ガラスの靴は取られてる


※社会人×社会人



 炭治郎が社会人になってから二年、仕事にも慣れ上司や同僚とも良好な関係を築いて、まさに順風満帆といった生活を送っている。別の会社に就職した友人の話からして、炭治郎はとても恵まれているだろう。
 しかし人間とは不思議なもので、平凡な生活を送っているとどうにも刺激を求めてしまうらしい。どこかに非日常なことがないか、自分の身に起こらないか。そんな気持ちが心の隅にわだかまっていた。

 今日は所謂花金というやつで、炭治郎が暖簾を潜った居酒屋は既に大勢の酔っ払った大人たちで溢れかえっていた。
 友人や同僚と馬鹿騒ぎするのは楽しい。けれど今日の炭治郎は同僚からの誘いを断って、わざわざ一人でこの場を訪れていた。こんな騒がしいところに来ていて言えることではないかもしれないが、一人で飲みたい気分だったのだ。バーはハードルが高いし、家で一人は寂しい。なんとも矛盾した面倒くさい感情だと思う。
 ちょうどカウンターに空きがあったらしく、出迎えた店員によってすぐに案内された。椅子に座り、何を頼もうかとメニューの書かれた壁を見上げた。

 三杯程、飲んだだろうか。ふわふわとする思考で目の前の枝豆を摘む。ギリギリ判断力は残っているようで、これ以上飲むのは不味いと脳の奥で警鐘が鳴っていた。
 店には申し訳ないが、水だけでもう少し居座らせてもらおうと決め、残ったおつまみを食べながらある程度酔いが覚めるまで待つことにする。
 そんなとき炭治郎の鼻が、清らかな水の匂いを嗅ぎ取った。こんなにも澄んだ匂いが果たして何処から、と周囲を見回して気がつく。いつの間にか炭治郎の右側には一人の男性が座っていた。炭治郎が来たときは二人組の女性だったことを覚えているので、飲んでいるうちに彼女たちと入れ違いに来店したのだろう。
 そして匂いの元が彼だとすぐに分かった。横目で見ても端麗な顔立ちをしている彼によく似合う匂いだ。香水などの人工的なものではないから、この男性の匂いなのだろう。
 そこまで考えて、炭治郎は己の思考が変態くさいではないかと我に返る。鼻が利く炭治郎は人それぞれの匂いはもちろん、感情まで嗅ぎ分けることができる。感情が分かるという点においては随分と世話になった。けれどその人個人の匂いについては何も気にしたことがなかった。せいぜい近くにいるな、くらいのことしか感じたことがなかった。
 というのに、今は匂いがとても気になってしまったし、なんならいい匂い、とまで思ってしまったことは否めない。今までにない程に揺れる心に動揺する。自分の感情が分からない。
 ぽーっと見惚れていたままだったから、相手がこちらを向くのは当然だった。紺色の瞳が炭治郎を射抜く。すると、まるで囚われてしまったかのように動けない。

 炭治郎の鼻腔を擽ったのは、水の匂いに混じってあまく胸を焦がすようなものであった。





 いつものように目が覚める。最初に感じたのは頭痛だった。ずきずきと響くような痛みに思わず額へと手を伸ばしたところで、己が服を着ていないことに気がつく。だが異変はそれだけではなかった。視界に入った天井は見知らぬ場所で、下半身も何も履いていない感覚がある上に、あらぬところに違和感がある。
 極めつけに、怖くて見れないが隣には温もりを感じる。そして炭治郎以外の匂いも、だ。
 ──これは俗にいう、朝チュン、というものなのだろうか。
 炭治郎の顔色は青を通り越して白くなっていた。必死に昨夜の記憶を探りかろうじて手繰り寄せたのは居酒屋へ行ったことと、隣に美しい男性がいたこと、それからその男性に手を引かれ、ホテルへと足を踏み入れてしまったことだった。
 それ以降の記憶は曖昧だ。けれど己がとんでもない痴態を晒したのは確かで、それが合意だったことも明確だ。なんだか髄分と熱を上げてしまったように思う。まさか童貞の前に処女を散らしてしまうとは。炭治郎が現実逃避に壁の模様を数え始めた、そのとき。
「……おはよう」
「ヒエッ!?」
 起き抜けの掠れた美声が炭治郎の鼓膜を揺らした。びくりと肩を震わせ、ついに観念して隣を見遣る。まだ眠たげに欠伸をもらしながらも、こちらからの視線に気がつくと微笑みを浮かべた男が炭治郎を愛おしげに見つめてくる。それがモデル顔負けの眩しさを放っているものだから、炭治郎は反射的に「はうっ」と変な声が出てしまった。
 とりあえずは優しそうな人で安心する。顔に熱が集まっていくのを自覚しながら、炭治郎は覚悟を決めた。
「あ、あの、俺たちって、昨夜、」
「なんだ、覚えていないのか? あれ程善がって啼いていたのに」
 前言撤回。優しい人ではなかったようだ。今度は羞恥ではなく怒りで顔を赤くしながら炭治郎は言い募る。
「や、やめてくださいそういうこと言うのは! うう、どうしてこんな……初めてだったのに……!」
「……初心だとは思っていたが、女とも経験がなかったのか」
「〜〜〜っそうですけど!? 悪かったですね!? そんないたいけな俺に手を出した人は誰ですか!?」
「安心しろ、俺も初めてだった」
「嘘だ!」
 突然のカミングアウトに驚く。今どきこんなに美形の男がよりにもよって炭治郎を選んで抱いたというのか。しかも、互いに名前すら明かさないまま、だ。
(ハッ……! そうだ、俺まだこの人の名前も知らない……!)
 本当にどうしてこんなことになったのか。炭治郎とこの男の関係とはなんだろう。行きずりで身体を重ねただけの関係だろうか。
 そう思うとほんの少しだけ、つきりと胸が痛んだ気がした。
「……あの、せめてお名前教えていただけませんか」
「ああ……そうか、冨岡義勇だ」
「ぎゆう、さん……」
 なんと、名前まで美しいだなんて。義勇さん、と心の中で何度か復唱する。最悪の出会いである筈なのに、炭治郎の心はふわふわと舞い上がっていて落ち着かない。
 そういえば、男に抱かれたのに嫌悪感などは全く感じていなかった。
(どうしたんだ俺、もしかして既に義勇さんのこと……いやいや、そんなわけ、)
 悶々と思考に浸る炭治郎の額にやわらかい感触が落とされた。
「なっ……!?」
「お前は、名乗ってくれないのか?」
 その声色はとてもあまく、更には恋人のような扱いをされてしまって、炭治郎は堪らなくなる。鼓動が早くなり息が詰まる。こんなこと初めてだった。どうしようと視界がぐるぐる回る。
 行き詰まった末に炭治郎がとった行動はといえば気合いで起き上がり、素早く服を纏って怠い身体を引き摺り逃げることだった。去り際に捨て台詞を吐くことも忘れていなかった。
「俺の名前が知りたければ! 見つけ出してみてくださいよ!」





 あの衝撃の一晩から二週間が経った。だが義勇が炭治郎の前に現れるということはなく、あれは夢だったのかもしれないと思い始めていた。まあ、夢にしてはやけに現実味を帯びていたけれども。
 あれだけ手が早いのだから、やはり初めてだったというのは嘘だろう。きっと丁度いい相手とでも思われ、キープの為にあんなことを言ったのかもしれない。そう考えると胸が締めつけられるように苦しい。
 ここまで来ると認めるしかない。炭治郎は彼に一目惚れしてしてしまっていたのだ。
 あの日逃げたのは間違いだっただろうか。たとえ身体だけの関係だとしても、割り切って受け入れるべきだったのか。
(……どっちにしろ、片想いだな)
 ──ままならない。まさかこの歳にしてようやく訪れた初恋がこんな形になろうとは。
 炭治郎はここのところ何度目になるか分からないため息をついた。

 昼休憩から戻った炭治郎はいきなり上司に呼ばれた。何事かと急いで向かうと、なんとこれから行く取引先について行くように言われてしまった。内心訝しげに思いながらも当然拒否など出来ず二つ返事をする。ちなみに相手は、と尋ねてみれば、大企業である産屋敷グループだというのだから目を瞠る。炭治郎がもし何か粗相をして取引が駄目になれば大変な損失になるだろうに、どうしてまた。経験を積ませるつもりなら他にも選択肢はあるだろうに。
 しかしこれ以上の詳細を聞ける暇などなく、炭治郎は急いで準備をして上司のあとをついて行った。

 まず高くそびえ立つビルにおののき、次いで人の出入りの多さに震え、最後に上司が放つ緊張の匂いに炭治郎までもが身を固くしていた。やはり大手というのは雰囲気がまるで違う。見る人見る人が優秀そうで、自分とは次元が違う人間のように感じる。
 案内された応接室で縮こまっていると、ガチャリと扉が開く音がした。ふわりと漂ってきたのは、いつの日か嗅いだ澄んだ水の匂い。ハッとして見上げた先には、紺色の瞳があった。視線が重なる。初めて出会ったあの瞬間の再現の如く見つめ合う。
 炭治郎が惚けているうちに、上司はキビキビとした動きで挨拶をしていて、慌ててそれに倣う。けれど頭には何の言葉も入ってこない。自分が上手く喋れているのかも分からなかった。
 商談が始まると、炭治郎に出る幕はなかった。ただ目の前に現れた彼へ視線を送るだけ。見つけ出してくれ、なんて言ったあとに再会したのが偶然だなんて間抜けな話だ。惨めな気持ちを覚えて、書類に目を落とし義勇を視界から消した。
 あの日見せた表情や声など今や影も形もない。炭治郎は落ち着きなくわずかに足を伸ばした。その足がこつりと何かにぶつかる。炭治郎の前には義勇しかおらず、誰の足とぶつかったのか理解してしまう。
 まずい、と思った瞬間、それは炭治郎の足へ擦り寄った。思わずぴくりと肩を震わせたが義勇は勿論、上司も気づくことはない。
 すぐに足は離れていったけれども、あの一晩は夢ではなかったと炭治郎が思い知るにはじゅうぶんな接触であった。

 終始夢見心地だったが、いつの間にか時間が経っていて。立ち上がった両者につられて炭治郎も席を立つ。ああこれで終わりなのかと残念に思った。
 応接室を出る間際、近づいた義勇にぽそりと囁かれる。
「今日、あの居酒屋で待ってる」
「えっ……?」
 振り向いたときにはもう素知らぬ顔で。炭治郎は胸を高鳴らせながら、早く退勤時間にならないかと待ち遠しく思った。



  ◇  ◇  ◇



『すきっ、すき、おれ、あなたとあったばかりなのにぃ……!』
『義勇だ、義勇と呼べ』
『ぎゆうさん、……あっ!』
 昨夜散々好きだと言っておいて、名前だって教えていたのに。翌朝起きたらよそよそしい態度をとられ、挙句の果てには名乗りもせず逃げ出した炭治郎に対して最初に浮かんだ感想としては「なんで?」のひとことである。そのあとじわじわと怒りが湧いて、義勇は枕元から一枚の名刺を取り出した。そこにはとある中小企業の営業課に務めるという竈門炭治郎の名前がしっかりと刻んであった。
 義勇は炭治郎が眠ったあとに鞄からこれを拝借していたのだ。それは炭治郎を逃がさない為で、きちんと名乗ってくれれば謝罪とともに返すつもりであったのだ。
 だというのに、まるで捕まえてみろとばかりに義勇の元から去っていったシンデレラ。ガラスの靴は既にこちらの手の中にあることにも気づかずに。
 この会社なら、偶然にも近々取引がある筈だった。ここまでは偶然なのだから、あとは少しだけ強引な手を使わせてもらおう。
 義勇は炭治郎の驚愕するさまを思い浮かべて、かすかに口角を上げたのだった。



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -