【人魚の夢】
桂が人魚に遭ったのは、17の夏のことだ。ちなみに、この場合の「遭った」は漢字の誤変換ではない。

彼女は玉虫色の鱗でおおわれた魚の下半身をもっていて、うす水色のシフォン素材のような尾びれがついていた。水の中でゆらゆらと漂う髪は長く、藍の強い不思議な色をしていた。海の底で見る彼女は全体的に青みを帯びていて、美しくはあったが不気味だった。
ところで、どうして桂が海の底にいたのかというと、彼にはうまく説明ができない。気がついたらすでに珊瑚と貝殻と青くたゆたう水泡の世界だったのだ。そして、傍らに人魚がいた。彼女は名前を真砂と名乗った。

理由を思い出せないが、桂は怪我をしていた。海の底では、赤い血液の色でさえもその鮮明さを失い、なにか別のもののように水のなかを流れた。真砂は甲斐甲斐しくその怪我の手当てをした。
桂は真砂にいくつかの質問をしたかったが、口を開けば出てくるのはコポコポとした細かな泡ばかり。言葉にはならなかった。よって、桂から真砂にコミュニケーションをとるには、桂は多様な表情と豊富なジェスチャーで感情や意図を表現する方法をとらねばならなかった。真砂の方は、さすが人魚というべきか、どんな声帯の構造をもっているのか知らないが、水のなかで淀みなく言葉をつむぎ、それは明瞭な響きで桂の聴覚に届いた。しかし、真砂は口数の多い女ではなかった。
彼女はどこからか果物を調達し、どこでやってきたのか調理した貝などを桂に食わせた。甘い果実も海水と共に噛めば塩気が多くなってしまうのだが、桂はいつも残さず口に運んだ。真砂はその様子を静かに眺めていた。言葉にはしないが、喜んでいるように見えて桂も嬉しかった。真砂はまたそこらから珊瑚の欠片や綺麗な貝殻などを持ってきて、それを材料に目を見張るほどの豪奢な髪飾りや首飾りを作り出した。どうやらそれが彼女の仕事であるらしい。どこぞへ出掛けない限りは、真砂はいつも桂の休んでいる傍で仕事をした。人魚にも仕事があるのだなあと、真砂の淀みなく動く手の様子を眺めながら桂は面白く思った。他の人魚の姿は見えないが、あの見事な装飾品は、きっと他の人魚たちの髪や頸を飾ることもあるのだろう。真砂は、桂にも小さな真珠と玉虫色の石できた品をくれた。装飾品というわけでもなさそうだった。彼女に聞くと、恥ずかしげに小さな声で「お守り」だと言った。
真砂は海の魚たちに慕われているようだった。橙色や黄色やうす碧、さまざまな色の鱗の魚が真砂の周りをとりまくように泳いでいるところをよく見る。桂が大人しくしていると、たまにこちらへも静かに近付いてくれる。まるで接吻のように小さな口で桂の肌をつっつくようにしてくるのだが、その行為にどんな意味があるのかは分からなかった。
桂はけが人であったので、水草とつるりとした岩で拵えられた寝台に寝かされている。その寝台には珊瑚で装飾がしてあった。起き上がることはいいらしいが、寝台から出ようとすると真砂にきつく留められた。足の使い方を忘れてしまいそうだ。きらきらと輝く真砂の鱗で覆われた半身を見て、ため息をついた(もちろん口から出たのはただの水泡だった)。

海の底がもっとも深い蒼に染まっている時間、それがおそらくこの世界の真夜中なのだろうが、たゆたう魚も全く姿を見せない時間だ。桂が目を閉じているときに(傍目からは完全に眠っているように見えるだろう)、近くに寝床を設えている真砂はそろそろと近寄ってきては、その冷たい手を桂の顔に伸ばしてみることがある。水の冷たさとは違う、女の膚の冷たさだ。桂はいつも眠っているふりをする。真砂は桂の清廉で美しい顔をそっと優しく、なぞるように愛撫する。それだけだった。
人魚は、真砂は―桂を愛しているように思えた。

真砂の世話を受けるようになって幾らかたち、傷も大分部が回復した。桂は青い海の世界を見つめながら、考え込むことが多くなった。どうにも、落ち着かない。
何か重要なことを忘れている気がする。
どうも記憶に障害があるのは分かっているのだ。この水の世界は美しく、住み心地も悪くはないのだが、自分は生まれたときから此所にいたわけではないと思う。遥か上の方に揺らめく眩しい光があるが、以前はあれがもっと近くにあったような気がする。そして、もっと大勢の仲間に囲まれて暮らしていたはずなのだ。

この世界は静かで清涼だが、ひどく寂しい。

そう思ったことを真砂に伝えてみると(この頃になると、ジェスチャーだけでなく、砂に絵を描いたりしてもっと有効なコミュニケーション手段が取れるようになっていた)、彼女は豹変した。
きれいな顔を歪ませ、うすい唇を戦慄かせて、髪は鬣のように逆立った。そしてしきりに首をふる。物静かな彼女の初めて見る激情に面喰らった桂は、しばらく呆けていた。
その日から真砂は悲しげな瞳をするようになった。

桂は真砂の哀しんでいるのをひしひしと肌で感じて申し訳なくも思ったが、心の奥底で自分を急かしているものの存在を無視するわけにもいかなかった。行かなければいけない場所が確かにあるのだ、桂には。早くたどり着かなければ、手遅れになってしまうような気がするのだ。
あの光へ近付ければ…、
遥かに上空にうっすらと見える光源がある。桂は真砂の出ている間に、身体を動かしてみた。傷は大方治っている。痛みはなく、この様子なら、上の方にも行けるはずだ。ただ昇って行けばいい。
真砂が仲良くしている魚たちがきょときょとと落ち着かない奇妙な泳ぎを始めた。そうではないかと疑ってはいたが、彼らは桂の見張りをやらされているようだ。橙色の大きな魚がどこかへ飛ぶような速さで泳いで行ってしまった。真砂のところへ向かったのかもしれない。彼女がいつもどこまで遠出しているのかは知らないが、半刻ほどで帰ってきたことは一度もない。ここは時計もないので、桂の感覚ではあったが。
あの光へまではどのくらいかかるのだろう?
身体にまとわりついてくる魚たちを優しく追い払った。砂を思いきり蹴り、水をかき分ける。ふわりと浮き上がった。どうやら、問題なさそうだ。桂は上昇し始めた。できるだけ、早く。
昇りはじめて、真砂との住みかが掌を下にかざして収まるくらいまでに遠くなったころ、違和感に気付いた。呼吸ができない。突然、肺が苦痛を訴え始め、なぜと思っているうちに意識がブラックアウトしていた。

しかし青みの世界から黒の淵に堕ちる直前に、桂は懐かしい光景をみつけた。目映いくらいの光を透かして、きらきら輝く銀色の…、
それは桂がこの世でもっとも愛した美しい色だ。愛しいという言葉の使い方すら分からぬほどのいとけないころから…
「そこ」は全てが美にあふれた場所ではなかった。血腥く、悲惨で、穢く、目を背けたいようなものも、たくさん横たわっている世界だった。
 
…けれども、あの銀色はそこにしかないのだ。



柔らかなものに包まれている気がした。覚えがある。これは女の身体だ。細くて冷たくて滑らかで、それなのに強かな女の身体だ…、
目を醒ますと、真砂に抱かれていた。桂を真っ直ぐに見つめている、その思いつめた容貌に、桂は胸を撃ち抜かれたような錯覚を一瞬に感じた。真砂の氷色の瞳の色がいつもと違うように思えて、見ていると、そこからぽろりぽろりと輝くものが落ちていく。そのひとつが桂の胸に落ちた。つまみ上げると、それは青みのかかった真珠の粒だった。
ああ、これが人魚の涙なのだ。
そっと真砂の頬に触れてみる。掌と同じ、すべすべと冷ややかな膚だ。真砂はゆっくりと瞼を閉ざして撫でられるまま、その拍子に再び真珠の涙が幾つも零れる。ふと気付くと、桂と真砂の周りには数えきれないほどの真珠が散らばっている。
この人魚を好きだとおもう。
しかし、桂は取り戻してしまった。自分のこれまで生きた記憶、いるべき場所を。重い傷を受けて海へ落ちても、ここで今死ぬわけにはいかぬと半ば怨念がましく生にしがみついた理由を。太陽の下に残してきてしまった己の半身の存在を。
桂が行くべき場所は戦場だった。
「…行かなければ」
それは初めて明瞭に海の底に響いた桂の声だった。真砂はゆっくりと頷いた。哀しみの色はその表情にまだ濃く、真珠はいくつも零れるままでも…
真砂は、最期に桂に口付けをした。

心地よい音がする。幾つも重なったそれぞれ違う音域、決して不快ではない騒がしさ。
目を開けると青が広がっていた。海の蒼ではない、空の碧だ。魅入られていたら、顔に熱いものがぼとぼとと垂れてきた。そちらを見やると、奇妙な表情の銀時がいた。どうしたお前、と尋ねかけたところで、彼が泣いていることに気が付いた。目から鼻から出るものが全て出ている酷い状態だ。まるで幼子のようだった。子どものころでも、これほど体裁構わない様子で泣いている姿など見たこともなかったというのに。
「銀時…?」
その呼び掛けがなにかの合図だったように、銀時は桂に抱きついた。少し痛い。その上、銀時はひどく震えている。思いきり抱きしめられている桂までつられてがたがたしていると、銀時の肩越しに他の仲間の姿が見えた。皆そろいもそろって同じような酷い顔だったが、中には涙と鼻水垂れ流したままに笑っている者もみえる。
ふっと背に気配を感じてふりかえる暇もなく、今度はそちらから腕が伸びてくる。どうも髪の毛に顔を埋められて泣かれているらしかった。顔は見えないが、誰なのかは直ぐにわかった。案外泣き虫の癖に、子どものころから泣き顔は決して見せようとしない男だ。もう一人の姿を探すと、背に抱きついた男の隣でこれもまた涙を流しながら笑っていた。



「あのときのことだけど」
「うん?」
猪口から冷えた酒をすすり、銀時がぽつりと言った。桂は彼の肩にもたれかかって月を眺めている。
あれから10年も経っただろう。
桂はまだ同じ戦場に立っている。少なくともそのつもりだ。銀時は戦場を去った。だというのに、こうして隣り合って一緒に月見酒などしているのだから、おかしな話だ。
「まだ人魚のこと覚えてるの」
空になった猪口へ酌をしてやりながら、桂は首をかしげる。
「信じていないのではなかったか?」
「べつにお前が嘘をいってると思ってたわけじゃねえよ、」

あのあと、桂は自分がおよそ一月近くの間を消息不明になっていたことを知った。戦闘で傷を負い、崖から転落したことは覚えている。生きてはいないだろうというのが大方の見解だった。せめて遺体だけでも、と探したのだが髪の毛一本すら見つからない。同じように崖から落ちた敵の死体は打ち上げられているのに。
傷の手当てをされているのを、誰に治療されてどこへいたのかと問いつめられたが、桂は部下には記憶をなくしていると告げた。
真実を打ち明けたのは、銀時たちにだけだ。
高杉は憮然とした様子だったが、坂本はそれは面白い話を聞いたと豪快に笑い飛ばした。彼らが信じたどうかは知らないが、それ以降あまり話題にすることもなかった。戦争が激化の一途だったこともあり、それ以上呑気に戦術以外のことを話している余裕もなくしたからということもあるだろう。
桂も、あの体験は死にかけの脳がみせていた幻ではなかっただろうかと考えたこともある。そのたびに胸元に隠して入れてある、真砂のくれたお守りを眺めた。それはあとで気付いたが、真珠と、玉虫色の真砂の鱗だった。
銀時は何も言わなかったが、怒っているだろうことが態度から分かった。心配したのに夢物語を聞かせられたと思ったのだろう、と考えていたのだが。

桂は猪口を置いて銀時の表情を覗いてみる。拗ねた男の顔があった。
(ああ、なんだ…)
銀時は嫉妬していたのだ。桂の語った美しい人魚に。

―海の底はな、一面に青く、静かで、鮮やかな魚が泳いでいて、珊瑚が花が咲き誇るように艶やかで、そしてそこに住んでいる人魚はとても優しくて綺麗だった。あれは本当に夢のような世界だったよ。ああ、真実、俺は晋助の言うように、ただながい夢を見ていたのかもしれないな。なんだ、銀時?
「そこにずっと居られれば、良かった?」
―そうだなあ…、
いつかこんな会話をした。

それに気付いたら、途端に可笑しくなってきて、桂は笑った。まるで女童のような軽やかな笑い声に、銀時がぎょっとする。
「な、なんだよ、おい」
狼狽える銀時の様子をみて、また笑みがこみ上げる。当分、収まりそうにもなかった。これほど声を上げて笑ったのは久しぶりだった。いい加減、頬の肉や関節が痛み始めたところでふうと一息つく。目尻には涙すら浮かんでいた。それを小指で拭いながら、怪訝な顔をしている銀時に向き合った。
「覚えているか、お前が俺にずっと海の底に居たかったのかと尋ねたのを」
「…そんなこと聞いたっけか」
「また、はぐらかして」
銀時は桂と視線を合せないように何もないようなところを向いている。
「お前、あのとき、俺がちゃんと返事をする前にどっかへ行ったな」
「坂本のアホに呼ばれたんですう、」
「まあよい。あのときの返事だ、今度はちゃんと聞けよ」
「…なによ」
 
「俺はお前のいる世界以外には、どこへも行きたくはないよ」

しん、としていた。ずいぶん酒を過ぎたらしく、時刻はもう夜半である。酔っぱらいのさわぎも、芸子たちの嬌声も、いつからか途絶えていたようだ。桂は銀時の隣に再びしなだれかかった。銀時は顔を反対へ向けたまま、何も応えない。べつに気にはしなかった。彼からの返事は期待していない。もう今は。あるいは、未だ、今は。桂の言葉さえ届いていればそれで良い。
天頂より下りはじめた月は白のような色合いだった。黒い空の中から銀時と桂のいる窓辺へ柔らかい光を落としている。銀時の髪に反射して、それはいっそう輝いて見えた。
月の光の下でもお前の髪はきれいだな。
応えない男にむかって桂はそっと胸の中で呟く。きっと、あの青い水の世界でも銀時の髪は輝くだろう。どこにいても。
 
これは誰にも告げない秘密だが、桂はときどき真砂の夢を見る。あの青の揺らめく海の底で相変わらず彼女は静かに暮らしているようだったが、傍らには小さな子どもの人魚がいて、真砂が珊瑚や貝殻で拵えた髪飾りを、その真っ直ぐで黒い髪にしゃらしゃらと着けている。奇妙なことに、その子ども人魚は幼いころの桂とよく似た顔立ちをしているのだ。
誰かが戯れのように人魚は口づけひとつで子を孕めるのだと言っていたことを思い出す。
しかし、あそこへはもう行けないだろう。桂はあの穏やかな世界で、優しい人魚と寄り添うことよりも、血の流れ続ける場所で生きることを選択した。
今、隣に感じる体温は熱く、ちっとも滑らかなんかじゃない。顔は背けたままの癖にそっと桂の手を包み込む掌も、ごつごつと節くれ立っていてかたい。そしてそれを、何よりも嬉しく思う。
 
(銀時、人魚はな、涙を流すとその涙の粒が真珠になるんだよ。アコヤ貝なんかの中からとるなんて聞くけど、きっと美しい真珠はみんな人魚の流した涙の軌跡なんだ。俺はそれをとてもうらやましく思った。真珠がとれるからじゃないよ。涙がそうやって証拠になったら、誰が泣いているのかちゃんと分かるようになるのにな。きっとみんな分かるようになるんだ。誰かが泣いたことを…、俺が泣いたことも…、お前が泣いたことも…)






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