chapter.5-21


 立ち上がって、早くここを離れなければという焦りが、頭の中を支配する。それがヴィルの動きも、思考すらも鈍らせた。さっきここに叩き込まれた時から、彼の足には、彼の気付かないうちに、あの透明な粘液が纏わりついていた。

「ヴィル!」

 イリスの悲鳴のような声と同時に、それは一気に面積を広げ、ヴィルを飲み込もうと襲いかかる。どろどろとしたそれは汚泥のように纏わりつき、呼吸を奪おうとヴィルの顔目掛けて這い上る。

「――ぅえっ……げほッ!?」

 腐った水の臭いと、魚の生臭さが混じり合った臭いに、胃がひっくり返るような嘔吐感。咄嗟に手で口と鼻を覆ったが、既に粘液まみれの状態だったその行為に意味はなかった。
 手袋に浸み込んだ液体はずるりとヴィルの顔を這い、鼻に、口に、目に、あらゆる隙間に入り込もうと蠢いた。
 ぎゅっと目を閉じる前に確認した視界の端。ヴィルを包むように膨れ上がった透明の粘液。あの黒い目玉はその中を泳ぐように、取り込んだヴィルを品定めするかのように目を向けて浮かんでいる。
――なるほど、核か。
 その姿に、ヴィルは顕微鏡で見た細胞の様子を思い返した。

「あっちが本物ってこと――!?」

「はよ助けな、あれ息できへんのちゃう!?」

 そんなシェスカとイリスの慌てる声が、水の中にいる時のように遠く聞こえる。
 このままだとイリスの言う通りに窒息――で済めばいいのだが、最悪身体の中身を根こそぎ取り出されるのかもしれない。さっきの蟲の中身が、この粘液だったように。

 ずる、

 耳に入り込もうとする感覚が、身体を震わせた。
 まずい。痺れたようにその言葉しか浮かばない。目を開けようにも開けられない。悲鳴を上げようにも口を開けない。息が出来ない。意識が白く、遠くなっていく――――

「――正面だ! 撃て!」

 その前に聞こえた声。泥を藻掻くように重い腕を、目一杯身体の正面へ引き上げた。それと同時に引鉄を引く。
 穴が空いた。目を閉じていてもそれだけはわかった。空気が流れ込んだのを感じる。そのまま何かが胸倉を掴んで、思い切り引っ張られた。ずるっと身体が粘液の中から引き剥がされる。

「っは! ぁ……げほっ!」

 投げ出されるように転がされたその先で、やっと大きく息を吸い込んだ。肺が痛いほどに空気を求め、吸い込んだ空気の生臭さと水臭さが鼻腔を刺激し、咽吐くような咳が出た。

「兄ちゃん!」

「ヴィル!」

 イリスとシェスカの声が重なる。
 ヴィルを引きずり出したサキは、あの風の剣を持っていた。腕にまで鎧のように展開させられた風は、粘液を飛び散らせながら、深々と細胞のようなそれを切り裂いていく。
 けれどあと少し、核と呼べる黒目玉にまでは届かない。

「シェスカ、イリス! もう一度燃やせ! これは『ただの水』だ!」

 鋭く、サキは叫ぶ。

「ええっ!? 兄ちゃん巻き込まれるって!!」

「――――っ、あとで恨まないでよっ!」

 慌てるイリスをよそに、シェスカはきっ、と彼を睨みつけて、剣を構えて魔力を練り上げ始めた。
 それを見たイリスは、「もぉ知らんで!」と半ばヤケになって叫び、シェスカの詠唱に続く。

「ヴィル! もう一度真正面で構えろ!」

 放心気味だったヴィルに、サキは目を向けずに、

「合図したら撃て。そこまで核を持っていく」

 思い切り、剣を振り切った。剣を形作る風が解け、さらに引き裂いていく。粘液はすぐさま元の形へ戻ろうと、引き裂かれた傷をぐにゃりと覆っていった。
 その時、シェスカとイリスの魔術が発動した。
 まるであの粘液が油だったかのように、凄まじい熱量が表面を覆い、不快な臭いを水蒸気として撒き散らした。体積がじわじわと縮んでいく中、サキは自らに燃え移ることすら厭わず、斬撃を加えていく。
 ヴィルは待った。言われた通りに再び真正面へと銃を構えて。
 射線上にはまだ、サキの背中が重なっている。シェスカとイリスの魔術が粘液を蒸発させていくにつれ、視界は白濁としていき、サキの姿さえも飲み込まれていった。
 やがてほとんど視界は真っ白になり、ただ燃え盛る炎の轟音と、水分の蒸発する音とが混じり合った音と、風が空を切る音だけが聞こえる。水蒸気の生臭い腐臭が充満していく、その中で、
 ふっ、と。
 ヴィルの目の前の水蒸気の一部が薄くなった。うっすらと見える、黒い塊。そこから割れるように現れる、あのぎょろりとした目と、視線が交わる。
 その不気味な目に、反射的に引鉄を引きそうになる。――まだだ。冷静に、と言い聞かせ、真正面に銃を構え続けた。ほんの一瞬のことが、何時間にも感じられる緊張を肌で受け止めながら、その目を睨み返す。
 そして、その目を包む粘液が、ぐにゃりと。押し潰されるように形を変え、その勢いで黒い目はヴィルの構えた銃口の真正面へと――――


「撃て!!」


 サキの剣が目を貫いて、ヴィルの射線上へと固定させた。声と同時に、

「これで終われぇッ!!」

 その一心を込めて、引鉄を力いっぱい引き抜いた。吐き出される弾丸。その反動でヴィルの身体はまた地面へと叩き落とされる――――はずだった。
 あるはずだった地面は、ぶつかった途端に底が抜けたように落ち、不気味な、内臓を思わせる赤黒い色が、塗装が剥がれるようにばらばらに崩れていった。

「っ、なに!?」

 遠くでシェスカの動揺した声が聞こえる。水蒸気の向こう、シェスカは崩れ落ちる地面から、反射的にイリスを庇うように引き寄せていた。

「これって――――!」

 イリスの目が大きく見開かれる。この感覚には覚えがあったからだ。ヴィルとイリスは、一度これを体験している。
――シェスカたちと合流するその直前の、夢が切り替わる瞬間。
 景色が歪み、それと共に目が回るような、思考すらもぐるぐる回るような浮遊感。身体が、世界が、自分たちの知らないものに侵食されていく。
 あの時と少しだけ違うのは、自らの意識がはっきりとしていることだった。

「ヴィルっ……!!」

 シェスカの腕が、ヴィルへと伸ばされた。不安定な空間の中、距離の離れたそれが届くことはない。そうとわかっていたけれど、ヴィルもまた、彼女へと手を伸ばしていた。
 すると、ふわりと。
 今まで感じていた浮遊感と別のものが、身体を包み込んだのを感じた。それは背中を押すように、ヴィルたちの距離を近付けていく。そうして手が届きそうになった頃、イリスが橋渡しのように、ヴィルとシェスカの手を掴んだ。

「これ、魔術やんな?」

 イリスは目を瞬かせながら、シェスカを見る。シェスカはそれにふるふると首を振った。
 シェスカでもない、イリスでもない、誰かの魔術。となると、それはもう一人しかいない。

「――――サキは!?」

 周囲を見渡すと、歪んでいく風景の中に、取り残されたかのように。
 サキは水蒸気の煙る中、未だに崩れていない地面に立ち尽くしていた。
 目を凝らしてよく見ると、彼の右手はずたずたに切り裂かれた『核』が握られている。――いや、『核』から伸びた神経のような繊維が、サキの右手の皮膚を破り、体内へと潜り込んでいた。

「――っ、兄ちゃん!?」

 叫ぶように呼ぶイリスに、サキは一瞥だけ寄越すと、その視線を『核』へと戻す。そして何か短く呟くと、彼の足元に淡く光る緑色の魔方陣が現れた。

「何するつもりだ!?」

「ちょっとサキ!! 無視してんじゃないわよ――――っ!?」

 ぐにゃり。

 これまでにないほどに景色が歪んだ。最早落ちているのか、そうでないかすらもわからない。上も下も、右も左も、全てがあべこべで、ぐちゃぐちゃに混ざりあって、今度こそ意識すらも混ぜ返されるような、歪な感覚が身体を支配する。
 その中で唯一確かだったのは、イリスの手を掴んでいることと、それから、サキだけがめちゃくちゃなその景色の中を、像を歪めずに立っていることだけだ。
 サキの魔方陣の光が強くなる。
 すると、どこからともなく強い風が巻き起こっていた。その風は刃になって、歪んだ景色を引き裂いていく。
 引き裂かれた裂け目からは、眩しい光が射し込んでいた。
 ほとんど無意識に、ヴィルはそこへと手を伸ばした。澄んだ光は、ヴィルを、イリスを、シェスカを飲み込んでいく。
 そして、そんな彼らの視界の端。光の当たらない場所で。


 サキだけは、歪んでいく景色の中で目を閉じていた。





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