甘々閑話


 振り返ってみると、なんとまあ情けないプロポーズをしてしまったのか。キリトは数刻前の自分を恨めしく思いつつ、いまだ現状を呑み込めずに夢のようだと思っていた。
 目の前の少女──アスナとパーティーを組んでから今日まで目まぐるしい日々だった。たった数日で二度も死にかけたのだから、その疲労度は我ながら計り知れない。しかしその代わりに手にした幸福は何物にも代えがたいものだった。
 ──失いそうになって初めて気がついた、なんて。己の鈍さにはとことん嫌になる。
 その華奢な身体を腕の中に閉じ込めたのも、唇を重ねたことだって、勝手に身体が動いていた。とにかく無我夢中で、アスナが離れていってしまうなんてこと、許してあげられそうになくて。

 そのあとの顛末は脇に置いておく。なけなしの、男としてと矜持、というやつだ。
 プロポーズをして、了承してもらって、そのときの微笑みがあまりにも綺麗で愛おしく思えたから。キリトはまた、アスナを組み敷いて存分に貪ってしまった。
 ハジメテだったのに。いや、ハジメテ、だからだろうか。抑えが効かず、アスナには無理をさせてしまったに違いない。すうすうと眠っている今がその証拠だ。赤くなった目元をそっとなぞる。
(……かわいい)
 VRが彼女の美貌をより際立たせているのか、それとも現実世界でもさほど変わらないのか。取り留めのないことばかりが頭を過ぎっているのはひとえに目のやりどころに困るからである。他のプレイヤーの装備フィギュアを弄るなんて真似は出来ないため、アスナはまだ美しい肢体を曝けだしたままで、その身にまとうのはシーツ一枚だけなのだ。今のキリトには非常に目の毒なのだが、それに反して健全な男子高校生としてはずっとアスナを見つめていたいという本心がちらついている。とりあえず折衷案として密度を増してなるべく首から下を視界からは外しつつ、けれどアスナの顔はしっかりと目に焼き付けるようにじっと見つめた。
 長い睫毛も、白くまろい頬も、桜色の唇も。アスナを象るすべてが美しく、この光景を切り取って大事に胸の奥にしまっておきたくなるようなむず痒い感覚にとらわれる。キリトはアスナのものだし、彼女だって同じだと言ってくれた。それなのに胸の内にはまだ、黒い靄が燻っている。気持ちを通じ合わせて身体を重ねても満たされない心は、どうしたらいいのだろう──。

「……きりと、くん」
「っ、アスナ……?」
「ん……おはよう」
 ゆるり、と瞼が開かれて、はしばみ色の瞳があらわれる。ふにゃりと愛らしい笑みを浮かべたアスナはキリトの唇の端にキスをした。大胆な行動に顔を赤らめて思わず仰け反る。「逃げないでよう……」と頬を膨らませる姿はたいへん可愛らしく内心悶えてしまうものがあるが、おそらくアスナは。
「寝ぼけてるだろ」
「んー……ふふー」
「おっ、まえ、なあ……!」
 キリトの脳内には可愛いという単語が溢れてゲシュタルト崩壊を起こしかけている。先程までアスナのことは閉じ込めて自分のものだけにしてしまいたいと思っていたくせに、今はうちの奥さんがこんなにも可愛いと大声で自慢したい気持ちでいっぱいだった。まったく、彼女にはこちらの感情をかき乱されてばっかりだ。それが嫌だとはちっとも思わないのだから、人を愛するってすごい、なんて他人事みたいな感想が浮かぶ。 
「はやく起きないとあとで後悔するぞー」
「しないよー」
「するんだって……」
 ふにゃんふにゃんのアスナさんが愛らしいのは結構だが、後々拗ねられても嫌なのだ。そのぶんいちゃつく時間が減ってしまう。それだけは避けるべき事態だった。
 ぎゅうぎゅうとくっついてくるアスナを構いつつ軽く肩を揺すっていると、だんだんと彼女の語尾がしっかりとしたものに変わっていく。
「キリトくん、大す、き……、……」
「アスナ?」
「……わたし、いま何口走ってた?」
「え。色々、かな……?」
「っ、〜〜〜っっ!!」
 案の定というか。我に返って耐えきれなくなったアスナが枕に突っ伏した。見え隠れする耳が真っ赤になっているから照れているだけだろう。
「うう〜……」
「だから言っただろ……」
「いつもはこんなことないもん……昨日夜ふかししちゃったせいだもん……」
「ウッ……それを言われるとなんの反論もできませんけども……」
 半分だけ顔をこちらに向けて、ジトリとした目で一突きしてくる《細剣使い》さん。やっぱりこうなったかあ、と思うが、アスナは怒っていても可愛くてこれはこれでアリだなあなんてとても本人には聞かせられない結論を出す。
(というか俺、さっきからアスナが可愛いしか言ってないな……)
 アインクラッド内でトップクラスの美人なのだからそう思うのは間違いではないはず。だがその回数が多すぎるのはやはり好きになったからに他ならない。キリトは己がなかなかに重症なことを再確認して。
(まあ事実だしな)
 ──と、開き直った。
「キリトくん、さっきから何ひとりで難しい顔してるの?」
「いやあ、平々凡々な野郎が可愛い奥さんを持っちゃうと思うところも出てくるなあ、と……」
「……奥、さん」
 アスナが呆然とした声でそう呟くものから、キリトは先走って調子に乗りすぎたのかと焦った。一応プロポーズはしたけれども、キリトには考えがあってまだ《Marriage》のボタンは押していない。つまりシステム上ではキリトとアスナの関係は《パーティー》と《フレンド》の二つだけだった。だから奥さん、なんて呼ぶには早かったかとおそるおそるアスナの様子を窺うと。
「……そっか。わたし、きみの奥さんになるんだね……」
 ほにゃり。そんな擬音がピッタリな微笑みだった。細まった瞳と桃色に染まった眦、ゆるやかに上がった口角からは幸せだという気持ちがありありと伝わってきて、キリトは自分の焦りが杞憂だったことを知る。いくら女性の機微には疎い自覚があるキリトでもアスナの表情からその気持ちは一目瞭然で、まるで伝播するようにこちらの心をも幸福にした。
 次から次へと湧き出てきて止まらないこの気持ちをどうすべくか逡巡し、とりあえず手始めにアスナの背中に自身の腕をまわした。すると互いに似たようなことを思っていたらしく、視線が交わるなり距離が縮まり、そしてゼロになった。角度を変えながら舌を絡ませ、深く深く愛し合う。互いの吐息と、それに紛れるようにしてアスナからはいじらしい嬌声がもれ聞こえる。
 気がつけば夢中になって、二人はしばらくの間相手の体温を求めて溺れていた。





「ね。わたし、気になってたことがあるんだけど……」
 アスナが声をひそめてそんなことを言うので、キリトは「どうしたんだ、改まって」と訝しげに返した。
「……、……」
「え?」
 彼女から切り出したくせに、らしくもなくぼそぼそとはっきりしない態度をとる。ますます不思議に思って再度問いかけてみる。
「だからっ……キリトくんは、やっぱり大きい方が好き、なの……?」
「えーっと……何の話、でしょうか」
「む、胸よ……」
「むっ……」
 思いがけないセリフにキリトは唖然とした。もしかしてまだ寝ぼけていらっしゃるのでは、なんて。つい出てしまいそうだった問いは、なんとか口をついて出る前に飲み込んだ。彼女の表情が真剣だったからだ。
 切なげに目を伏せ、頼りなく握られたこぶしはわずかに震えていた。《攻略の鬼》とも呼ばれ、数多の男性プレイヤーが占める攻略組の中心にいてもいつも堂々と意見を貫く姿とは打って変わった女の子らしい一面。そのギャップがキリトの胸を撃った。
「そりゃ、あったら嬉しい……かも、ですね……」
 そんなアスナに対して正直に答える。けれどもキリトからすれば、アスナの胸はじゅうぶんにキリトを満足させてくれた。指からこぼれるほどの大きさともあれば、それはかなり、なのではないか。キリトは少し前の営みを回想してうなずいた。
「そ、そっか……」
「ハイ……あの、どうしてそんなことを……?」
「だって……ギルドの子が言ってたんだもん……男のひとならやっぱり大きい方が好きだって……」
「さいですか……」
 アスナに《倫理コード解除設定》を教えたという件の子にはまったくもってなんて知識をこの人に与えてしまったのか問い質したい。いや、彼女と行為に及べたのはその子のおかげといえるのかもしれないけれども。キリトは複雑な心境になった。
「あのね……、わたし、初めてで……だからキリトくんにはリードしてもらってばっかりだったし……せめて、きみが満足してくれてたらいいなって……」
 そう吐露してくれたアスナの眦がじんわりとピンク色に変わっていく。
 ──そんなの、キリトだって同じだった。そもそも現実世界では女子と会話する機会からさえひたすらに逃げていたキリトにとって、お付き合いまで発展する相手ができるなんて夢にも思わなかったのだ。アスナはこう言ってくれているが、正直最中のことは朧げで、きちんとできていたかすら怪しい。余裕なんてちっともなくて、本能で動いていたようなものだ。
「……馬鹿だな。心配しなくてもアスナはすごく可愛いし綺麗だし、俺の方が持っていかれそうで必死だったよ」
「ふぇっ……!?」
「むしろそんな不安を抱かせちゃってごめんな」
 こつん、と額同士を合わせる。はしばみ色の瞳がかすかに潤んで、きらりと光が反射する。ふるふると首を横に振ったアスナが口を開いた。
「わたしこそ、変なこと言っちゃってごめんね。キリトくんはそんなひとじゃないってよく知ってるのに……」
「いやいや。さっき言ったのも事実ではありますし……」
「もうっ、茶化さないの!」
 とは言うものの。結局はアスナという存在がいればなんでもいいし、彼女でなければ意味がない。そう思うと途端にじわじわと心に明かりが灯っていった。胸の内で言葉にして改めて実感した。
 今後、彼女以上のひとは現れないだろうという予感に似た確信がある。だから、今はまだ不安がまとわりついていようとも、これから少しずつそれらを振り払っていけばいい。
 できれば、現実世界に戻っても──。
「キリトくん…?」
「……なんでもないよ。さ、もう一眠りしよう。起きたら二十二層に行くんだからな」
「ログハウス、なんだよね? 楽しみだなあ」
 そこで家を買って、今度こそ。キリトの密かなサプライズの企みは想定外のハプニングによりちょっとだけ狂ってしまうのだが、当然今のキリトにはまだ知る由もないことだった。



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