あいのたくわえ



 炭治郎の初恋で、今尚心を占める相手は冨岡義勇といって、高校時代の体育教師だ。
 彼は生徒指導も担当しており、父親の形見のピアスを頑なに外さなかった炭治郎は問題児としてよく追われていた。どうしてこんな報われないような恋をしてしまったのかと問われれば、落ちてしまったのだから仕方がないとしか言いようがない。在学時は追いかけられることすら嬉しくて上がる口角を必死に隠したのも今や良い思い出だ。まさに青春を謳歌していたと炭治郎は断言できる。
 だが教師と生徒の縁など、卒業してしまえばあっさりと切れてしまう。現に大学へ進学し、実家を離れて半年経った今、炭治郎は一切彼と会えていない。慣れない大学生活に翻弄されているうちに過ぎていった時間はあっという間だった。卒業生が遊びに来ていた光景は何度も見かけたことがあったので、炭治郎もそうするつもりだったのにまったく暇をつくれないのだ。

 では多少は恋心に整理がついたかといえばそうはならなかった。彼への想いは募るばかりでちっとも減ってくれない。会えない期間が長ければ長い程積もっていくだけであった。
 本当は卒業式に告白して振られて、綺麗さっぱり忘れてしまおうと思っていた。けれど可愛い女子たちに囲まれている彼の姿を見たら、どうしてもその輪に加わることができなかった。遠くから彼を見つめるだけが精一杯。きっと彼はそんな炭治郎の視線にも気がつかなかっただろう。所詮、炭治郎と彼の関係などその程度である。むしろ問題児が卒業して清々した、なんて思われていてもおかしくない。
 告白せず卒業した炭治郎に残ったのは未練だけ。ならばと会いに行くつもりだったのに気づけば半年。時間が経つにつれ決心も鈍り、もう一生この恋心を胸に秘めたまま生きていくしかないのでは、という考えも視野に入れ始めている。
 我ながら女々しいなあ、と思う日々は続いていた。

 大学に進学した炭治郎は現在アパートを借りてひとり暮らしである。本当は高校卒業後すぐに実家のパン屋を継ぐつもりであったのだけれど、母から願われてしまっては断れなかった。お金の問題もあるし、と渋る炭治郎を決心させたのはきょうだいたちの後押しだ。人手なら沢山あるからと笑顔で送り出されたときはちょっと寂しかった。一番きょうだい離れできていないのは炭治郎かもしれない。閑話休題。
 せめて仕送りは断れるようにとアルバイトを始めた。実家の手伝いで培った経験を活かせるのと、アパートから近いという理由で選んだアルバイト先はコンビニエンスストア。覚えなければならない仕事は想像よりも遥かに多かったが、持ち前の明るさを活かした接客と、作業の手際の良さで先輩や店長からはいい新人が来てくれたと喜ばれたのはとても嬉しかった。
 今日も夕方から夜までシフトが入っている。更衣室で制服に着替えながら、炭治郎は気合を入れたのだった。

 時刻は二十一時を回っており、勤務時間は残り一時間を切っていた。
 ドアの開閉により、店内に聞き慣れた音楽が鳴り響く。炭治郎は品出しをしながらいらっしゃいませ、の言葉が口から出ていた。音が鳴れば反射で返すのがもう身体に染み付いているのだ。
 だから匂いを嗅ぎ取ったのはその後。炭治郎の優秀な鼻は、大好きなあの人の匂いをしっかりと覚えていた。
 まさか、と目を瞠る。そんな偶然があるのか。このコンビニは炭治郎の通っていたキメツ学園からはかけ離れている。彼が何処から通勤していたのかは知らないけれど、少なくとも炭治郎がアルバイトを始めてから見掛けたことがない。もしそこそこの頻度で通っているのならば、三ヶ月も経てば一度くらいは会うことだってあるだろう。
 だったらやはり、奇跡が起こったとでもいうのか。
 炭治郎が作業をしている列に彼の姿はない。けれどこちらに来るのも時間の問題かもしれない。
 いや、そもそも、だ。この時間は炭治郎ともう一人のアルバイトで回している。もう一人は今バックヤードの方で作業しており、レジの対応は専ら炭治郎の仕事だ。それはつまり、絶対に彼と鉢会うということであり。
(うあああ〜〜〜っっ!! こっ、心の準備が!!)
 このようないきなりの再会なんて予想だにしていなかった。だから何の心構えもない。会いたいからと自ら赴くのと、突如向こうから現れるのでは天と地程の違いがあるのだ。たった数十秒の間に炭治郎の胸中は荒れに荒れた。
(どうしよう。今から裏と交代してもらうか? でももう声出しちゃったし気づかれてるかもしれない。……いやいや、俺なんかのことなんてとっくに忘れてるんじゃ、)
「すみません、レジいいですか」
「は、はい!」
 迷っているうちに涼やかなあの声が耳に届いた。敬語にドキドキしつつ、答えてしまったが故にカウンターの内側に入る。
 久しぶりに目にした想い人の姿に鼓動が早くなる。当然何も変わっていなくて、ジャージすら思い出の中の姿と合致する。今着ている白いジャージは見る頻度の少なかったものだったので、更に貴重な瞬間を目にしているようで胸が高鳴ってしまう。
 彼の前に立ったものの、特にこれといった反応はなかった。薄々察してはいたが、どうしても気持ちが萎んでいく。やはりあれ程追いかけっこをしていれば、面倒な存在としか思われていなかったのかもしれない。いや、それすらもどうか怪しい。面倒なら面倒で記憶に残っている筈だ。何のリアクションもないということは全く関心がないのと同義。そう考えるとますます落ち込んだ。内心がっくりと項垂れながら、それでも表には出さず淡々と手を動かすことに集中する。台に置かれたカゴから商品を手に取ってバーコードを読み取っていった。
 弁当、お酒、おにぎり、お茶。少し遅い夕食と明日の朝食の分だろうか。炭治郎のお節介心が疼く。もし自分が恋人ならば、作り置きのコンビニ弁当じゃなくて出来たての料理を用意できるのに。栄養バランスを考えて、彼の健康に配慮したものを作ってあげられるのに。そんな傲慢な思考がぐるぐると巡っている。
 しかし、こういうものを食べているというのは裏を返すとお付き合いしている女性がいないのではないか。ならば今は喜ぶ場面なのかもしれない。炭治郎の脳内はあっちこっちを行き来して忙しなかった。
(あ、)
 そんな炭治郎を一気に突き落としたのは、次に手に取った小さな箱だった。パッケージの表面には『極薄』なんて単語が書いてある。所謂、コンドームというやつであったのだ。
「……っ」
 ひゅっ、と息が詰まる。先程まで上がりかけていた気分が真っ逆さまに急降下しているのが分かった。避妊具の使い道など一つしかない。彼がこれを購入するということは使う機会があるからだ。在学中に知った彼の誠実さを見る限り、相手なんて分かりきっている。大切な人、なのだろう。
 先生には既に付き合ってる彼女がいるということをどうして今まで考えたことがなかったのか。同性の炭治郎だってこんなにも好きで好きでたまらないのだ。そんな人に良い人がいないわけないじゃないか。
 もしかすると水面下では分かっていたのかもしれない。だからこそ考えないようにして、自分の臆病さを理由に決心をも鈍らせて。
 目頭が熱くなって、鼻奥がつんとする。
 ──好きだった。入学して間もない頃、初めてピアスを没収されたときに仕方のない奴だと呆れながらも少しだけおかしそうにゆるんだ目許が。体育の授業はみんなの体力ギリギリを見越しての課題を出すのに、結局少しだけ早く切り上げている分かりにくい優しさも。ふざけて一歩間違えれば大怪我をしていた生徒に眦を吊り上げ叱咤していた、教師として向き合うあの真摯な姿も。
 ずっとずっと見ていたのだ。大好きでたまらなかったから。どんな先生にも恋をしてしまったのだから。
 炭治郎は自分でも気づかぬうちにぼたぼたと涙をこぼしていた。初恋が消えゆくのがこんなにもつらいなんて知らなかった。しかも、告白して振られるのではなくこんな形で失恋するなんて。
「竈門!」
「え、……」
 彼が身を乗り出し焦燥に駆られた表情をしている。伸ばされた手は、触れていいのか迷っているようで不自然に空中に浮いていた。
「せん、せ……?」
「どうしたんだ、どこか痛むのか」
「ちが、……っ」
 その問い掛けと頬の濡れた感触で炭治郎はようやく自分が泣いていることを知った。慌てて袖で雫を拭う。
 みっともない、恥ずかしい。他に誰もいないとはいえ仕事中に、しかも彼の前で泣いてしまうなんて。ず、と鼻を啜った音が情けなさに拍車をかけた。
「す、みません……っ、なんでも、なくて……」
「何でもない訳がないだろう!」
 心配をかけて申し訳ない。そう思うと同時に、そういえば彼は自分のことを覚えていてくれたんだなと嬉しくなる。
 ──すると、それだけで幸せに思えて、もういいかな、と考えてしまった。
 今が絶好の機会なのかもしれない。炭治郎は胸の奥にしまい込んでいた想いを引き摺り出した。
「……先生、」
「なんだ?」
「いきなり、泣いてしまってごめんなさい。あの、俺、実は先生のことが好きで、だから先生に恋人がいたことにびっくりして、ショックで、」
「……、かまど」
「でも、先生が俺のこと覚えていてくれただけで嬉しかったから、もう、いいかなって、」
「おい、」
「いつか……け、結婚式には呼んでいただけたらな、なんて、それから、せんせいの、おこさんとか、」
「ッ炭治郎!」
 むぐ、と。両頬を掴まれてしまっては口を噤むしかなくなる。そろりと視線を上げると彼からは困惑の匂いが強くなっていた。ああ、やはり困らせてしまった。優しい人だから、なるべく炭治郎を傷付けないような言葉を探しているのだろう。紺色の瞳が泳いでいるのを見てしまい、ずきりと胸が痛んだ。
 自身よりもひと回り大きいその手を頬から外しながら、炭治郎は告げる。
「すみません、図々しいことを言いました。多分、これっきりで会うことはないと思うので、先生は忘れてくださって、」
「ああくそ、勝手に話を進めるんじゃない。結婚? 子ども? そんなもの何処から出てきた?」
「えっと、」
「いいか、よく聞け。俺が好きなのはお前だ、竈門炭治郎」
「えっ」
「おい、こいつの勤務時間は何時までだ」
「えっ」
「へっ? あ、あと五分です」
 いつの間にかバックヤードから顔を出していたアルバイト仲間が炭治郎の退勤時間を教えてしまう。外で待ってるとだけ告げ、代金と引き換えに購入したものを乱雑に引っ掴んだ男はさっさと扉を潜って出て行ってしまった。軽快な音楽が間抜けに響く。
 呆然と立ち尽くすしかない炭治郎は、仲間からのもう上がれよ、という静かな呟きにただ従うのであった。



  ◇  ◇  ◇



 卒業式の日、いつも人の輪に囲まれているあの子どもがたった一人で佇み、儚く散ってしまいそうな程の切なげな笑みを浮かべて義勇を見つめていたあの光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
 どうしてこちらへ来ない。いつものように笑って話しかけに来ないのか。子どもじみた思いが脳内を占める。
 そんな義勇の気持ちとは裏腹に、結局炭治郎がこちらに駆け寄って来ることはなかった。そのままひとことも話すことなく、竈門炭治郎という生徒はキメツ学園を卒業していったのだった。

 新学期が始まって一ヶ月。何かと問題児が集まるこの学園にて義勇の仕事が減る様子は見られなかった。なのについ探してしまうのは、いくら言ってもあの子が絶対に外そうとしない花札に似たピアス。もう件の生徒は卒業したというのに、未だ義勇の心に留まっているのである。
 日に日に恋しくなってくる陽向のような存在を愛おしく思っているのだと気がついたのはそれから間もなく。同時にあのときのあの子の表情が痛い程義勇の胸を締めつけた。
 ──あれは恐らく、きっと。
 都合のいい幻想だと言われるかもしれない。けれど義勇にはどうしても、恋をしている者の眼差しとしか思えなかった。
 しかしあの子はもうこの学園にはいない。となれば義勇が追いかければいい。その思考に行き着くと行動に移すのは早かった。在校生であるあの子のきょうだいたちを訪ね、どうか進学先を教えてほしいと頭を下げた。彼女たちは突拍子のないことを言い出した教師に対し驚き、しかし最終的には兄をよろしくお願いしますと大層な役割を任せてくれた。
 進学先とアルバイト先を聞いた義勇はまず後者の方へ向かうことにした。何度か通って夜に働いているらしいことを突き止める。なんだかストーカー紛いの行為だなとは思いつつも、どうしてもあの子に会いたかった。

 そしてようやく、今日再会できたのだ。だがここに来て今更二の足を踏んでしまう。久しぶりに耳にした子どもの元気な声は義勇の心に迷いをもたらしてしまった。そうしてあろうことかカゴの中には食べ物の他にコンドームを突っ込んでいたのである。どんな組み合わせだ、と思うし、元が付くとはいえ仮にも生徒の前で購入するのもどうかしている。
 それでも、あの子の反応を見る為のほんの軽い気持ちだったのだ。それがまさか泣かれるなんて想像すらしていなかった。
 内心かなり焦っていた。はらはらと零れる涙を己の手で拭ってやりたかったけれども、義勇には触れる権利がない。
 どうしようと狼狽えているうちに子どもの話はどんどん進んでいき、いつの間にか義勇がどことも知らぬ女と結婚して子をもうける未来まで語られていた。
 その痛々しい表情も相まって見ていられず、堪らず両頬を包んで口を閉ざさせた。義勇が遠回しに気持ちを探ろうとするからこんな顔をさせてしまったのだ。後悔の波が押し寄せるが、この子のきょうだいたちの言葉に背中を押されて想いを告げた。

 きっとこれからは、義勇が笑顔に変えてやれる。今まであげられなかった分まで、たくさん愛を囁いてやろう。この半年間で随分とため込んでいるのだ。先程の様子ではどうにも義勇の告白を信じきれていなかったようだった。ならば、あの子が理解してくれるまで根気強く教え込むまでだ。例え長丁場になろうと構わない。何せ時間ならたっぷりあるのだから。
 でも、とりあえずは今の待ち時間だ。たった数分がとてつもなく長く感じる。義勇は背後の店内をちらりと見遣った。あの子が──炭治郎が出てくるまで、あと三分。



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -