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「何言ってんの?」
唐突に何を言い出すのだと、シェスカは呆れ果てた。
この岩肌。この暗さ。どこをどう見ても、ここは洞窟――もしくは洞穴だとかそういうものに分類されるなにかでしかない。
けれどサキはそうではないと言うのだ。
「どうしてそう思うのか、根拠を聞かせてもらえないかしら。出口がないから、とかそういうの以外で」
いきなり今いる洞窟が、そもそも本当に洞窟であるか、などと言われても困る。
サキはそれに頷くと、淡々と語り始めた。
「ひとつ。俺達は渦に呑まれてここに来たこと。――渦に呑まれる前、不自然な点がいくつかあったはずだ」
そう言われて思い返してみる。あまりにも急に近づいてきた嵐、そこに浮かぶイリス、ヴィルが彼女を助けようとした途端に起こった渦。いくつか思い当たるものを並べていく。
「……確かに、妙だったわね。そういや、あんたが落ちた時も変だった気がするわ」
「ああ。急に掴んだ縁が腐食した」
「その前のロープも、だよ」
黙っていたセレーネがぼそりと付け加えた。
「あの船は出航前にきちんと点検した。船自体、劣化はしていないし、備品も古びたものはない。全てほぼ新品の状態と言っていい」
確かに、ヴィルへと向けて投げたあの浮き輪でさえ、ほとんど雨風に曝された形跡がなかったように思う。掴んだロープも、ささくれ立っておらず、乱れの少ないかなり綺麗な編み目だった。
それが、あのタイミングで腐り落ちるなど、本来ならば考えられない。――となると、何か別の要因があるはずだ。それが何なのか、シェスカが問いかける前に、サキは次へ続ける。
「ふたつ。さっきも言ったが、ここには風がなく、これといった出口が見当たらないこと。俺とベルシエルが気がついた時には、すでに洞窟の通路のような場所だった」
これはさっき聞いたとおりだ。その時点では不審に思っていた程度だったらしい。実際シェスカが目が覚めた時、二人は出口を探していた。疑い始めたのは、いくらか進んだ頃だろう。
「お前たちの話を改めて聞いて、これで確信した。みっつ。ベルシエルがいち早く異変に気づいたこと。以上だ」
「? それがどうして関係あるの?」
「それは――」
シェスカの問いに、それまで淀みなく答えていたサキが一瞬言葉を詰まらせた。しかしそれは本当に一瞬で、すぐさま、
「特殊な体質の持ち主だからだ」
とだけ答えた。
「ベルシエルは、悪魔の気配がわかる。今のこの状況は、恐らく悪魔の作り出したものだ。恐らく幻術の類だろう」
セレーネを見ると、こくん。と小さく頷いている。
「――悪魔、ってことは、まさか魔族が……!?」
最悪の可能性がシェスカの頭をよぎる。「悪魔は魔族に使役されている」と、サキとルシフェルは言っていた。今まで散々シェスカを追い回していたのは、『魔族』と呼ばれる存在で……。ということはつまり、追っ手がすぐそこに迫っていることを意味しているのではないか。
「可能性はあるが、高くはない。悪魔はどこにでもいるし、どこにもいない。全ての悪魔を魔族が従えているわけじゃない。そんなことは不可能だ。例えば、今回の件は船か、もしくは海の生き物に憑いた悪魔のほうが可能性としては考えられる」
「そういうものなの?」
「ああ。噂やらで聞いたことくらいあるだろう。船を遅う巨大ダコとか幽霊船とか。ああいうのは大体悪魔の仕業だ」
そういえば、いつだったか読んだ本の挿し絵か何かで、そんなものを見た気がする。と、いうことは怪談に出てくる幽霊の類の正体は悪魔ということか。とひとり納得する。決して苦手だから正体がわかってほっとしたわけではない。断じて。そうシェスカは誰も聞いていない言い訳を心の中で並べ立てるのだった。
「とはいうものの、今のここが幻術だってのは納得しがたいわね……」
何しろ自分の意志でものに触れられるし、感触だってわかる。根拠が気を失う前のことばかりで、いまいちピンとこない。
「そうだな……」
サキは少しだけ考え込むと、何かを思い出したように「袖を捲ってみてくれ」とシェスカの腕を指した。大人しくそれに従って、両腕の袖を捲ってみる。――特に何もない、自分の腕だ。
「なんにもないけど」
「何もないのが変だ。あんたはロープを思いっきり腕に巻き付けていた。人ふたりを飲み込もうとするほどの渦だ。千切れてもおかしくないほどだっただろう?」
「……言われてみればそうね」
あの時は必死で痛みなんて感じている余裕がなかったのか、はたまた感覚が麻痺していたのか。あるいはその両方か。冷静に考えれば、それほどの力が加わっていたのだ。腕にその跡くらい残っていないとおかしい。…………もっと冷静に考えると、あの時このサキ・スタイナーという男は、そこにシェスカを加えた分の負荷を片手で支えていたということになるが。
「……じゃあ、どうすればここから出られるの? ヴィルたちはどこにいるのよ? 幻術の類だって言ってたけど……」
シェスカは袖を戻しながら改めて尋ねた。
そう。問題はそこなのだ。このまま問答を続けたところで埒が明かない。どうにかして現状を打破しなければ、魔族に捕まったのと状況はそう変わらないのだ。
「核があるはず。いちばんにおいが強いところ。それを壊すの」
セレーネが静かにそう言った。
「核?」
「そう。核。悪魔はね、かたちがないから、存在するために、何かに取り憑いてかたちをつくるの。それが、核。ニンゲンで言うなら、心臓」
「それを壊せば、かたちを失って、存在できなくなるってこと?」
「うん。いままでずっと、においを避けてきたから、反対方向に行くの」
「これまで歩いてきたのは無駄足だったってわけね」
やれやれ、とシェスカは肩を竦めた。
「全てが無駄だったわけじゃないがな」
「どういう意味よ」
「俺達がここを現実じゃないって気付いたのはでかいぞ。ヒトは誤解でも死ぬ生き物だからな」
サキはそう言うとすたすたと来た道を戻っていく。セレーネもそれに続こうと、一歩踏み出そうとした時だった。
ぴたりと。セレーネがその動きを止めた。あまりの違和感にシェスカは目を丸くして、「どうしたの?」と尋ねた。
「うで、変」
セレーネは短く、呟く。彼女の腕を見ると、黒い火花のようなものが纏わりついていた。
「な……、なにこれ!?」
「さわっちゃだめ」
近寄ろうとするシェスカを短く制すと、セレーネはゆっくりとサキのほうへ向き直した。
「外からの干渉。わたしはここにいられないみたい」
「外から……ジェイクィズか」
「たぶん、そう。でも、おかげでちょっとヴィルたちに近付けた。こっちに引っ張ってこれるかも」
彼女は頷くと、黒い火花をぐっと握りつぶした。音も立てずに消えたそれは光の粒になって、セレーネを吸い込むように包んでいく。
「ちょっと、これやばいんじゃ……!?」
シェスカの焦りを含んだ声も、セレーネは全く気にも留めず、まだ消えていないほうの腕をサキに伸ばした。その手を、サキが握り返すと、彼女はうっすらと微笑んだ。
「だいじょうぶ。醒めるだけ」
「この夢から」
その言葉を最後に、セレーネの身体は完全に霧散した。
chapter.5-11
world/character/intermission