【母の肖像】
桂の母親というひとにはじめて会ったのは、松陽に拾われてから一年は経ったころのことだった。

ふだん、あまり桂の家へは行かない。銀時の部屋は塾の中の松陽の私室の一部に与えられていたから、塾が終わったあとそこへ移動するのが常だったし、休日も桂の方が出向いてくることが多かった。
桂は家に銀時を連れて行くのが好きではなさそうだと気づくことが何回かあった。桂の家は医者をしていて、この辺りでは一番大きく、名医として知られていて、父親は藩医でもあった。その父親と松陽は昔からの知り合いであるらしかったが、二人が会話をしているのを直接見たことはなかった。厳格そうな家に見えたから、銀時のことを良く思わない者がいるのだろうと思い、銀時もあまり桂の家を訪ねることはしなかった。訪ねる前に桂が来ることがほとんどだったし、桂と会えるならとくにどこでも構わないと思っていた。
その日は珍しく、家に作ってもらった菓子があるから、と言われて喜んで桂の家へついていくと、今まで数回ここに来たとき、いつも閉じられていた襖がゆっくりと開いて、「小太郎」という細い鈴の音のような声がしたのを、よく覚えている。
「ははうえ!起きていて良いんですか?」
「ええ…今日はとても具合が良いのよ。お友達?」
それまで覗き込んでいた花札をぽんと放り出し、兎のように奥に駆けていった桂に、銀時は呆然とその姿を見ていた。
桂が母親似だとは前から聞かされてはいたが、奥から出てきたそのひとの、白い膚、黒く長い髪、大きな琥珀いろの瞳は、確かに銀時がよく知る少年とよく似たものではあったけれど、すべてどこか冷え冷えとして、儚げに見えた。桂を身籠ってからずっと伏せっているらしく、はっきりと病の名前を聞いたことはなかったが、桂は、母の病を自分のせいだと思い込んでいるようだった。無理して自分を産んだから、そのせいで母の命を削ってしまったと。
子どもを産むということはときに命懸けであるらしく、村でも幼児を遺して出産で死んでしまう若い母親もいた。その反対に、子どもを五人も六人も産んでぴんしゃん働いている女もいて、そういう女は誰も適いそうにないくらい気が強く、力も強かった。

銀時は、誰かの母親を見るたびに、自分を産み落としたであろう女のことをちらりと考え、そして忘れようと努力する。

桂の母はたとえるなら桜の花のような、繊細なつくりもののような、美しいが、次の瞬間に壊れてしまうところを目の当たりにしてしまう怖さがあった。
淡いいろの着物をきて、垂髪をゆらゆらと風に揺らしてこちらをじっとみてきた眼差しは、穏やかだが哀し気で、銀時は正直、このひとは長くは生きられまいと感じた。病床から抜け出せない、命の焔がか細く揺らめいてる気配を、全身から醸し出しているひとだった。
「ははうえ、銀時ですよ」
桂が嬉しそうにその母に話しかける。ははうえ。硬く、ぎこちない響きだった。塾に通う他の者たちは皆、柔らかく、慣れたように「母ちゃん」と言う。その音の響きとはまったく別物だった。
「まあ、銀時くん。貴方が松陽先生のところの子なのね」
なんと返事をしたのか、よく思い出せない。その日はそれから桂の母も交えて三人でお茶をしたのだが、会話の内容といえば、いつも床にいる母が起きているのが余程嬉しいらしい桂があれやこれやとずっと喋っていたのを覚えている。いつも銀時ばかり見つめているその眼差しは目の前の母に釘付けで、しかし、その母は銀時のことばかりよく見ていたように思える。奇妙に感じたが、そこに敵意や侮蔑はなく、物珍しい外見を見ていたのだろうと、銀時は思っていた。
銀時はその茶会の間、ただひたすらに松陽のもとに帰りたいと思っていた。せっかく皿にたくさん盛ってもらった、卵を使った珍しい菓子も、甘くて美味かったのに、心が満たされたような気持ちにはなれなかった。
桂の母と桂が並んだとき、それはとても美しい親子の絵であったのに、あんまりにも死の匂いが強くて、いつもはそんなものなど感じない桂が、ひどく不気味に見えたのだ。
そして何より、この母をとても慕っているのであろう桂が不敏だった。
母が死んだら桂は泣くだろう。酷く悲しむだろう。その嘆く様をありありと想像ができる。この目の前にいる美しいひとが死ぬことよりも、桂の泣いている姿を思い浮かべる方が銀時には辛かった。
いつも銀時の目に写る桂は眩しくて綺麗なのに、ここにいる桂は不憫で可哀想な少年に見えた。
「小太郎は」
奇妙な時間がいくら続いたか、それまでずっと黙って話を聞いていた桂の母が、急に口を開いた。
「小太郎はいつも貴方のおはなしばかりするのよ」
そう言われて、みると桂は真っ赤になっていた。いつも真っ白い頬の辺りを紅に染めて、恥ずかしがっているのが分かった。その様子がとても可愛らしく、愛しく、銀時はこの家から桂を連れ出したくなった。
「剣も強くて、力も強くて…銀の髪が綺麗だって。ほんとうね」
「…こんな髪、」
「あら、嫌なの」
「爺さんみてえだし、クシャクシャしてるから、」
「そうなの、ふふ。でも、だから松陽先生も貴方を気に入ったんだと思うわ」
「…?」
その言葉に、銀時は桂の母を注視した。切れ長の琥珀の輝きと目が合う。それはあたたかな太陽の日差しと同じ色なのに、柔らかな潤いをもった眼球のはずなのに、硬く人工的なつくりものに見えた。
「そうだぞ銀時、その髪とても綺麗だ」
その素直な言葉に、胸がぎゅうとするのを感じた。桂のそばにいるといつもそうだった。だが、いつもずっとずっと後を引くその胸の切なさは、桂の母の視線に晒されてすぐに消えてしまった。
「あら…お茶がもうなくなってしまったわね」
桂の母は空いた急須を持って立ち上がろうとした。慌てて桂がそれを止める。
「俺が淹れてもらってきますね!」
そう言って急須を持ってぱたぱたと部屋から飛び出て行ってしまった。部屋に桂の母とふたりきりで残された銀時は、落ち着かない気持ちで、目の前に山と盛られて半分も減っていない菓子に手を伸ばした。黄色く焼かれた菓子は卵と牛乳と、あまり馴染みがないが、いい匂いのする甘みがあった。それをぱくぱく忙しなく口に運んでると、桂の母が少し笑みを浮かべてこちらの様子を眺めていることに気付いた。柔らかな笑みだった。一瞬、彼女を取り巻いていた不気味さが消えた。銀時は、たぶんこの姿が小太郎の十数年後の姿なのかもしれないと思った。美しい少年だから、美しい大人に育つだろう。
しかしそう夢見心地に思っていたのはほんの数秒で、その幻想をみた一瞬のあとには、彼女は元に戻っていた。ふいに、ほとんど紅のささない、色味の薄い唇が動いた。
「…小太郎と仲良くしてくれてありがとう」
銀時は菓子を飲み下しながら、何と返答するべきか迷った。桂と仲良くしてやっている、などという意識はなかった。そんな言い方をされる覚えはない、という小さな反発があった。
「あの子、貴方とのお花見をとても楽しみにしてるのよ。秋口くらいからしきりに貴方と約束したんだって私にお話してきたもの。あの向こうの山に行くのかしら?あそこは桜山だから、春になればここからでもきれいな桜色を見ることができるのよ」
桂の母は窓から見える山々を見つめ、目を細めた。花も今は咲かせず、硬い幹の木々に埋め尽くされた山はとくに眺めていて楽しいものでもない。秋には麓のあたりの紅葉が美しかったが、色とりどりの紅葉もいまや一枚残らず枯れ落ちてしまって、剥き出しの木々が冬の空の下に寒々しい。
その山のことは桂から聞いていた。花が咲いたら弁当を持って見に行こう、お前の好きなあまい菓子もたくさん用意してやると言うので、それなりに楽しみにしていた。近間になったら銀時は、あんことみたらしのたっぷりかかった団子をねだるつもりだった。桂の家のものが用意してくれる団子は柔らかく、砂糖をたくさん使ったあんこやたれが大層うまい。それは桂がそうしてくれるようにと特別に頼んでいるからだということを、知っていた。
「私はあそこへ行ったことはないのよ。毎年小太郎と一緒にお花見しましょうって約束はするの。でも結局だめね。春はいつも具合が良くないのよ…」
いくらかの同情心がわいて、銀時は桂の母を見た。彼女は今はぼんやりとした様子で首を捻り、窓の外を見つめていた。首を動かした拍子に流れた黒髪の隙間、項の辺りに、爛れたような赤い肉の色を見つけて、銀時はどきりとした。あれは確か火傷の痕だった。
「桜が咲いて、しばらくしたら、梅雨になるわね。美しい紫陽花の咲く季節だわ。…それが過ぎたら、小太郎の誕生日が来るわ」
桂の母は遠くを見つめながら言い続ける。銀時に話しかけているようでもあり、独り言のようでもあった。
「あの子は美しい夜に生まれたの。黒い闇の中に浮かぶ満月の夜。綺麗だったわ。空は黒いのに琥珀いろの光があたりを照らし出してね。小太郎は、あの夜みたいな、美しい夜のような子どもだわ」
琥珀の光に黒い闇、と言われ、銀時は桂の姿を思い浮かべる。深く暖かい初夏の夜空のような、触るととてもとても心地の良い漆黒の髪と、蜂蜜をうすめたようなとろりとした美しい瞳。確かにあの輝く漆黒の髪と不思議な色の瞳は、夏の闇と満月の光の色だと言われれば、それにとてもよく似ているように思えた。
「私はきっと、あの子が次の誕生日を迎える前に死ぬでしょう」
銀時は呆然として桂の母を見つめた。
「その前に貴方に会えて良かったわ。ほんとうに良かった。ずっと会いたいと思ってたのよ。ずっと…、小太郎を身籠ったときからずっーと」
それはおかしな言葉だった。銀時はその言葉の節に確かに狂気を感じた。こわい。着物のはしを手で掴みながら、銀時はひたすら早く桂が部屋に戻ってきてくれるのを祈っていた。

その夜、銀時は高熱を出した。

銀時の生涯の中で、桂の母親ほど美しい女に会ったことはない。大人になってから思い返してもまことに美しいひとだった。だが、あの美しさを取り巻いていた、冷え冷えとした不気味なものは、今でも忘れることができない。
ほんとうのところ、今となっては桂の母のあの言葉が、事実彼女が発したものであったのか、熱に魘されてみた悪い夢であったのか、銀時には自信がない。

そして、たくさんの年月が流れた。萩で暮らした穏やかな優しい時間と、桂の母の恐ろしげな美しさの上に、そのあとの痛くて、辛くて、哀しい記憶が降り注いでいった。

桂が鏡台を覗き込んで、自らの唇に紅を引くのを、銀時は後ろからぼんやりと見ていた。いつも趣味の悪い、紫がかったものをつけていたのを、上客から貰ったといって、今日は薄く淡い紅をつけている。水商売をやることについては幾度か辞めるよう言ったことがあったが、結局、西郷に逆らえずに桂はときどきこの仕事を続けていた。女の姿をしている桂は店で大層人気があるらしい。
金色の紅入れを置くと、桂は鏡に映る自分を眺めた。
「…いつもより口の色が薄くて、少し落ち着かないな」
「いつも紅なんてつけてねえだろ」
「女の着物を着ているときの話だ」
「…好きか?この色」
くるりと桂が振り向いて唇を指差す。小さくうすいが、ふっくらとした形のよい唇に、つやつやと光沢を放つ淡紅の色。その顔貌は初めて目にしたものならば見惚れてしまって何も言葉を紡げないだろうと思うほど、美しい。実際に銀時はこの二十年余りの間、幾度も、桂の美貌に衝撃を受ける者たちの様子を見てきた。
「なんか、俺も、あんまり落ち着かねえな」
「だろう?やはりいつもの紅にしようかな」
「あの紅もべつに俺の好みってわけでもねえんだけど…」
「なら今度買い物についてきてくれ。お前の好きな色を選んでくれないか?」
「お前さ」
女の姿をすることにのめり込むななどと文句を言いそうになったが、やめた。どんな着物を着ていようが銀時にとって桂は桂だ。女の装いをすることが気に食わないのは、その姿に色めき立つ他の男に対する銀時の悋気で、それはとうに自覚しきっているが、あまり向き合いたくない己の矮小さの一部だった。しかし最近は桂がまるで馬鹿のように素直にあの客にあれもらったこれもらった、などと言って己で捕まえた珍しい虫でも見せてくるような様子で報告されるので、悋気もすっかり失せていた。
「なんだ?」
「なんでもねえよ」
「なんだ。気になるな」
「だからなんでもねえ。どうでもいいことだって」
「そうか…わかった」
それきり言うと桂は少し目を伏せた。相変わらず些末なことに関しては銀時相手に聞き分けがいいことだ。これが攘夷活動やらに口を出すと途端に何も聞かなくなる。口を出す資格など銀時にはもうないことは分かっているが。
お茶でも飲むか?と腰を上げて、桂は厨の方へ行った。しばらくして、急須と茶碗と、焼き菓子を盛ったものを盆に載せて戻った。
「部下からもらったものだが、食べるだろう?」
「おう」
もそもそと焼き菓子を口に運びながら、茶を淹れる桂の姿を眺めた。
うすい紅の色もそうだが、この日の桂はいつも女の姿のとき纏めるか結い上げるかしている髪を、垂らしたままにしていた。そうすると、
「…お前の母親に似てるな」
思わず、口に出ていた。桂は少し驚いた顔をした。見開かれた瞳のせいで一瞬、とても幼く見えた。
「…ああ、昔一度会ったこと、覚えていたのか」
「うん」
言わなければ良かった、と後悔した。桂の母親は、結局あれから次の年に、春を待たずに息を引き取った。約束していた花見には行ったが、沈んでいる桂の姿を胸の痛む思いで眺めていたので、桜の色も、甘い菓子の味も、すべておぼろげだ。桂はその哀しい春から、ますます美しくなっていった。
母の死を思い出させたかもしれない。
「俺はあまりあの人に似てるとは自分では気付かなかったけど、お前たちが言うならそうなんだろうな」
「たち?」
「昔、高杉にも言われたことがある」
「ふーん」
なんとなく、思考が高杉に似ていると言われたような気になって、気に食わない。実際にこと桂に関しては、奴とはある程度似ている自覚が嫌でもある。まったく頭が痛いことに。
「なあ、銀時。こんなことを言うのは変にも思うかもしれないが」
「お前が言うことはたいてい変だからもう慣れたよ」
「…ふふ、そうか。それならいい。あのな、…あの日、母上と二人になったとき、あの人に何か言われたか?」
「…さあ、あんまり覚えてねえな」
咄嗟に嘘をついた。
「そうか」
「なんで?」
「いや…、あの日、帰ったあと、お前確か急に酷い熱を出しただろう?それを伝えたら母上がお前を驚かせてしまったから熱が出たのかもしれない、などと言っていたから…熱を出させるほどお前を驚かすようなことってなんだろうってずっと考えていてな…母上は結局教えてくれなんだ」
「…ただの風邪だよ、あれは。寒かったしな」
桂にはあの会話を教えたくなかった。桂はそうか、とだけ呟いて、鏡の中の己の横顔をちらりと見つめた。
「…髪、結い上げたいな。やってくれないか?」
「べつにいいけど」
またくるりと鏡台に向き合った桂の背後を陣取り、滑らかな黒髪を救い上げる。桂の髪を結い、整えるのは、昔から銀時がいちばん上手だった。さらさらと掌の中ですべる絹の髪をどうにか纏め上げると、晒された白い項に意識が言った。戦時中も己が躍起になって守っただけあって、そこは傷ひとつなくつるりとしている。桂の体の、細くて、女のような部分のひとつだ。
桂の母のあの酷い火傷痕はどうしてついたものだろうと思ったが、桂に尋ねることはしなかった。なんとなく、一人で帰ったら今夜あの母の夢を見てしまいそうな気がした。
がちゃがちゃと物入れから適当な簪を拾い上げて、纏めた髪の間に差し入れて行く。いちばん最初にひっつかんだから取り上げたそれは、柘榴石だの、翡翠だののたっぷりついた、値が張りそうな瀟洒な簪だった。たぶんこれも上客からの贈り物だろう。こんなふうに無造作に一括りにして仕舞われているような贈り物の贈り主には、同情するほどだ。
「あのさ、今日ここで待ってるわ」
「…帰り遅いぞ?」
「2時には帰ってこいよ。アフターも無しで。神楽は今日は友達んとこ泊まり行ってるから…、なんか作って待ってる」
珍しい申し出だった。桂は少しきょとんとしたあと、嬉しそうに笑った。可愛いらしい笑みだった。
あの人も。こんな風に笑ったら、やっぱりこんなふうな笑顔だったのだろうか、とぼんやりと思った。





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