ずっとそばにいて


※社会人現パロ



「キーリト。行くよ」
「どぅぇっ!?」
「お疲れ様でーす、お先失礼します!」
「おー、お疲れー」
「ちょっ、おま、ユージオ〜!?」
 その日、キリトこと桐ヶ谷和人は相棒に無理やり業務を引き上げさせられ、引き摺るように居酒屋へと連行されていた。キリトの制止もなんのその。相棒は気にした素振りも見せずに呑気に同僚や上司に挨拶を交わしていたのだった。

「…………」
「いつまで拗ねてるんだい?」
「誰かさんが無理やり引っ張ってきたせいでやり残した業務がちらついてるだけだよ。だから拗ねてなんかない」
「もー。子どもみたいなこと言って」
 呆れた顔でジョッキをあおる相棒はユージオ。キリトとは家が隣同士の幼馴染みで、呼び合うのはその頃からのあだ名だ。結局こうして大人になってもついぞ直らなかったこの呼び方はお互いに仕方がないと諦めている。今更名前で呼ぶのが気恥ずかしい、なんて奇妙な気持ちがあるもので。
 キリトは先程からそっぽを向いて、ちびちびとジョッキの中身を減らしていた。理由は先述の通り、ここまで引っ張ってこられたこと。キリトは本日、どうしても帰りたくない訳があり、そして他に考えごとをしたくなかった為に仕事を詰め込むことですべてを解決しようと目論んでいたのだ。それを台無しにしてくれた相棒にはこの蟠りを解消してもらわねば気が済まない。そんなわけで、キリトはじとりとユージオを睨めつけていた。
「で? 目的は?」
「うん、久しぶりに惚気でも聞いてあげようかなって」
「……は?」
 思わぬ返答に、キリトはぽかんと呆けた面を晒した。その間もユージオは何食わぬ顔で焼鳥を摘んでいる。
「……いやいや、何がどうなっていきなり惚気になるんだ?」
「喜怒哀楽、どれにしろ、君がそこまで心を動かす相手はひとりだけだからね。今日一日うわの空だった理由が彼女なのは間違いないとして。喧嘩したと仮定してもキリトから聞く話が惚気に発展するのは長年の経験から学んでるんだよ」
「え、いや、そんなこと」
「あるんだよ、これがね」
「お、おお……」
 いつになく冷静にこちらを封じ込める相棒の圧に閉口するほかなく。キリトは縮こまるような思いで最後にこくりとそっと頷いた。

 キリトには愛する妻がいる。彼女と出会って恋をして、自分にはもうこの人しかいない、と断言できるほどに愛しているひとだった。
 そんな妻──アスナに対する愛情はとどまることを知らず、それを誰かにぼやいてみせると途端に砂糖を直接口に入れたみたいな反応をされるので、いつしかキリトが他人に妻のことを話題に上げる機会はめっきりなくなっていた。それは目の前の相棒にも当てはまることで、曰く「今まで自ら女の子との接点断っていたくせに、彼女と付き合いだした途端これだからなあ……」だそうだ。確かにその変化は我ながら驚くものがあったので褒められたのかと勘違いして「よせやい」なんて返してみればシラけた視線がお見舞いされたんだったか。
 キリトはぼんやりと昔の記憶を蘇らせつつ、ぽつりぽつりと昨晩の出来事をユージオへと聞かせてみせた。



「キリトくん、最近無理しすぎてない?」
「そうかな? そんなことないと思うけど」
 アスナは心配を滲ませた声でそう言うと、眉尻を下げながらキリトの顔を覗き込んだ。確かに指摘どおり、多少、いやほんの少しだけ、最近は詰めて仕事をしていた自覚はある。だがそれは間近に迫るクリスマスに向けてのサプライズのためであり、キリトにとってはこれくらい無理の範疇には入らないものだった。
「……ううん、やっぱりしてるよ。最近朝も早くてろくにご飯食べてないし、夜もそう。年末だから忙しいのは分かるけど、もう少し休めないの?」
「え、ええと……」
 キリトは困ったとばかりに視線をそらした。喜ばせるために色々と思案しているサプライズのことは当日まで内密にしておきたい。となれば気遣ってくれているアスナには心苦しいが、ここはなんとか誤魔化すしかない。
「頑張ってるのは俺だけじゃないしさ。でももう少ししたら一段落つくから、そうすれば休めると思うよ」
 実際にはすでに休みはとっているけれど、キリトはそう告げる。
「キリトくん……、」
「ごめんアスナ。心配してくれてありがとう」
「……きみってば、いつもそうだよね……」
「……え?」
 きっと彼女なら仕方がないなあと微笑んで、ため息をつきつつも見逃してくれると思っていた。それがいつものことだったからだ。
 ──それが高を括った考えだと気づかされたのは直後だった。
 俯いたアスナは、静かな声でぽつりと呟く。その声色にやわらかさが消え去っているのに、キリトは少し遅れて気がつく。
「わたしにはなんにも言ってくれなくて、ひとりで無茶して……わたしって、きみにとってはそんなに頼りない存在なの……?」
「そんなことない!」
「だったら! だったら、どうして隠しごと、するの……?」
「え、」
「もう何年一緒にいると思ってるの? キリトくんが隠しごとしてることくらい、わたし分かるんだよ」
「、っ」
 キリトは焦った。サプライズの件と、アスナに弁解することを天秤にかけて迷った。その数秒が彼女に決断をさせてしまった。
「もういい! キリトくんなんか勝手に無茶でもして倒れても知らないんだから!」
 顔を上げたアスナのはしばみ色の瞳は涙に濡れており、キリトは頭を殴られたような衝撃に襲われた。その間にアスナは部屋どころか玄関を飛び出してしまい、一晩経っても彼女は帰ってこなかった。結果キリトは現在妻に出ていかれた情けない夫という状況におかれているのであった。



「……アスナを怒らせるどころか泣かせるなんて……俺は……」
「なるほど。それでキリトは今日一日落ち込んでたってわけか」
「だって、泣かせたんだぞ!? アスナを……!」
「ハイハイ分かったよ。キリトはあのひとの涙に弱いもんねえ……」
 当然だった。アスナは昔から気丈な性格で、滅多に涙を見せることなどなかった。彼女の涙は感動や喜び、はたまた──いや、今この話題はよそう。なんだか虚しくなってくる。とにかく悲しみからくるものの涙は極力見たくないし、自分がきっかけでなんてあってはならないと密かに誓っていたのだ。
 それなのにこのざまである。己のなんと愚かなことか。キリトの脳裏にはまだ昨夜のアスナの涙が鮮明に焼きついていて消えない。
 それに、問題はそれだけではない。アスナは昨夜から家を出ていったっきりなのだ。おそらく友人のうちの誰かのところへ泊めてもらっているのだろうが、今のキリトには連絡するような資格すら持ち合わせていない。にっちもさっちもいかない現状に為す術もなく、キリトはただ項垂れて帰宅する時間を遅らせることしかできなかった。
「……アスナがいない家になんて帰りたくない……」
「それだけ怒らせたのなら、一週間は帰ってきてくれないかもしれないね」
「……ッ!?」
「ごめんごめん、からかいすぎた。でもさ、ほんとはキリトも分かってるんだろ? こうなったら素直に白状して謝るしかないって」
「それは……まあ……」
「そもそも普段から無茶やってるキリトが悪いんだしね。いいお灸をすえられたんじゃないか」
「そっ、なっ……」
 そんなことない、と言おうとしてなんとなく覚えがあることに気がついて変な鳴き声みたいになってしまった。
 ともかく、ユージオの言うことはまったくもって正しくて。そもそもこんな状態がクリスマスまで続けばサプライズどころではない。離婚、という最悪の二文字が脳内をよぎり、キリトはぶるりとかぶりを振った。
「ユージオ、俺……」
「決心はついたかい?」
「……ああ。だからもう少し付き合ってくれ」
「ええー……? しょうがないなあ……」
 残念ながらキリトは自身が既にどれだけのグラスを空にしていたのかも、そしてそれをユージオがまったく指摘しなかったことも、思考力が鈍っていてなんにも気づくことはできなかったのである。
 ──ただひとつ、目が覚めたら隣にアスナが居てくれたらいいのになあ、と今や贅沢にも思える願いを最後にパタリと意識を飛ばしたのだった。



  ◇  ◇  ◇



 キリトと喧嘩をした。いや、あれは喧嘩というよりアスナが一方的に怒って家を飛び出しただけなのだから喧嘩とも呼べないだろう。
 もう彼と出逢って十年になる。詳しく聞き出せたことはないけれど、先に惚れたのは間違いなくアスナの方だ。朴念仁の彼に苦労しながら猛アタックしてようやく付き合えて、恋人期間を経てキリトからプロポーズされたときは夢をみているのかと思えるくらい嬉しくて、つい涙を流してしまった。
 かなり長い年月を過ごしているが、実はふたりが喧嘩をすることは滅多にない。キリトはやんちゃなところがあって悪戯好きだが引き際を弁えているからアスナが本気で嫌がるようなことは絶対にしないし、母親と妹に囲まれて育った影響からか紳士的な面が垣間見える。
 一方アスナも、そんな彼に呆れたり振り回されたりする機会が多々あれど本当に怒ることは稀だ。だから昨夜のあれは不運が重なった結果彼にあたってしまったアスナが悪かっただけなのだ。
 確かに、キリトが無理をしていたことも隠しごとがあったのも事実なのだろう。しかしそういったときは大抵事情があってのことだし、今回もきっと同じに違いない。それを断言できるからこそ、理解しているアスナはいつものように苦笑してもうしばらくは様子見するつもりでいた、のだが。
 ──うまくいかなかった。
 昨日は朝から散々で、ちょっとしたミスばかりしていた。朝食の卵焼きは少し目を離した隙に焦がしてしまうし、せっかく洗濯したハンカチはベランダで風に飛ばされて落ちて洗い直す羽目になったし、買い物に行けばしっかり確認したはずなのに買い忘れがあったことに帰宅してから気がついた。いつもはしないはずのミスを一日のうちに繰り返して、知らぬ間に蓄積していたむしゃくしゃした気持ちをあろうことかキリトにぶつけてしまった、というのが事の顛末だったのだ。
 ハッと我に返ったときには家を飛び出してしまっていて、けれどすぐには自宅に戻りづらい。どうしようかと途方に暮れているうちに寒さにつられてか冷静になってくる。かろうじてポケットに入れていた携帯端末で、現在地から一番近い場所に住んでいる友人に連絡をして泊めてもらうことになった。
 友人の家にお邪魔させてもらって、何があったか洗いざらい吐いて、ひと息ついてからも考えるのは最愛の旦那であるキリトのことばかり。数分おきにため息をつくアスナを見かねたのかはたまた鬱陶しく思ったのか。友人──アリスがアスナの名を呼ぶ。彼女を象徴するうちのひとつであるその綺麗な蒼眼をこちらに向けて問う。
「私はちょうど明日は休日なので泊まっていってくれても構いませんが、アスナはどうしたいのですか?」
 意志の強い視線はまるで騎士のよう。嘘も誤魔化しも効かないであろうことが見てとれる。
 アリスはキリトの幼馴染みで、彼を通じて知り合い友人になったのだ。きっとキリトもこんなふうに追い詰められたことが一度や二度、どころか十や二十はくだらないのだろうなと思う。
「ありがと、アリス。わたし……、」
 もうすっかり頭は冷えている。キリトはちゃんとご飯を食べているだろうか。彼のことだから抜いてやしないか。そもそもアスナが出て行ったことをどう思っているのか。もし、アスナのことなんか気にも留めないで普段どおり過ごしていたらどうしようと不安になる。
「……っ、ごめんね、わたし、明日も」
「アスナ」
 途端、アリスの雰囲気が和らぐ。
「大丈夫です。キリトのことだから、アスナが出て行ってしまって気が気じゃなくなっているはずですよ」
「そう、かな……」
「……ふたりともいつもあんなに仲が良いのに不安になるのですね。不思議なものです」
「えっ、えっ……!?」
 ぽっと頬が熱くなったのが自分でも分かった。それを見たアリスからマグカップを渡される。中にはカフェオレが入れられており、ほんのり温かいマグがアスナの心をじんわりと溶かしていくようだった。
「それでこそいつものアスナというものです」
「……ううん……どう解釈すればいいのか微妙だけど、一応励ましてくれてありがとうって言っておくね」
「ふふ、どういたしまして」
 それから。アリスはあえてなのか、それとも単純に久しぶりのお泊まりだからなのか。ふたりで女子トークに盛り上がって一夜を過ごし、朝はお礼にアスナが朝食を作ってみたりなんかした。
 昼前にはお暇しなければと帰る支度をしながらこのあとの予定を立てる。せっかくだから今日の夕飯は思いっきり豪華にして、彼にごめんなさいをしよう。そのためには色々と準備が必要だ。
「……アスナ、先程ユージオから連絡がきたのですが」
「ユージオくんから?」
 キリトのもうひとりの幼馴染みの名前が出てきて、アスナはぱちくりと目を瞬かせる。
「このままだとキリトが会社に泊まりそうな勢いだから、なんとしてでも帰宅させるので家に居てほしいそうです」
「う、うん……! なんか、ユージオくんにまで迷惑かけちゃってるみたいで申し訳ないな……アリスもごめんね」
「いえ、私も、そしてユージオも気にしていませんよ。……私たち、キリトが心を塞いでしまった時期を見ていたのでなんだかんだいって嬉しいのです、キリトに好きなひとができたというのが」
「アリス……」
「ふたりはもう夫婦なのに今更こんなことを言うのもおかしいですね」
 それはおそらく、キリトの出自に関することなのだろう。彼は桐ヶ谷の養子で、そのことを幼い頃に知ってしまい、一時期周囲から距離をおいたのだそうだ。あの頃は俺も子どもだったから、どうすればいいのか分からなかったんだ、とアスナに語ってくれたキリトの表情を思い出すと今でも胸が締めつけられる。まだ出逢っていなかったアスナでさえそうなのだから、傍で見ていたアリスとユージオはもっと思うところがあるのだろう。
「ううん……わたしも、キリトくんと出逢えて本当に良かったってずっとずっと神様に感謝してるから」
「……相変わらず、惚気けてくれますね」
「ええっ! 今のはアリスから言ったじゃない!」
「すみません、少しからかいました。ではユージオに伝えておきますね」
「……ありがと。それにしても、やっぱりユージオくんはキリトくんのことなんでも分かっちゃうんだなあ」
「ヤキモチですか? キリトが分かりやすいだけでしょうから気にすることないと思うのですが」
 もうすでに、アスナの心からは迷いやもやもやとした暗い気持ちは完全に消え去っていた。



 夜十時を回った頃、インターホンが鳴った。確認すると、爽やかな笑顔を浮かべたユージオと、その彼に支えられてすやすやと眠る夫の姿がそこにはあった。
「こんばんは、アスナ」
「こんばんは、ユージオくん。……ところで、これはいったい……?」
 キリトは酒豪とまではいかないものの決して酒に弱いわけでもない。さらには自身の限界も理解しているはずなのでこんなに潰れるところは今まで見たことがなかった。
「キリトってば相当参ってたみたいでね、自分でも気づかないままどんどん飲んじゃって」
「えっ、キリトくんが……?」
「アスナに出ていかれたのが余程堪えたんだろうね」
「ううっ……あの……」
「ああ、アスナを責めてるんじゃないよ! むしろアスナの言い分が正しいと僕も思っているしね。でも多分、いくら言っても聞かないのがキリトだしなあ……こればっかりは……」
「ふふ、そうだね……あっ、ごめんね玄関で! 今温かいお茶出すから上がっていって、」
 慌てたアスナを止めたのは他でもないユージオで。このままで大丈夫かだけを確認するとあっという間に帰ってしまった。お礼なら明日キリトから貰うからいいよ、と笑っていたのであとはあどけない寝顔をさらして眠っているこのひとに任せておくことにする。
 あらかじめ居酒屋に寄るということは聞いていたのでご馳走は後日にして、簡単なものを作って冷蔵庫にしまっている。だがこの様子ではそれも明日にまわすことになるだろう。
 とりあえず、このまま玄関に寝かせておくわけにはいかないのでキリトの身体を支えて寝室へ向かう。
「キリトくーん、ほら! ベッドまでもう少しだから頑張って!」
「うう、ん……、」
「よいしょ! っと、……わわっ!?」
 えいや、と仕上げに半ば投げるようにしてキリトの身をベッドへ寝かせた。だがその際バランスを崩してアスナも一緒に倒れ込んでしまった。着痩せする彼は見た目よりも身体つきがしっかりしているので、アスナの力では最後までうまく支えられなかったようだ。
 キリトはうつ伏せで寝転がり、しかし腕は仰向けに倒れ込んだアスナの首にしっかりとまわしている。まるでベルトのごとくベッドに固定されてしまったアスナは天井を見上げながらどうすべきか逡巡した。
 そして決断の早いアスナは瞬時にこのまま眠ることにした。だって、キリトと一緒に眠るのは一日ぶりなのだ。結婚する前の、同棲していた頃から同じベッドでともに就寝していたものだからたった一日欠けただけでも寂しく感じていた。アリスとお喋りしながら眠りについたのも楽しかったが、一番安心して身を委ねられるのはこのひとの隣だけなのだと改めて実感する。
(あたたかい……)
 それに、もう。キリトのぬくもりを感じ取っているうちにアスナの意識は夢の中へ誘われていく。意識をすべて持っていかれる前になんとか閉じかけていた瞼を持ち上げ身体を横に向ける。キリトと向かい合う姿勢になったことを確認し、アスナは愛おしい夫の額にキスを落とした。
「おやすみ、……きりとくん……」
 そうして今度こそ、アスナは襲ってくる睡魔に抗うことなく意識を手放したのだった。



  ◇  ◇  ◇



 好きな色は、と尋ねられたら黒だと答える。ではずっと見ていたい色は、と聞かれたらキリトは最愛の妻の瞳の色だと答える。
 ──そう、たとえば。この髪も瞳と同じような色をしている。見るだけで艷やかだと察するそれは、触ってもさらさらとした感触を楽しませてくれるのでキリトは彼女の身体を抱きしめながらついつい触れてしまう、なんてこともよくある。我ながら変態くさいよなあと反省はしつつもどうしても止められない。
 キリトは彼女を起こさないようそっと左手を持ち上げて、頬に流れる一房の髪を掬った。それを耳にかけてやり、するりと手を滑らせた。アスナが、隣にいる。
 それはそうだ。キリトは彼女と恋人期間を経て夫婦になったのだから。こうやってふたりで寝るようになってから、もう何年も経っている。
 これは夢──ではない。なぜ夢だと思うのか。アスナが隣にいるのはもはや日常になっている。それがどれほどの幸せなのか、ついこの間思い知ったばかりではないか。それこそ昨日──。
「……えっ!?」
 ようやく思考が追いついてきて、キリトはがばりと身体を起こした。すると途端に、ずきずきとした痛みが頭に響いた。
「うっ……昨日は、確か……」
 アスナが帰ってくるかどうかも分からない家に戻りたくなくて、会社に泊まり込もうと企んでいた計画をユージオに暴かれ無理やり引き摺られて居酒屋に連行された。話を聞いてもらってどうにかアスナに連絡する決心がついたもののもう少し飲んで帰りたくて、それで。
 キリトは己の記憶がそこまでで途切れていることに気がついた。途中でユージオが止めなかったことから察するに、どうやらキリトがちゃんと帰宅するのか相棒は信用していなかったらしい。それにしても、自分がどれだけ飲んでいたのかすら見えていなかったとは余程動揺していたようだ。まあそれも仕方ないよな、と隣を見遣る。すうすうと穏やかな寝息を立てて眠っているアスナは最近就寝の際に身につけているふわもこ素材のパジャマ姿ではなく、ゆったりとした白いニットだった。
 キリトが起床したときの状況を考えると、おそらく寝室まで運んでくれたアスナがそのまま寝落ちたのだろう。
 頭を使ったせいかそこで再び頭痛が訪れたので、そっとベッドから抜け出しキッチンへ向かう。コップに水を注いで一気にあおると少しだけすっきりした気がした。時計はまだ早朝の五時を指していて、今日の出勤まではまだ時間がある。ひとまず身体もすっきりさせようと、キリトは浴室へ足を向けた。

 さっとシャワーを浴びて出てくると、外はほんのり明るくなっている。リビングのエアコンを起動させてから寝室へと戻った。
 眠るアスナを前に、さてどう切り出したものかとちいさく唸る。開口一番に謝るべきか、アスナがきちんと目覚めるまで待つべきか。キリトの眉間の皺が深くなるにつれて時計の針も進んでいく。たっぷり五分ほど迷った末に、まずはアスナを起こすことにした。思えばいつもは彼女が先に起きてキリトを起こしてくれるのでなんだか新鮮だった。怪我の功名というやつだな、と割と真面目に考えたところでそれを振り払うようにベッドへ近寄った。
「……アスナ」
「んん、……ぅー」
 端に腰を掛けて軽く身体を揺さぶる。寝起きがいい彼女はそれだけでふるりと睫毛を震わせる。
「……きりと、くん……?」
「うん。おはよう、アスナ」
「……っ、キリトくん!?」
 完全に目が覚めて、瞬時に理解したらしいアスナが起き上がると同時にキリト目掛けて突進する勢いで抱きついてきたので咄嗟に抱きとめた。
「ちょっ、危ないだろ!?」
「キリトくんごめんね……っ! わたし、昨日はちょっとイライラしちゃってて、それできみにあんな言い方……!」
「ま、待った!」
 何もかもが予想外の展開に転がっており、キリトは捲し立てるアスナの言葉を遮った。まずいきなり抱きしめさせてくれるなんて思いもしていなかったのだ。
「なんでアスナが謝るんだ? 俺が全部悪かったのに……」
「違うよー! 言ったでしょ? わたしイライラしてたって」
「それに気がつけなかったんだしやっぱり俺が悪いよ」
「ううん、わたしが」
「…………これ、多分ずっと続くな……」
「……キリトくん頑固だもんね」
「ええー、アスナもだろ?」
 どちらからともなく笑って、視線が合う。出鼻を挫かれてしまった感は否めないが、改めて告げる。
「アスナ、昨日は君の心配を無下にしてしまってごめんな」
「ううん、……わたしのため、なんだよね……?」
「え。な、なんでそれを……!?」
「あ、詳しいことは何も知らないよ? ただ、アリスとユージオくんから色々聞いて、きみがあれこれやるのはわたしのことばっかりなんだなーって知っちゃったから」
 アスナの発言は色々と聞き捨てならないものだった。
「当たり前だろ!? ってそうじゃなくて、いやそれもなんだけど! 何を聞いたんだ!?」
「キリトくんがわたしのことをすっっごく好きなんだって話」
「そ、」
 ──れはそうですが。当然ですが。断言できますが。改まってアスナから告げられてしまうと。
「ぐ、ううう……」
「なにその鳴き声」
「なんて返事したらいいか分からないときのやつ」
「ふふっ」
 くすくすと朗らかに笑うアスナを見ていたらなんだかようやく心が追いついてきたような感覚になり、キリトは安堵から深いため息を吐いてしまった。
「はーーっ……よかった……離婚持ち出されなくて……」
「やだ! なあに、それ?」
「このまま仲直りできなかったらもしかすると思って……昨日から気が気じゃなかったよ……」
「……わたしがどんなに怒ってたとしても、きみと離れる選択だけは絶対にしないよ?」
 無自覚なのか、小首をかしげてそう宣言されてしまった。キリトはなんだか堪らなくなってアスナを押し倒す。
「きゃっ、キリトく、」
「俺も、明日奈と離れるなんて考えられないくらい愛してる」
「き、……和人くん……」
 アスナは囁いて、目を閉じた。それを合図だと悟り桜色の唇へ口づける。薄く開かれた隙間に自身の舌を捩じ込み、深いものへ。幾度も角度を変えて濃厚なキスを交わし、ようやく離れたと思ってもふたりの瞳には熱が灯り、まだ足りないと思っているのが伝わってくる。
「……時間、は、大丈夫だよな……」
「うん……きて、和人くん……」
「明日奈……っ!」
 一日離れていた時間を埋め合うように、キリトはアスナの熱に溺れていった。



「やあキリト。今日はずいぶんと重役出勤だね」
「二日酔いだよ二日酔い。誰かさんが俺を潰したからさ」
「よく言うよ。ところでキリトに頼みたいことがあるんだけど、もちろん断るなんてことはしないよね?」
 軽口を交わしつつ、キリトは内心冷や汗を流していた。こんなときのユージオは正直怖い。それに昨夜の帰り際の発言をアスナから聞かされていたから、さて何を頼まれるやらと戦々恐々としながらも断る道はすでに絶たれている。
「お、おう……なんでもこい!」
 その後、相棒の爽やかな笑顔とともに渡されたデータを見てキリトが悲鳴をあげるまで、あと数分。



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