chapter.5-23



「――――ぇっくし!」

 やけにでかいくしゃみ。
 反動で勢いよく彼の上体が起きあがる。
 あまりにも予備動作のないそれに、理解が追いつかない。
――今ホントにくしゃみしたのこいつだよな?
 ヴィルは自分の目を心から信じたいが、同時に信じたくない気持ちもあった。
 女性にしては野太く、かといってヴィルほど高くもなければ、ジェイクィズほど低くもない声の持ち主は、この場ではひとりしかいない。

「なんだ、ミイラにでも出くわしたみたいな顔して」

 相変わらず表情のないサキ・スタイナーである。
 鼻の下を擦りながら、彼は自分が取り囲まれている状況がどうしてなのかわかっていないのか、心なしか不思議そうに目を瞬かせていた。

「てめえ汚えなオイこらァ!!」

 偶然、サキの真正面にいたジェイクィズは不運にもくしゃみの被害を被っていたらしく、ごしごしと顔を拭っている。その横でシェスカが「うわマジで死んだみたいに話しちゃったうわあああ」と、勝手に死んだことにしていた自己嫌悪と、さっきまで話しかけていた言葉の恥ずかしさに声に出さずに身悶えしていた。
 一方イリスは、

「兄ちゃんヒヤヒヤさせんといてえなもお〜〜〜〜〜〜〜!!」

 ぼろぼろ流れる涙をサキの上着で拭きながら、ぽかぽかと(力加減ができていないのか、聞こえてくるのはドンドン)拳で叩く。ここまできてようやく自分が心配されていたと自覚できたのか、サキは短く「すまない」と謝った。

「はー……ホントにもう起きないかと思ったぜ……」

「なんでみんなサキを死んでるみたいに言うの」

 ベルシエルは元から丸い瞳をさらに丸くして首を傾げている。
――……いや、きみの様子もなかなかにややこしかったせいでもあるんだけど、なんて言えばきっと怒るんだろうなぁ……。
 ヴィルは曖昧な、気の抜けた笑みを浮かべるしかない。
 思えばさっきまでのベルシエルの態度は単純に、サキが起きてこないのと、みんなが彼を死んだように扱っているせいで不機嫌になっていたからなのだろう。現にサキが起きた今、ベルシエルの表情は穏やかそのもの。花も霞むような、柔らかく愛らしい笑顔をサキへと向け、

「サキ、おかえりなさい。えっと、濡れたままいると、風邪引くんだよね?」

 少しズレている確認めいた心配のセリフを投げかける。サキは未だ泣きじゃくっているイリスを宥めつつ、そんな彼女の頭にぽん、と手のひらを乗せた。

「ああ、ただいま。お前のおかげで助かった」

 その言葉に、ベルシエルは頬を赤らめていっそう微笑みを深くする。親に褒められて嬉しい幼子のような彼女の様子は、先程まで船の上にあった張りつめた空気を霧散させるには充分だった。
 船員たちの安堵と喜びの声があちこちから上がる。サキはそれらには関心はないのか、寝起きとは思えないほどしっかりと立ち上がり、甲板に乗っている目のないウツボのような頭に向かって歩き出した。その後ろにひょこひょことベルシエルが続く。

「海に落ちた者は何人だ?」

「三人です」

 サキの問いに近くにいた船員が答えた。それに珍しく、サキの表情に驚きの色が浮かぶ。

「少ないな」

「セレーネさんが落ちる前に船に戻してくれてたんス!」これは別の船員。やや興奮気味に頬を上気させている。

「ベルシエルが?」

「だって、落ちたらサキ、困るでしょう?」

 彼女らしい答えだ。ほめてほめて、というのを隠せていないベルシエルの頭を再び撫でてやりながら、サキは短く「捜索はできそうか?」と尋ねる。
 問われた船員は、静かに首を横に振った。

「ひどく荒れていましたから、難しいでしょう。救命艇もこいつにやられましたし、こいつをどかさない限り、船も動かせなさそうですし」

「そうか」

 忌々しげに眉を顰める船員。その様子に、もやもやしたものがヴィルの胸にこみ上げてきた。それを振り払うように顔を上げて、甲板に横たわる巨大な生き物を見据えた。

「……このでかいのはなんなんだ?」

「水竜の一種だな。恐らく魔力を食う系の魔物だ。俺達はこいつの『夢』の中にいたわけだ」

 ヴィルの問い掛けに答えながら、サキは竜の口元まで近付いて、まじまじと眺めていた。

「悪魔ってのの気配があったんでしょう? 近付いて大丈夫なの?」

 シェスカが問い掛ける。

「肉体もその『内側』も、どちらもベルシエルの力でとどめを刺している。問題はない」

「――あ、手に持ってたアレ!」

『核』の場所を示していた、あの球状の光。確か、ベルシエルの力を視覚化したものだと言っていた。
 思い出した! と声を上げたヴィルに、サキは頷いて続ける。

「『核』がこちらを侵食した時に腕ごと食わせた。あいつらには毒みたいなものだからな」

「それで助からなかったらどうしたのよ……」

「? あれで死ぬわけがないだろう。『夢』で追った怪我が、現実の肉体に影響を及ぼすはずがない。あの『夢』での出来事を、現実と認識しない限りは四肢が千切れようと死にはしない。逆に言えば、あの中では己の認識こそが全てだ。つまり――」

 そう言いながら、ホルスターから銃を引き抜いた。そのまま黙って、竜の額に一発。乾いた音を立てて弾が撃ち込まれる。
 ほんの小さな、親指の爪ほどの凹みが、ほかの場所より少しだけ薄い鱗に出来ていた。

「これが、この銃の本来の威力だ。俺の魔力を弾として込めてある。威力は実弾と変わらないが、こうして衝撃が当たるだけで殺傷能力は高くはない」

「あれ? その銃ってもっとばーん! ってせえへんかった?」

 目をぱちくりとさせながら、手振りを交えつつイリスがヴィルとシェスカの顔を見る。

「認識の差だ。銃の威力をとんでもないものだと思っていたんだろう。持たせて正解だったな」

「……ちょっとバカにしてるだろあんた!」

「むしろ褒めてるぞ」

 本当だろうな、それ。表情が読めないため、嘘か本当かがわかりにくいにも程がある。
 少し微妙な気持ちになっているヴィルをよそに、サキは躊躇いなく酒場の扉を潜るような気安さで竜の口を開いて中を覗き込んだ。脇に控えていた船員が二人ほど、そのまま口を開いたまま固定させている。

「興味があるなら見るか?」

 そのあまりの躊躇いのなさに半ば放心気味のヴィルたちに振り返りつつ、尋ねた。
 問われたシェスカとイリスは勢いよくぶんぶんと首を横に振った中、ヴィルはしっかりと縦に振った。ちょっとした好奇心というやつだ。こんな大きな魔物は見たことがない。
 それを確認したサキは、船員たちに指示を出し、招くように竜の口を更に大きく開かせる。
 おそるおそる、中を覗いた。血の気の失せた、生白い口内は、どことなくカエルの腹を彷彿とさせる。顎を縦に割ろうとするような一直線の傷と、それから喉を潰すようにある、めくれ上がり、盛り上がり、押し潰された肉。そして残骸のように残る蟲たち。
 ……やっぱり見なければよかったかもしれない。
 せり上がってくる胃の内容物を押し込めるように手のひらを口元に当て、ヴィルは竜の口内から視線を外した。
 目のないウナギやウツボを思わせる、鱗に覆われた顔が代わりに目に入る。おそらく耳のあたりにあるヒレが、陽の光を反射して不思議な色に輝いていた。このヒレでさえ、ヴィルの身長ほどはあるのではないかと錯覚するほど、とにかく巨大だ。

「オレ、竜なんて初めてだ」

「竜はその凶暴性から同種喰いやら討伐やらで数が減っている。今でも容易く竜が見れるのは、リエンの最北部くらいだ」

 淡々と、サキ。

「それ、リヴァイアサンっていうんだって。海を荒らして、巻き込んだ人間を消しちゃうって噂、サキは知ってる?」

「ああ、聞いたことがあるな」

 ベルシエルに相槌を打ちつつ、彼は口内の傷や、大きく抉れている喉元の傷を確かめたりしている。
 そしてなにかに気付いたのか、すっ、と瞳が鋭く細められた。

「ベルシエル。蜘蛛は見たか」

「ううん、見てない。でも、」

 ふるふると、首を振るベルシエルは、そこで言葉を区切ると、

「この子のできもの、かたち、蜘蛛みたいだったよ」

 それがどうかしたの? と問いかける。ヴィルもまた状況が掴めず、ただ頭を捻るしかない。

「蜘蛛って、あの節足動物の蜘蛛だよな。なにかあるのか?」

「蜘蛛は、魔族共の配下だ」

「――今なんて言った?」

 耳ざとく聞いていたらしいシェスカが、つかつかとこちらへ詰め寄ってきた。その表情は抜き身の刃のように険しい。その後ろからジェイクィズがついてくる。それに続くように、イリスもこちらへやって来た。きょろきょろと、何かを探すように視線を彷徨わせている。




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