4、
その日から、桂と新八の関係は少し変わった。お互いに何かに吹っ切れたようだった。
新八は桂の元をたびたび訪れるのはやめなかったが、恒道館へ帰宅するようになった。久しぶりに会う姉と九兵衞は、散々心配させただろうに、それを一言も責めず、嬉しそうだった。姉に桂に何か相談でもしたのかと聞こうと思ったが、やめた。

「顔色が良くなった」
割烹着なぞを着た桂が、そう言ってほのかに笑う。手には湯気の立った米が入った椀を持っている。新八は黙って茶碗を受け取り、黙々と飯を食べた。卓の上には煮物や野菜炒めなどが乗っている。あれ以来たまにこうして食卓を一緒にするようになったというのも、変化のひとつだった。久しぶりに食べた姉の手料理は相変わらずで、毎日食べている九兵衞がやつれないのが不思議だった。根無し草の生活をしていたころは適当なときに適当なものを摂り、栄養なんか気にかけなかったから、桂から見たらだいぶ顔色が悪くて実は気になっていたらしい。
桂の作る飯は結構美味い。それが昔から不思議だったが、両親も世話をしてくれた祖母も早くに亡くして、幼いころからずっと一人、食事の支度もしていたという過去を聞いて、納得した。しかし桂は反論した。
「いいや、昔から一人で煮炊きしてたから上手いというわけではないと思う…、たぶん銀時たちと暮らし始めてから、美味いものが作れないかと気にするようになったんだ」
「また銀さん、ですか」
呆れたような声に、桂はふふ、と笑う。
「そうだ」

桂は昔のことをぽつりぽつりと話すようになった。銀時はあまり自分の過去を話さず、それに合わせていたのか、桂からも聞いたことはない。腐れ縁だ腐れ縁だと銀時が言っていたし、幼いころから互いを知っているのだろうと思ってはいたが、いざ聞いてみると、腐れ縁どころではなく、桂と銀時の過去はほとんど重なっていた。
「12ぐらいのときかな、夜に銀時が俺の布団に潜り込んでくるようになって…、俺は寝たふりをしていたけどあちこち触られた。最初はその程度だったんだが、そのうち口吸いしてくるようになって、」
気が付いたらある夜銀時がちんちんをお尻に、と平然と言い放たれ、新八は茶を口から吹きこぼした。桂はその様子を驚いたように見ている。所謂、銀時と桂が恋仲になった馴れ初めとやらを強請ってみたのだが、新八が予想していたよりもそれは「なし崩しに」といったような展開で、勝手に思い描いていた恋物語とは違っていた。
「…その、寝たふりをしたままで、初めてされたんですか」
「いや…、途中で寝たふりがバレてしまって、そうしたらあいつは開き直って堂々と襲いかかってきた」
12歳のときの2人の姿を新八は知らないが、桂ならば、そのころからそれは美しい子供だったろうと思う。今でさえどこか少女めいた容貌を持っている。多感な時期にこんな顔が隣の布団で寝ていたら、早々にどうしようもなくなって血迷い出すのは仕方ないのかもしれない。新八は銀時に同情した。
「…嫌でした?」
「……いいや」
全然、嫌ではなかった…と囁くように言う。まるで陶酔するような表情だった。
ああ。
新八は銀時に再び同情し、そしてそれよりもたまらなく、嫉妬した。

桂は「銀時との思い出は大切で大切でたまらない、いつでも綺麗な…俺の宝物だ」と言った。
だから、あまり誰かに話したこともなかった。一人で思い出しては生きる糧にしていた。
そう言ったときの桂は今にも泣き出しそうな表情をしていた。新八は、桂がそうやって心の奥底にしまい込んでいたものを、自分が無理やりに引きずり出して暴いてしまおうとしたことに気付いた。否、暴いてしまったのだった。桂の口を通して聞かされる二人の思い出は、青臭くて、稚い少年たちの物語らしく、だけどときに甘やかな色を帯びていた。無性に幼いころの桂の姿が見たかったが、写真ひとつ残っていないと言われた。
「写真なあ。あの時代でももう写真屋はいてな、何枚か皆で撮った記憶もあるんだが…、どこへ行ったやら。一枚くらい手元に残しておきたかったな。せめて、銀時のものだけでも…、小さいころの銀時はとっても可愛らしかったぞ。ちょっと口が達者過ぎたが、髪の毛も今よりずっとふわふわで」
「処女膜だのなんだの言ってくる子供なんて嫌ですよ…、俺は貴方の写真が見たいんです」
桂は困ったように笑う。今とさして変わってはいまいよ、などと言う。そんなわけはあるまい。稚い桂はどれほど可愛らしかったことだろうか、新八は話を聞きながら、その姿をよく想像しようとした。

銀時の胸の中にも桂と同じように、桂との思い出だけをしまい込んだ部分があったのかもしれない。二人が今まで誰にも話さなかったことを聞いていることには嬉しさと、優越感があった。しかし同時に、桂はそれを新八に話すことで、銀時を過去のものにしてしまおうとしているのではないかと感じた。

そうだとしたら、許せない気がした。

つくづく自分は勝手な人間に成長してしまったものだと思う。腕の中に抱いた裸の桂はすやすやと寝息を立てている。桂は自分に身体を拓いてくるようになり、情事の数は増えた。そうしてみると桂は随分甘えたで、今も新八の身体に絡みついたまま鼻先をこちらの胸に擦り付けて眠っている。最中もよく抱きついてくるようになった。まるで…まるで恋仲のようだった。銀時のようになるな、と言った桂だから、銀時の代わりにされている、などという愚かな考えは持たないようにしている。しかしそちらの方が良かったのではないかと、ふと考えることが一日に何回もある。

土方のことについてだが、あれから、土方に会う機会が一度だけあった。向こうが桂の家を訪ねてきたのだ。夜更けー、真夜中といってもいいような時間帯だった。桂は新八の腕の中でまるで幼子のように眠っていた。新八はまだ身体が熱く、持て余していたが、桂は疲れていたのか早々に気を失ってしまって、仕方なく腕に抱いてじっと夜明けを待っていた。あるいは桂が目を覚ますのを。
そんなところへ土方がやってきて、新八は激昂した。一方の土方は、思いも寄らぬ人物がいきなり登場してきて面喰らっていた。
「いったい何の用です。こんな時間に!」
「…お前、万事屋の眼鏡か。お前こそここで何してんだ」
何をしているかだと!そう心の中で怒鳴り散らして、しかし新八はどうしようもなく苛々したまま静かに続けた。
「彼なら眠っています」
「…そのようだな」
土方は布団の上に散らばる長い黒髪をみてそう言った。あろうことかこの男は図々しくも玄関から入ってきて、寝室の前に立っているのだ。新八はそこへ立ちはだかって土方の寝室への侵入を阻止した。布団にくるませたので桂は髪ぐらいしか見えないが、布団の下は何も身につけていない。桂の白肌のほんの少しさえ、土方には見せたくなかった。たとえ目の前のこの男が、少なくとも一度は桂の身体の隅々まで暴いたことがあっても。そう考えると途端に胸がムカムカしてきて、新八は低く唸った。今だ腹の奥底で燻り続けていた怒りと嫉妬に、急に全身を支配されたようだった。
土方はしばらく怪訝な様子をしていたが、ようやく頭の中でその可能性に行き当たったらしく、次第にその整った顔を歪めていった。新八はさらに怒りが増すのを感じた。土方はおそらく今の瞬間まで、新八が、兄を慕うような気持ちで桂の元を訪れていたとでも考えていたのだろう。
「…てめえも良い度胸してんな…、上司がいなくなったからってそいつのイロに手ェ出すなんざ、…それとも奴がいたころから筆下ろしでもしてもらってたのか」
趣味の悪い、シニカルな笑みを浮かべた土方の顔を、思いきり殴った。彼は派手な音を立てて壁に激突したが、直ぐに体制を立て直し、桂の方を見る。新八も同じようにうすく膨らむ布団を見た。そこはぴくりとも動かず、散らばる黒髪も静かなままだった。
「…まったく、よく寝てやがるぜ」
「寝てるというか気絶してるんですけどね」
土方は舌打ちし、しばらく桂の方を眺めていたが、そのまま黙って去っていった。新八は部屋に戻り、寝息に合わせてゆっくりと上下する布団に向かって囁いた。
「…、起きてるんじゃないですか?」
三秒ほどたってから、布団が静かに隆起して、ほの紅い顔の桂がこちらを睨みつけた。紅いのはつい一時間ほど前に新八に散々身体を追い詰められたせいだ。
「ああ、お前たちのじゃれ合いのおかげで」
じゃれ合いだと!あのまま土方が反撃していたら、間違いなく酷い乱闘にー、否、殺し合いに発展していた自信があった。
「…俺がここへ来ないときは、ああして土方さんが来ていたんですか」
「あれがここへ来たのは二度目だ」
桂が素早く反論した。
「…もう…ここへは来ないようにと…、連絡した。納得が行かずに来たのだろう」
「…いいんですか」
ああ、と桂が呟く。新八は土方の鋭い目の中の、燃えるような色を思い出した。情熱と、欲と、憧憬の色だった。青臭くて激しく、あんな瞳で見つめられたらさぞ居心地が悪いどろうと思う。それとも桂は、あの瞳のせいで彼に身体を許したのだろうか。
「あの人、貴方のこと好きなんだ。敵だった癖に」
桂は肯定も否定もしなかった。
「…俺みたいに、銀さんの真似っこして、貴方に執着してる男より、あの人のそばにいた方が貴方は幸せかもしれませんよ」
もちろん、桂が土方を選ぶようなことがあったら、身を焼かれるような嫉妬と妄執に屈して、新八は桂を許さないだろう。それが分かりきっているのに、桂をそうやって幸せにしてやる気などないのに、なぜ口からこんな言葉が出たのか、新八は後悔した。しかし桂は小さく笑った。
「君のそばも土方のそばもそう変わらない。銀時ではない男の隣なんだからな」
不思議なことに、腹は立たなかった。けれど胸が締め付けられたような感覚がした。桂はいつも小さな花のようにほのかに微笑むが、昔はもっとにこにこと、その小さな顔に大輪の花を咲かせるように笑うこともあった。滅多なことではそうは笑わなかったし、いつもいつも一瞬だったけど、でも確かにとても幸せにそうに笑うこともあったのだ。久しくあの笑顔を見ていない。桂があの笑顔を見せるのは、必ず銀時が隣にいた。

ある日、桂がほんの少しの間留守にすると言った。どこへ行くとも言われなかったし、それならばと妙な意地をはって聞かなかった。たぶん2.3日で済むとだけ告げて、桂は簡素な旅支度をしてどこかへ出かけた。結局、帰ってきたのは一週間後だった。久しぶりにその体に触ると、元から細かった肢体がさらに小さくなっていて、新八はそのときまでは尋ねるのを我慢しようとしていた旅先について問い質した。桂は、
「高杉と坂本に会っていた」
とぽつりと呟いた。琥珀の瞳がゆらゆらと揺れている。
「二人を…、見送ってきた」
「……そうですか、」
新八は二人のことについて悟った。あの二人が地球に降りてきたという話も、どうやら病に臥せっているという話も、新八は知っていた。桂は泣き出しそうな表情で、ただ何かを耐えている。新八は小さな身体をそっと抱き上げ、ふるえる肩や背を撫でてやった。

それがどれだけの慰めになるのか自信はなかっが、友人をみんななくしてしまった桂を、一晩中そうしてあやしていた。

これでいいではないか、と心の内で囁く。銀時もいない。幕府ももうほとんど力などない。桂はもう追われる身ではない。そしてこの人ひとりくらいなら、きっと護ってやることができる。何もかもなくしたこの人と、この退廃し終わりかけた世界で、支え合って密やかに生きるのだ。
それはそれで、哀しくも、とても魅力的なことのように感じた。

5、
街でチンピラに囲まれていたので助けた男は、奇妙な奴だった。銀時の知り合いだと名乗ったが、新八はあまり信用する気にはなれなかった。どうにも胡散臭く、関わり合いになりたくはなかったが、何が目的なのか男はお登勢の店まで着いてきた。会いたくなかった神楽まで一緒で、新八はうんざりしていた。ただでさえ明日には重要な仕事がある。失敗できない仕事だ。
明日は桂の処刑が行われる。

少し、牢に入る。
そんなことを言われたのは、数ヶ月前の夜、一通り身体を絡ませたあとのことだった。新八は痩身を抱いたまま、いずれそういうことを桂が言い出すかもしれないと思っていたので、そう驚きはしなかった。桂はもう一時のように、指名手配犯らしく住居を転々としたり、街中でパトカーに追いかけられたりはしないが、それでも瓦解しかけの幕府にとってはまだ価値の高い首であるらしかった。
そんなことを許す気はなかったので、強固に反対したが、桂はそのときばかりは頑なに譲らなかった。幕府に捕まっている平賀源外の処刑が決まったという情報が流れてきてから、数日だった。
「源外さんの為でしょう。…俺だって動いてますよ」
拗ねたような口調になった。動いているとはいっても、失敗続きで、源外は面会には現れるもののろくに話さえ出来ていない。しかし桂はそのことには触れず、不機嫌な若者の頭を宥めるように撫でた。その桂の表情はいっそ憎たらしいほどに綺麗だった。
「六月がくる前には牢から出る」
「…必ずですよ」
六月は、桂の誕生月だ。梅雨が明けて、空気が雨で洗い流されたみたいに澄んだ末のころに、桂は生まれたのだ。新八は贈り物のことを考えていた。まだ六月まで幾らもあるのに、気が早いと桂には笑われたが、うかうかしてると、新八には桂に相応しい贈り物など到底思いつかない。
「べつに何も…いらないぞ。その日に一緒にいてくれればじゅうぶんだ」
桂はそんな可愛らしいことを言う。もちろんその望みは叶えてやれるが、新八はそれでは物足りないと反論した。顔をしかめさせながら悩んでいると、桂がそれなら近場に旅行にでもいこう、と提案した。白疽が蔓延してから、旅館やホテルといった施設がまだあるのかどうか疑問だったが、桂は温泉に入れれば泊まるのはどこへだっていいなどと言う。
「誕生日を楽しみにしてるぞ」
そして朝に別れ、その翌日には、新八は桂が近藤勲と共に幕府に捕まったことを知った。姉が白疽に罹ったのは、その少し後だった。

「ヅラヅラって、あんたヅラとも知り合いなの?」
神楽が焼け焦げた髪の毛の一部をどうにかまとめようと奮闘しながら、例の妙な男…珍宝に尋ねた。河原の処刑場でひと騒動起こした後のことだった。どうにか幕府の追手を各自でまいて、ひと気のない川原で合流した。
神楽の問いかけに、珍宝は途端にぎくしゃくしながら「いやいや銀さんからそれはしつこく話を聞いてたからね。幼馴染のヅラについては」と答えた。神楽はしばらく訝しむように珍宝を眺めていたが、やがて視線を桂に戻した。数ヶ月ぶりに牢の中から出てきた桂は仲間たちに取り囲まれて、ほとんど縋られる勢いで泣きつかれていた。その中に元真選組の隊士だったと記憶してる顔もちらほらいて、新八は小さく舌打ちした。
桂は真選組を使うつもりだろうと予想していた。結果はその通りで、だからこそ面白くない。沖田から接触があったのは数日前。新八は処刑場で起こることを知っていた。土方とエリザベス、そして沖田が二方からタイミング良く桂たちに近づけさせる為に、離れたところで処刑人たちの動きを把握して、合図を送るのが新八に与えられた仕事だった。源外はあらかじめ桂が今日に先んじて逃していた。
沖田があの気に食わないチャイナも、いればいたらで目立って地味なお前を見失わないのに役に立つから、などと本当のところはどうなのか、ともかくそう言い張るので、神楽と連れ立って処刑場へ向かった。神楽が処刑場へ行くだろうことは分かりきっていたから、骨を二、三本折る覚悟で首根っこ引っつかんで連れて行く必要はなかったが、余計なものにまで着いてこられるハメになるとは思わなかった。
その、余計な男は、感情の読めない瞳で、神楽と同じように周りの者に微笑みかける桂を眺めている。桂を囲む輪はいっこうに崩れず、早く移動しなければそろそろ不味いのではないかとぼんやり思い始めた。
「…相変わらずね。ちっとも変わってないように見える」
「…桂さんのことか?」
「ふうーん。まだ桂さんって呼んでるんだ」
ちりちりとした言い方だった。
「なんだよ」
「べつに。余所余所しいふりなんてしなくてもいいんじゃないって、思っただけよ」
神楽は暗に、桂との関係を知っていると言いたいのだろう。誰かに吹聴したことはないが、姉もうすうす気付いていただろうし、土方のこともある。元真選組はお節介が好きな集団だから、養い親を失った知り合いに対して、少し前の新八にしたように、神楽の方にもとやかく世話を焼こうとしてきたことがあるはずだ。土方が桂の家での顛末を仲間たちに詳しく話すとは思えなかったが、勘の鋭い沖田あたりが悟ったのかもしれない。沖田に呼び出されて元真選組の会合に参加したとき、メンバーが新八と土方をなるべく遠ざけようとしていた。神楽は沖田に聞いたのだろう。
件の土方は、輪から少し離れた場所で熱烈に桂を見ていた。鋭い眼光に常にはない熱を滲ませて、呆れ返るほどに露骨な眼差しを向けている。ふと肩にいきなり重みがかかり、そうだろうなと思ったが、やはり先ほどまで近藤のそばにいた沖田が新八の肩に腕を回して悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「桂さんが溶けちまいそうでさあ」
あいつの視線でね、と囁く。沖田は新八がうるさそうに不機嫌な面でいるので、ついと今度はぼけっと突っ立っている珍宝の方に視線を投げた。しかしようやくそこで隠れ家に移動しようという算段になったらしく、わらわらと群れたままその場を後にすることになって、会話は途切れた。
そのまま宴に参加するつもりはなく、久しぶりに目にした桂にだいぶ未練はあったものの、新八は隠れ家をあとにして姉の元へ向かった。去り際に土方を一瞥すると、彼は真っ直ぐに睨み返してきた。一方の珍宝は、複雑な表情で桂を見ていた。哀しいような、嬉しいような、奇妙な印象の顔だった。しかし小さな瞳の中に、一瞬だけ土方によく似た光があった気がした。ここに残って桂に張り付こうかと半ば本気で思ったが、病院で自分を待っている姉を蔑ろにする訳にもいかなかった。

珍宝のことを銀時だと思い込んで微笑む姉の表情はそれまでにないほど穏やかで、新八は哀しくて仕方がなかった。勢いこんで珍宝の芝居にー、万事屋結成などとー、乗ってしまったが、新八は昔着ていたものとそっくりの着物を前にしてただ躊躇っていた。昔の格好をするようにと提案したのは神楽だ。あちらは朝になったらまたあの懐かしい赤いチャイナドレスを着てくるつもりだろう。ぎゃあぎゃあと一通り昔のようにやり合ったあとで、神楽は楽しそうに見えた。新八のこの着物は昔そのまま着ていたものはとうに丈が合わなくなっているが、姉が新しく縫ったものが家に置いてあった。
「…懐かしいな」
振り向くと、音もなくするりと、風のように現れたように、桂が縁側に立っていた。
「宴会はもういいんですか」
頬を少し紅く染めたかんばせが、こっくりと頷く。可愛らしい仕草だった。手を伸ばすと、桂も大人しく従順に腕の中に収まる。雨露と夜の空気を吸い込んで着物も髪もしっとりと湿っていた。甘やかな匂いがした。桂の匂いだ。
「ただいま」
「……おかえり」
「リーダーから聞いたんだ。…万事屋再結成、だそうだな?」
「……」
「納得していないのか?」
桂が抱き込まれたままで顔を覗き込でくる。きらきらと潤む琥珀色を久しぶりに見つめた。頭の中のごちゃごちゃと絡まる感情が、少し緩む気がした。
「…胡散臭い男なんですよ。なのに、神楽ちゃんも定春もすっかり懐いてるし。断れないでしょう。姉上に…約束してしまったし…、あの男…、なんなんでしょう。なんとなく…なんとなく、銀さんに似ているけど」
「珍宝殿か。確かに不思議な男だ。奇妙なことに、あの男から銀時と同じ気配がする」
新八はまっすぐ桂を見つめた。美しいかんばせには何の動揺も偽りもなかった。まさか、という思いが心臓の鼓動と一緒に大きくなる。
「…新八くん。彼は、珍宝殿、だ。そう君たちに名乗ったのだろう。銀時ではない。…少なくとも今は」
「そんなの…、」
しい、と囁いて、桂が新八のくちびるに口付ける。それはすぐに離れた。何か言う前に桂はするりと逃げて行く。
「明日は早いぞ。…おやすみ」

銀時が生きていたら。生きていて欲しい。そう何度も願った。今も心の底から願っている。生きていてくれと、全身が叫び出しそうなほどに。おそらく桂も。きっとこの町に生きていた誰もが。
だけど銀時がいたら、桂とこんな関係にはならなかっただろう。先ほど腕の中に閉じ込めた華奢な肢体と、艶やかな黒髪から香る甘い匂いを思い出した。着物の下にひっそりと隠しているあのなめらかな白い肌のことも。とろりと濃い蜂蜜のような、かたくきらめく琥珀のような瞳に愛おしげに見つめられる悦のことも。銀時がいたら、桂は決して自分のものにはならなかっただろう。
一度手に入れたと思ったものをー、しかもこれほど甘美で素晴らしいものをー、手離す覚悟をしなくてはいけないのだろうか。
新八は途方に暮れて桂が去って行った夜の闇を見つめた。そして数刻前、病院からの帰り道での珍宝とのやり取りを思い返した。

(神楽の姿が見えなくなってから、新八はくるりと振り返り少し後を見つめた。曲がった電信柱の影からバツが悪そうに珍宝がゆらりと出てくる。
「あのよう…、桂のことなんだが」
「…なんだ?」
「なんつーか…あいつ、土方と…その…デキてんのか?」
新八はしばらく無言になった。
「いや、なんか、すげえ親密そうに見えたっつーか。もともと敵同士だった癖に妙に近くなってた気がしたからよ」
まるで、敵同士だった以前の土方と桂の様子を見ていたような言い草だと感じた。しかしそれはひとまずどうでも良い。新八は数ヶ月前に見た、あられもない桂の姿を思い出した。土方に抱かれて、全身に口吸いの赤い跡をつけられていた、いやらしく腹立たしい艶姿。あれからー、あの一悶着があって、桂に選ばれたのは自分の方だと信じていたが、土方の桂を見つめる眼差しには、今もなお恋慕と欲情の色があった。恥ずかしげもなく、あれほど熱い目で桂をー、彼はもう自分のものだというのにー、そう思うと腸が煮えそうなほどの怒りがわいてくる。
「…おい…、」
知らずのうちに怒りが顔面に出ていたらしく、珍宝が訝しげに見つめてくる。そういえばこいつも桂のことを妙に眺め回していたと思い出して、苛立ちはさらに募った。
「あの二人が?べつに。何もない。土方の方は桂さんのことが好きでたまらないようだが、」
何も、のところを強調し、鼻で嗤う。その様子に珍宝は少し驚いたようだが、すぐに安堵したような息を吐いた。
「ああ…そうだよな、いやべつに俺はそういうのどうでも良いんだけどよ、桂はほら、あれだ、銀さんの…その…、大事なもんっていうの?」
「…恋人、だろう」
「あー…、そう、それ…、だからその、俺もちょっと気にしてやらねーといけないかなって、銀さんがいなくなってあいつもかなり落ち込んでたみたいだし、」
珍宝は銀時に何をどう話したのかは知らないが、銀時は桂について本当のことを一切に新八に話さなかった。それなのに、この男には喋っていたのか?そう思うと、種類の違う苛立ちがさらに上乗せされて、新八は歯を噛み締めた。
「安心しろ。桂さんは…今は俺の”大事なもん“、だ」
だからお前なぞに心配される必要はないのだ、ということを言外に込めた。珍宝は一瞬何を言われたのかわからないといった様子で呆けていたが、見る見るうちに顔色が変わるり、新八は身構えた。珍宝から威圧的な殺気が立ち昇っている。
「…貴様、銀さんの墓参りをしたいだのなんだの言ってたが、本当のところは桂さん目当てか?」
どいつもこいつも。あの人に恋慕を向ける奴ら全員の前で桂をめちゃくちゃに抱いてやりたい。現実的ではないことを思いながら、新八は木刀に手をかけた。
珍宝はしばらく押し黙ったままでいたが、やがて殺気は薄れー、それは薄れるというより、身体からもれるものを無理に押さえ込んだように感じたのが近かったがー、力なく笑った。
「…べつにそんなんじゃねえさ」
笑っているくせに、今にも泣き出しそうにも見えた。こんな表情をいつだかも見たことがある。とても似ている顔を、見ていたような気がする。銀時の顔が浮かんで、そうだ、それは銀時がたまに見せる複雑な表情の一つだったと思い出した。
「なあ、明日は仲良くやろうぜ。お妙に約束してやっただろう」
そうしてひらりと手をふって、珍宝は万事屋の方向へ歩いていった。)

6、
新八は動けずにいた。ターミナルの廃墟の中、厭魅と銀時が激しく闘っているのを見つけてその場へ急いだが、たどり着いたときにはすでに遅く、決着がついた後だった。腹を一突きにされた厭魅がするすると包帯を解いていくのを、そしてそこからよくよく見慣れたふわふわの髪が出てきたのも、新八は陰から言葉もなく見ていた。あれほど探し求めていた銀時が、珍宝にー、あれは銀時だ、もう一人のー、貫かれて死にかけているというのに、ただ押し黙って黄昏の中の二人の男のやり取りを見ていた。全てのやり取りが終わって、珍宝がふらふらと上へ向かう。新八はどちらの銀時のそばへ行くべきか迷い、その間に、もう一つの影が闇から静かに出てきた。
桂だった。
自分と同じように二人を見守っていたのだろう、桂は、木刀に貫かれた銀時に歩み寄り、そっとその体を抱き締めた。白い頭が揺れて、閉じかかっていた瞳が目の前の桂を見つける。ヅラ、と小さく呟いた口からはまた血が溢れて流れた。笑ったのだと気付いた。
「銀時…、」
「…なんだ、お前、変なツラしてよ…」
「銀時!」
「…泣いてんじゃねーよ…、」
もう、動かすことさえ困難であろう両腕が、どうにかきごちなく持ち上がり、しゃくり上げる桂の背を撫でる。優しく優しく、撫で上げる。
「ああ…、まぼろしじゃねえんだなあ…、何回もお前の…幻を…、夢を見た…、そばに行けねーけど…、何回も…会いに行った…お前を見てた……、」
「銀時…、会いたかった…ずっと…、どうして…、お前ばかり…、」
どうして、と桂は繰り返し泣く。銀時の痩せてこけた頬に浮かび上がる梵字をふるえる手で桂が包み込む。琥珀の瞳からきらきらと零れた涙の粒が銀時の額や頬に落ちて、それを受け止めながら銀時は眩しいものを見上げるように桂を見つめた。
彼の瞳に映る桂はどれだけ美しいだろう。己だって、何度も何度も桂の美しさに、可憐さに胸を打たれてきたけれど、新八が見つめたどの桂よりも、きっと今の彼に見える桂は美しいのだろう。あんなにも生きていてくれと願った銀時が、死にかけているというのに。自分の恋人が他の男に縋りついているというのに。新八は半ば陶然とながらその様子を見ていた。
「ごめんなァ…、ごめんな…、地球こんなんにしちまってさ…ごめん…」
「どうして謝るんだ…!お前のせいではない
!お前の…せいでは…っ、」
桂の言葉は途中からほとんど嗚咽に飲まれて、心臓に突き刺さるような、悲痛な泣き声がターミナルに響く。銀時は桂に抱きしめられながら、口からは絶えず血液を流していたが、それでも満足そうに微笑んでいた。
「大丈夫だ…、全部変わる…、あいつが変えてくれる…、こんな世界にならないように…、…、」
「嫌だ…!そんなのは…、そんなことは…、銀時…っ、お前の背負うものは全て一緒に背負っていきたい…っ、一人で行ってしまわないで……」
銀時の声がだんだん小さくなり、掠れていく。命の灯火が薄れていく。桂は必死に、抱きしめている身体に縋りつくように、泣き続けた。
「…伝えたいことは…、たくさんあるんだ…、だけど…、時間がねえな…、」
それは最後の言葉だった。銀時は泣き続ける桂の頬に優しい口づけをして、とてもとても小さな声で呟いた。
あいしてる。
そして遂にふつりと力をなくした。

桂の嗚咽も銀時の囁き声もなくなった世界はとても静かで、影から二人へ歩み寄った新八のわずかな足音が思いのほか大きく聞こえた。
桂が振り返る。その腕の中には、息絶えたばかりの銀時が穏やかに目を閉じていた。見開かれた琥珀の瞳が溶けそうなくらい、そこからはらはらと涙を流した桂が、呆然と新八を見上げる。夕焼けの橙を反射して、桂のなめらかな頬を伝い落ちる雫は蜜のように見えた。
「新八くん…」
腕を伸ばして、桂の頬を流れ落ちるものを拭ってやりたかったが、左手も右手も動かなかった。
「新八くん…頼む、銀時を止めてくれ…自分を殺しに行ったんだ、昔の少年のころの銀時を自分で…、そんなことをさせてはいけない…、そんなことさせたくない」
銀時を止めなければいけないことは、新八にも分かっていた。けれどここで、桂を厭魅の亡骸と一緒に置き去りにしたくなかった。ここで別れれば、もう二度と会えないような気がした。
きっともう桂を腕に抱きしめることはないのだ。桂はすでに夜叉にー、この世界を滅ぼした男にー、絡め取られるように抱かれている。もうここから動くまい。
「新八くん…、」
新八は踵を返して、もう一人の銀時の後を追った。背後からさよなら、と小さな声が聞こえた気がした。新八はその瞬間に様々なものを断ち切る覚悟をした。

7、
世界が白く浄化されていく。指先の細胞ひとつひとつから、溶けて、あらゆるものと混じり合って、どこかへ飛ばされていくのを感じた。同じように時間の渦の中に巻き込まれた仲間たちも、同じことを感じているだろう。これで全て元通りになる。銀時が若き白夜叉を殺す必要はなくなり、彼の身体をウィルスが蝕む未来も消えた。
新八はかつての暖かな日々のことを思い出した。銀時がいて、そしてその周りを様々な人物が取り囲んでいる。桂も。かつて望んで望んで、この世界ではついに取り戻せなかった光景。幸せで愛おしい日々。
意識が途切れて、そうしたら、何も覚えちゃいないのだ。桂と過ごした哀しくて愛おしい日々のことは全て、新八の中から消える。桂の中からも。世界のどこからも。そんな事実があったことさえ綺麗に消えてなくなるのだ。
銀時の隣で笑う桂の姿が浮かんだ。綺麗だった。





「どうかしたか?」
桂が不思議そうに覗き込んでくる。新八は水羊羹の匙を咥えたまま、瞼を二、三回瞬いた。そこで新八は、そういえば水羊羹を食べていたということを思い出した。ずっとずっと前のことを思い出したような、妙な感覚だった。
ぼうっとして…、暑いからなあ、熱中症に気をつけないと。水分はたっぷりとらなきゃダメだぞ。桂は新八の額に手をあて、首を傾げる。
「…いえ、なんでもないです」
「そうか?具合が悪ければすぐに言うんだぞ」
桂はそれきり黙ってお茶を飲んだ。新八は食べかけの水羊羹の続きをまた口に運ぶ。ひんやりとよく冷やされていて、甘くて美味しい。桂がおやつに持ってきてくれたものだった。頭の奥の方でその甘さをぼんやり感じながら、新八はさきほど額に当てられた桂の手について考えていた。白くてほっそりとした手だった。覗き込まれたときに視界いっぱいに広がった美しい顔、その中のきらきら輝く琥珀の瞳、小さなくちびる、なだらかな頬についても考えた。
なんだか夢を見たような気がする。内容はまったく思い出せないが、桂のその手や、瞳や、くちびるに引っかかるものがあった。桂の夢をみていたのだろうかと思った。
「ねェ、今日はヅラの誕生日なんデショ?それなのに逆にヅラに水羊羹貰ったネ。いいの?私たちがなんかあげなきゃいけないんじゃないアルか?」
神楽が自分の分の水羊羹を平らげ、桂の分まで強請ってすべて食べてしまってから、一息ついて、思い出したように言った。銀時が「あー…、いいのいいの」と勝手に答える前に、桂が笑う。
「いいんだ」
「こいつ、安上がりな奴だからさ。誕生日とか言っても滅多に…つうか絶対ものとか強請んねーから。こっちがせっかく何かやるって言ってもよー」
一日一緒にいてくれとか、そんなんばっか。
隣でその文句を聞きながら、桂は少しだけ頬のあたりを赤くして黙っていた。
「お前さァ、水羊羹もいいけどクリームたっぷりのアイスクリームとかケーキとか持ってこいよ、次は」
「洋菓子より和菓子の方がかろりーも糖分も控えめなのだぞ」
「糖分とるために菓子食ってんだよ」
まったく、銀時は。呆れたような調子でー、声だけはそう装ってはいたが、新八がちらりと見ると、銀時の隣で桂は、笑っていた。幸せそうで、美しい笑みだった。







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