冗談なのか本心なのか分からないことを言っていた人見知りの激しい吉野だったので、第三者の参加にいい顔をしないのではと羽鳥は内心で心配していたのだが、その第三者が小野寺でガイドもしてくれるというと諸手を挙げての大歓迎ぶり。まったく現金なものだ。
 修羅場で助っ人としての有能さを目の当たりにして以来吉野は小野寺のことをとても気に入っていたので、今回の人選はとても妥当なものだった。


 こうして、急遽ガイドとして駆り出された小野寺を含めた吉川千春ご一行様は、これ以上ないほどの旅行日和の中東京駅からの始発で一路京都に向かって旅立ったのだった。



 何しろ真面目な性格の小野寺である。
 今回のガイドという任務を完璧に遂行すべく、京都に関する資料を山ほど作ってあらかじめ吉野に渡してくれていた。
 その資料を見て吉野が行きたいポイントを、何があっても絶対行きたい場所と余裕があるなら行きたい場所、の2段階に分けて絞る。
 羽鳥がポイントを絞れと言った時には散々ごねたくせに、小野寺から「ちょっとそれは時期と日程を考えると難しいですね」と困ったように微笑まれるとあっさり引き下がる吉野に本気で腹が立ったのは内緒だ。

 そして一行は京都駅に降り立った。
 シーズン中ではあるが、なんと言っても週半ばの平日なのでまだ比較的車の流れもスムーズだ。
 今日のうちに絶対行きたい場所を徹底的に周るのがいいだろうということで、着いた早々まず嵐山に向かうことになった。
 レンタカーを借りて、運転するのはもちろん羽鳥である。
 助手席にはガイドである小野寺が座るのは当たり前なのだが、ちょっとモヤモヤしたものを感じてしまう吉野だった。
 それを感じ取った羽鳥がバックミラー越しに目で宥めてくるのを、情けないやら嬉しいやらで慌てて視線を窓の外に向ける吉野を、羽鳥が目を細めて見ていたのを小野寺は知る由もない。

 嵐山に着き、車を降りて桂川沿いを歩く。
 渡月橋までの右岸沿いに植えられた桜の木々は今が盛りと咲き誇っていた。
 ちなみに、このあたりは地名にいちいち”嵯峨”が付く。
 ”嵯峨”と”桜”に激しく心臓をバクバクさせながら、小野寺は務めて平静を装って、まずは大覚寺を目指した。
 
 昼食を小野寺お勧めの茶屋で済ませ、腹ごなしに野宮神社から竹林の小道を歩き、最後に大河内山荘で抹茶と桜餡の桜餅を頂いた後車で市中心部に戻る。
 ここで今夜宿泊する宿に車と荷物を置き、徒歩で散策することにした。
 京町屋が並ぶ路地や石畳の坂道、ここに来るといつもタイムスリップした気分になるから不思議だと小野寺は思う。
 言われるままにかなりの数の写真を撮り、三十三間堂と清水寺に足を伸ばした頃には西の空が赤く染まりなんとも風情のある景色に思わず見入ってしまった。

「やっぱり京都はいいな。中学生の頃は、こんな風景にこれほど感動できなかったもんなー」
 しみじみと呟く吉野に、
「少しは大人になったってことか。あの頃のお前はひたすら食い物のことばっかりだっただろう。みやげ物屋めぐりの時が一番活き活きしてたじゃないか」
 と羽鳥が返す。
「……お二人はそんなに小さな頃からのお知り合いなんですね」
 隣でにこにこと二人のやり取りを聞いていた小野寺が感嘆を込めて言う。
「実家がお隣さんでさ。生まれた時からずっと一緒なんだよ」
「……そうなんですか。でも男同士の幼馴染っていいですよね。俺にも幼馴染の子がいるんですけど、やっぱり女の子相手だと羽鳥さんや吉野さんみたいにずっと一緒って訳にはいかないから……」
 何も知らないが故の小野寺の言葉に二人は微妙な表情で顔を見合わせた。
「で、でもさ。相手が女の子なら、その子と恋に落ちて将来結婚、ってことにでもなったら俺たちなんかよりずっと確実に死ぬまで一緒にいられるじゃん?」
 そう言いながら、吉野は自分で自分の言葉に傷ついてちょっと落ち込んでしまう。
 これから先何があってもきっと自分は羽鳥から離れることは出来ないだろう。それはきっと羽鳥も同じで、二人が同じように思ってるなら何の問題もないのだけど、客観的に見た時、やっぱり女の子と家庭を持つことが自然だということはどう言い訳しても変わらない事実な訳で。

「…………そうですね。その子を、そう言う意味で好きになれたら何の問題もなく幸せになれたんでしょうね……」
 小野寺がそう言って困ったように微かに笑ったその表情になぜか胸が衝かれた。
「…………さあ、もう宿に戻ろう。そろそろ夕食の時間になるぞ」
 羽鳥がそう声を掛けたことで、沈みかけていた小野寺がいつものように明るく言った。
「そうですね。俺、京料理がすごく楽しみなんです!」
 
 いつも何事にも一生懸命な好青年という印象が強かった小野寺が見せたらしくない表情がなんとなく気になって羽鳥に目線で尋ねてみたが、気にするな、という風に首を振るだけでさっさと歩き出した。




 宿に着いてチェックインを済ませると、すぐに夕食の用意が出来るとのことだった。
 部屋に通されると、その豪華さに思わず目を瞠った。
 8畳の居間と廊下で繋がった独立した同じく8畳の寝室。
 坪庭を眺める漆塗りの内風呂に檜の天井、桜の床柱、雪見障子。
 縁側からも一階の坪庭が望めるという、実に凝った造りの部屋だった。
「……ここ、いくらぐらいの部屋なんですか? 本当に出張経費で落ちるんですか?」
 お坊ちゃまの割りに、小野寺は経済観念がしっかりしているようだ。
「まあ、無理を言って来てもらったわけだから存分に風情を楽しんでくれ」

 荷物を置き、一息ついた頃に若女将の先導で夕食が運ばれてきた。
 見た目にも美しい京懐石が一品一品説明付きで並べられていくのを、吉野と小野寺はわくわくしながら見つめていた。
「……では、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
 そう言って美しい所作で退室していく女将と仲居さんたちを見てほうっと息をつく二人の様子があまりにも似通っていて、思わず羽鳥は笑ってしまう。
 そしてゆっくりと心づくしの料理を楽しみながら、新連載のプロットを語る吉野に羽鳥が時々口を挟んでストーリーを摺り合わせて行くのを、小野寺が静かに見守っている。
 時々吉野が小野寺に話を振ると、うーんうーんと考えながら一生懸命答える様子にはやはり好感が持てた。
「すごくいい話ですね、それ! 俺、吉野さんの今度の作品が今からすごく楽しみです! がんばってくださいね!」
 かなりの品数だったにもかかわらず、命の洗濯をしたせいか次々と箸が進み気がつくと綺麗に完食して苦しいくらいだった。
 
 少しお腹が落ち着いてから風呂に入ろうということでお土産を物色することにした二人は、夢中になりすぎて時間を忘れるな、という羽鳥の言葉に見送られてエントランスロビーにある売店を覗いてみた。
 アシスタントの子たちや、柳瀬にも何か買って帰らなければといろいろと手に取って見てみる。
 ふと見ると、小野寺の手には女の子が喜びそうな京ちりめんの小物が。
「それ可愛いね。さっき言ってた幼馴染の女の子に?」
「……あ、はい。彼女からは旅行のお土産を沢山貰ってるんで、こういう時に返しておかないとなかなか機会がないので」
「俺もアシの子たちに買ってこうかな。女の子ってそういう可愛らしいのって喜びそうだよね」
「はい、きっと喜ぶと思います。吉野さん、俺もちょっとお聞きしていいですか? エメ編の皆さんには何がいいと思います? やっぱりお菓子かな……」
「えー? トリに無理やり連れて来られたんだから、エメ編のお土産なんてトリに任せとけばいいじゃん」
 
 その時。
「俺が無理やり小野寺を連れてきたのは、お前がどうしても案内してくれる人が欲しいと言ったからだろう?」
「げ。ト、トリ……」
 待てど暮らせど戻ってこない二人に業を煮やして来てみれば、自分の言ったことも忘れてこの言いよう。
 まあ、これが吉野ではあるのだがやっぱりムカつく。
「さあ、買うならさっさと買って部屋に戻るぞ。明日も朝が早いんだから早く風呂に入って休まないと」
 この二人を相手にしていると、本当に自分が保育士か何かになったような気分になる。
 吉野は言うまでもないが、仕事の面では真面目で一生懸命な小野寺が、意外とこういう吉野と共通する面も持っているというのは面白い発見だった。
 とりあえず必要な土産を購入し、両手に荷物を抱えて部屋に戻る二人の後ろを付いて歩きながら、羽鳥はやれやれとため息をついた。


 大浴場で体を伸ばして湯に浸かると、日頃から溜まりに溜まった疲労が溶け出していくようだった。
 大浴場の大きな窓からも外の坪庭に見える。
 そして見上げると、雲ひとつかからないまんまるの月がその坪庭の緑を淡い光で照らしていた。

 風呂から上がって浴衣に着替え、やっぱ風呂上りにはビールだよな、とか言う吉野に1本だけだぞ、と釘を刺しながら部屋に戻る途中。
 突然どこかから携帯が震える音が聞こえた。
 思わずそれぞれの荷物を探る。
「……あ。俺です」
 携帯の着信を確認した後一瞬口元を綻ばせたのを見て、羽鳥は電波の向こうで小野寺が通話ボタンを押すのを待っている相手を察した。
「先に戻ってるからな」
「……すみません、俺もすぐに戻ります」
 ゆっくりしてていいぞ、と微笑んで吉野の腕を取ると足早にその場を去った。
 
「え? 何? 小野寺さんの彼女?」
 小野寺を一人置いて部屋に戻るのが彼への心遣いだと気付いて、吉野が興味深げに後ろを振り返る。
「こら。野暮なことは止めておけ」
 そして部屋に入って荷物を整理した後、吉野にビールを手渡した。
「あ、サンキュ」
 縁側に置かれたアームチェアに座って、缶のままカツンと音を立てて乾杯する。
「ぷはー、うまい! やっぱ風呂上りの一杯は最高だな!」
 一気に半分ほどを飲み干して、吉野は背もたれに体を預けた。
 湯上りで上気した頬に、アルコールが加わって浴衣の合わせから覗く鎖骨から首筋までもがほんのりと赤く染まって艶を放つその姿は、今の羽鳥にとっては強烈な毒でしかない。
 そして吉野はもう一度煽った。
「なー、トリ。もうちょっと飲みたい」
 立ち上がった羽鳥に空になった缶を差し出すと、それを受け取ってテーブルの上に置き肘掛に手をついてそっと唇を重ねた。
「ん……」
 するりと舌を忍ばせてビールの味が残る口内を探る。
 吉野は驚いて咄嗟に身を引こうとするが背もたれがあるので身動きが出来ない。
 舌を絡め合いひとしきり堪能した後、ようやく羽鳥は口付けを解いた。
「……い、いきなり何やってんだよ、こんなとこで!! す、すぐに小野寺さんが帰ってくるのに!!」
 アルコールのせいではなく今度ははっきり顔を赤くさせながら吉野はまくし立てた。
「お前が誘うような顔するからだ」
「そんな顔してない!」
「心配するな。小野寺はそんなにすぐには帰ってこない。小野寺が自分で電話を切らない限りはな」
「小野寺さんの彼女さん、そんなに長電話なんだ?」
「……もう黙れ」
 そして今度は、吉野をしっかりと腕の中に抱きしめてキスをする。
 初めは啄ばむようなキスだったのがだんだんと深いものに変わっていくのを、ダメだと思いながらも吉野も止められない。
「や……ダメだって……ほんとに、トリ……」
 こんなキスを続けていたら絶対にキスだけじゃ済まなくなる。
 二人だけの旅行ではないのだから、まして、忙しいところ無理を言って同行してもらった小野寺に不愉快な思いをさせるわけにはいかない。
「も、ほんと、頼むから……!」
 渾身の力を込めて、吉野は羽鳥の胸を押し返した。
「シャレになんないから、ほんとに!!」
 流されそうになるのを懸命に堪えながら必死に言い募る吉野を愛しそうに見つめて、羽鳥は、悪かった、と言った。
「わ、分かればいいんだよ、分かれば。ちょっと俺、冷たいもの飲みたくなったから買ってくる。トリもなんかいる?」
「……いや、俺はいい」
 恐る恐る羽鳥の様子を伺うと、向かい側の椅子に座って肘を付き柔らかく口元を緩めている顔に出会って慌てて視線を逸らし、くるりと背を向けて部屋を出た。
 
――――うわ……。俺が言ってるほど嫌じゃなかったの、バレてる。
 そりゃあ当然じゃないか。お、俺たちはこ、恋人同士、なんだし。
 好きなヤツにキスされて嫌なわけないだろ……。


 悶々と考えながら、確か大浴場に行く途中の廊下に自販機があったのを思い出して角を曲がった、その時。

「…………だから、そういうことを今言わないで下さい。もう切りますよ? …………いえ、そんなわざわざ来てもらうの申し訳ないですから。大丈夫ですって。お土産とか大きな荷物は宅配で送るつもりですし。…………え? いや、ほんとに……だって、羽鳥さんや吉野さんも一緒ですし、絶対ヘンに思われますよ。…………高野さん、そんな駄々っ子みたいなこと言わないで下さい。ちゃんと、急いで帰りますから……」
 
 思わずもう一度来た通路を引き返して角に隠れた。

――――え? 今、高野さん、って言った? 電話、彼女さんじゃなかったのか。…………え?
 
 人の電話を盗み聞きなんて趣味悪すぎだよな、と自分に突っ込んで、吉野は足早に部屋に戻った。

「……早かったな。自販機の場所が分からなかったのか?」
 何も持たずに戻った吉野を見て、からかうように羽鳥は言った。
「……いや、よく考えたら、あんまのども渇いてないかなーとか……あはは……」
 いかにも挙動不審な吉野に探るようなまなざしを向け、だがすぐに目を細めて入り口に突っ立ったままの吉野を手招く。
「な、なんだよ……」
 ばつが悪そうに、それでも素直に歩み寄る吉野の背中にゆっくりと腕を回した。
「トリ……!」
 わずかに抑えた抗議の声は唇で塞がれて。
「……小野寺の電話は、まだ当分終わりそうになかっただろう……?」
「……なんで、俺が小野寺さんを見かけたって……」
「なんとなく、だ」
 さらに唇を追いかけてくる羽鳥から逃れられず啄ばむようなキスを繰り返す。
「……で、でも、小野寺さん、マジで仕事忙しそうで……無理言って来てもらって、ほんと、申し訳なかった……」
 懸命に流されまいとするのに、
「…………もういいから、集中しろよ」
 こうして耳元で甘く囁かれた展開に抗えたためしがない。
 とうとう白旗を揚げた吉野ではあったが、最終防衛ラインを死守するための釘はしっかりと刺す。
「キス、だけだぞ。それ以上は、ここでは絶対やだからな」
「……分かってるよ」
 吉野だけにしか見せない柔らかな笑みでそう返されると、体中が熱く火照ってもう何も考えられなくなる。
 羽鳥だって小野寺にヘンな場面は見せたくないはずだから、その理性を信じてもう少しだけ、彼の大きな懐の温かなぬくもりに甘えることにした。

 
 
 
 その後さらにしばらく経ってから、ようやく小野寺がおずおずと部屋に戻ってきた。
「……すみませんでした」
 気まずそうに小野寺が頭を下げるのを、笑って「気にするな」という羽鳥の隣で、吉野もまた小野寺とは違う理由で気まずそうに視線をうろうろと彷徨わせている。
「……あの、羽鳥さん」
 顔を上げた小野寺が、突然それまでとは違った真剣なまなざしを向けてくるのを何事だと少し驚いて受け止める。
「なんだ?」
「…………あの、この宿って、別にヘンないわくがあったり……なんてこと、ないですよね?」
「……は?」
「いやあの…………た、高野さんが、夜中にヘンな物音とか気配がしても、絶対に目を開けるなって言ってたので……俺、そういうのちょっと苦手っていうか……いや、怖くて一人じゃ寝られないとか、そういうんじゃないんですけど!」
 勢いをつけて言い切ったあと、顔を真っ赤にした小野寺がいろいろな意味で可哀想になってぽんぽんと肩を叩いてやる。
「大丈夫だ。ヘンな物音も妙な気配も、そんなこと一切ないから。誓ってもいい」
 そう言ってやると、あからさまにホッとした表情の小野寺にやれやれと思う。
 高野が何を吹き込んだのか大方の予想は付くが、ただからかって反応を楽しみたいだけの言葉にこうも翻弄されるのは生真面目で素直すぎるゆえなのか、別の理由のせいなのか。
 おそらく後者なのだろうが、指摘するといろいろと面倒なのであえて言わないでおく。
 ちらりと吉野を見ると何も分かってなさそうな顔で眠そうに目を擦っているので、明日の予定を確認して今日はもう休むことにした。




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