chapter.5-14


 そう決意した時だった。
 ぴたり、と。サキがその足を止めた。

「どうかしたの?」

「気をつけろ。何か来る」

 その言葉とほぼ同時に、かさかさかさ、という音が聞こえる。生理的に嫌悪感を抱くその音は、シェスカの嫌いな虫を彷彿とさせた。肌が粟立っていくのがわかる。
 そうして目の前から現れたのは、蟹だか蛯だか蚣だかよくわからない生き物だった。硬い殻に覆われていて、触覚のような目玉が飛び出ている。大きさは、シェスカの肘から指先くらいはあるだろうか。その動きはくねくねと、通路を上に下にと忙しなく節立った足を動かしてこちらへやってくる。それも壁を埋め尽くす勢いの数である。

「ひっ」

 思わずそんな声が漏れる。気持ち悪い、というのが最初の感想だ。まあ、最後になっても変わらない感想だと思う。つまるところ気持ちが悪い。なにより虫のような動きがそれを加速させている。そもそもシェスカは虫も嫌いならば、それに類するものも苦手なのだ。蟹や蛯も、小さいものならまだしも、手のひらサイズを越えると苦手である。ひっくり返したときの足の感じとか、腹の感じとか、食べる分には抵抗はないが、そういうものを見たり触ったりがとにかく苦手だった。

「魔物か」

 一方のサキ・スタイナーはいつも通りの無感動で冷静だった。小さく呪文を詠唱すると、風の魔術を魔物にぶつけた。食らった魔物たちはそれまで以上に胴体をくねくね捩って、それまで以上に気持ち悪い動きでのたうち回っている。

「この奥が核だな」

「……進むの?」

「このままこいつらと戯れたいなら止めはしないが」

「じょ、冗談じゃないっての!」

 シェスカはそう返して剣を引き抜いた。油断しているとこの魔物は身体に群がってこようとしてくる。それを払うようにでたらめに振り回した。サキは再び短い詠唱を終えるとまた魔物へとぶつける。蹴散らされたところにできた道を、二人走り抜ける。
 しばらくそうして進むと、なにやら魔物が固まって蠢いている壁に突き当たった。うねうねと幾重にも幾重にも重なり合い、これまで以上の嫌悪感が体中を這い回ってくるような気がした。

「い、行き止まり?」

「いや。魔物が重なって塞いでいるようだな」

 サキはもう何度ともわからない魔術の詠唱を始める。その間にも魔物の壁はうねり、壁から外れた魔物はこちらの足から上って群がろうとしてくる。それを一匹一匹必死で落としながら、シェスカはサキの詠唱が終わるのを待つ。
 まだか。とその顔を上げて、壁を見たその時だった。

「待ってサキ!」

 反射的に叫ぶ。

「どうした?」

 今、確かに見えた。見覚えのある土色の髪が。その上にいつも乗っているゴーグルが。

「……ヴィル?」

 さらにもっとよく、じっと目を凝らす。
 その隣に、誰かの顔がちらりと見えた。耳元だった。赤い六片の花を模したピアスが見えた。
 サキもそれが見えたらしい。切迫した声で「引っ張り出すぞ」と躊躇いなく壁の中へ手を突っ込んだ。サキの身体にも大量に魔物が這い出し、彼も飲み込もうとする。彼はそれを振り払いながら、手探りで魔物とは違うヒトの感触を探す。

「おい、見てないで手伝え」

「わ、わかってるってば……!」

 情けなく声が震えているのがわかる。正直なところ、這い上ってくる魔物を落とすだけでもおぞましさを感じて、見るたび見るたび気を失いそうな感覚に陥っていたのだ。しかし、二人を助けるにはそれの、中に、触れなければならない。
 もう一度、改めて魔物の壁を見る。一度認識してしまえば、もう見なかったことにはできなかった。時折見える顔も、服も、間違いなくヴィルと、イリスだとわかる。
 逃げ出したい思いと助けなくてはという思いがせめぎあう。答えなんてとっくに決まっているのに、身体が言うことを聞いてくれない。助けなきゃ、気持ち悪い、はやくしなきゃ、いやだ触りたくない。だってこんなに気持ち悪いおぞましい鳥肌が止まらないでも助けないとしっかりしなきゃってさっき決めたばっかりなのに。

「シェスカ!」

 サキの怒号が飛ぶ。普段はきっとムカつくであろうその声に、導かれるように足が動いた。その後はもうただ力のはたらくままに足を動かした。そうして壁の中へ、

「っ、あああああぁぁぁああああぁぁあああぁああぁぁッ!!」

 迷いを振り払うように、思い切り叫んで、手を突っ込んだ。魔物の硬い殻と少し柔らかい腹に、細かい足が腕を、胸を、腹を、太股を、ふくらはぎを這っていく。不快感、嫌悪感、涙すらこみ上げてくる。それを唇を思い切り噛んで押さえ込んだ。痛みと、血の味が、シェスカの気が狂いそうな頭を冷静にしてくれる。
 まさぐる。まさぐる。そうしてやっと魔物とは違う柔らかさに行き着いた。腕だ。そう直感した。それを掴んで引っ張り出す。壁の中からずるりと、白い手袋に包まれた手のひらが現れる。シェスカはそれをさらに引っ張る。ちらりと隣を見ると、サキがイリスを壁から出したところだった。
 もっと引っ張る。わずかだが頭が見えてきた。イリスを小脇に抱えたサキが手伝ってくれる。

「もう少し……ッ!」

 ずるり。滑るように上半身が出てくる。そのままヴィルの体重を利用してこちら側へ引き摺り出した。

「ヴィル! 起きて、ヴィル!」

 ぺしぺしとその頬を叩く。透明な粘液のようなもので身体中がべたべたしている。
 眉がぴくりと動いて「う……」と小さく呻く声が聞こえた。――よかった。意識はある。そのことにひとまず安堵する。

「こっちも見てろ」

 サキに押しつけられるようにイリスを渡された。イリスもまた、気を失っているだけのようだ。
 サキは身体に張り付く魔物を引き剥がしながら、魔物の壁へ右手を向けた。その瞬間、緑色に光る幾重もの魔方陣が一気に展開され、彼を囲むように風が巻き起こる。

「旋風招来《ホワールウインド》」

 詠唱とともに旋風が巻き起こり、一気に魔物を吹き飛ばした。壁は開け、道が現れる。吹き飛ばされた魔物は、身体がばらばらに砕けていたり、衝撃で身体を丸めていたりで、ほとんど一掃されていた。
 短い詠唱でよくここまでの魔術が使えるものだ、とシェスカは素直に驚いていた。サキが使ったのは恐らく中級魔術だ。通常ならば、あんなに短い詠唱で発動できるものではない。魔力を練り上げる速度に、イメージの構築速度が恐ろしく速いからこその技だろう。魔術師を自称するシェスカでさえ、そんな芸当はできない。

「今のうちに抜けるぞ。小物が来たら対応してくれ」

 右手でヴィルを担ぎ上げ、イリスを小脇に抱えながら、サキが言う。どうやって持ち上げているんだという疑問は、この際後回しにするべきだろう。
 サキに頷いて、剣を握り直して、先を走る彼に続いた。


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