そんなもので満足するな


「買ってしまった……」
 炭治郎は両手に抱えられる程の大きさのそれを見つめてぽつりと呟く。その声は非常に弾んだもので、たとえ表情が見えていなくても今の感情が手に取るように分かるだろう。
「水柱の、ぬいぐるみ……!」
 現在炭治郎は、今世間でとてつもない人気を誇る鬼退治をテーマにした漫画に夢中である。心優しい少年が家族の仇を取るため、鬼になった妹を人間に戻すために奮闘する冒険譚だ。かっこいい必殺技やキャラクター、涙を誘うストーリーが老若男女にウケ、あらゆる読者層を虜にしているのだ。
 その中でも炭治郎の好きなキャラクターというのがこの腕の中にもいる水柱である。
 作中でもトップクラスの強さで、主人公を幾度となく救い導く姿に心を動かされた。
 とはいえ普段キャラクターグッズを購入するまでに至らない炭治郎が何故ぬいぐるみを抱えて喜びに震えているか。その理由はあまり人には言えないものだった。
「や、やっぱり義勇さんに似てる……!」
 ──水柱が好きな人に似ているから、である。
 冨岡義勇。うちのパン屋の常連で、竈門家と家族ぐるみの付き合いをしていて、炭治郎の通う学園で体育教師をやっている年上の、憧れのひと。長男ゆえに何かと我慢しがちな炭治郎が唯一甘えられるのが彼だった。
 炭治郎も成長したことと義勇が教師になったことも重なって、流石に最近はめっきり甘える機会なんてなくなってしまったけれど、彼を好きな気持ちが変化することはない。ずっと変わらず大好きなひとなのだ。

 さてさて。甘える機会がなくなったことと、炭治郎が彼に甘えたいと思い続けていることは矛盾しないのである。
 中学に上がると、兄のような存在に憧れていることを公言する炭治郎に周囲は苦笑をこぼした。どうやら一般的にはあまりない光景らしい。実際に、兄のいる友人は「兄貴と仲良くとか無理」と断言している。
 そうするとどうにも近寄り難くなってしまうのは必然だった。もし義勇も同じことを思っていたとしたらと、一度想像したら手を伸ばしづらくなっていった。
 炭治郎が甘えることを控えても義勇は何も言わなかったので、嫌だと思っていたのか特に気にもしていなかったのかは結局分からないままだ。

 義勇にべったりとひっつきまわることがなくなって数年。恋しい思いが胸に燻る日が多くなってきた頃。そんなときに出会ったのが水柱だ。だが水柱を好きになったのに義勇は関係ない。ハマったあとに、そういえば似ているなあと思いはしたもののそれだけだった。
 そんなときに見かけた水柱のぬいぐるみの発売告知。ふと湧いて出たのは、これなら寂しさを紛らわせることができるのではないかという我ながら女々しい考えだった。
 そんな疚しい心で購入したぬいぐるみ。まじまじと見つめてみるがやはり水柱は義勇に似ている。それが可愛くデフォルメされていてきゅんとときめいてしまう。ぬいぐるみに夢中になる人たちがたくさんいるのも頷けるのだった。
 とりあえずはと机の端に置いてみた。視界にちょこんと座る姿が映るのはなんだかくすぐったい。くふくふと笑みをこぼしてはハッとして緩む口端を引き締める。
 これが炭治郎にとって始まりであったのだった。

「ね、禰豆子」
「うん? どうしたの、お兄ちゃん」
 水柱が竈門家に来てから少し経った。その間の炭治郎といえばそれはもう、どっぷりであった。自室にいるときは絶対に視界に入る位置に動かし、寝るときは腕に抱いて布団へ。そうすると更に愛着が湧いてきて、だんだんと手放し難くなっていく。学校に行く間際はギリギリまで撫でているし、直近の携帯端末の検索履歴は『ぬいぐるみ 愛で方』である。最早後戻りなど考えられない場所まで来ていた。
 さてそんな炭治郎は、インターネットの海ですごいものを見た。それはぬいぐるみに自作の服を着せている写真だった。
 目から鱗が落ちる。すぐさま水柱でも同じことをやっている人がいるのか検索してみると、出てくる出てくる。ケープを着せていたり、被り物をしていたり、はたまた動物の耳と尻尾がついているものまで。それを目にした炭治郎の心はきゅんきゅんとときめきを隠せなかった。
 そうすると出てくるのは興味。うちの水柱も何か、なんて考えてしまうのは当然だったのかもしれない。
 ではどうすればいいのか。買うのは少しハードルが高い。ならば作ればいいのか。そう思って一人こっそり服作りに挑戦してみた。裁縫なんて家庭科の授業でしかやったことないものの、幸い作り方を丁寧に載せてくれているサイトがあったので頑張ってみようと息巻いた、までは良かったものの。
 ──そう簡単にいくわけもなく。
 料理や掃除は得意でも、裁縫は駄目だったようだ。はあ、とため息をついて目の前の歪な布を見遣る。糸がはみ出し、くしゃりとよれたそれはとても服に見えなかった。
 あまり気は乗らないけれど。炭治郎は恥を忍んで一つ下の妹、禰豆子へと声をかけたのであった。
「その、一つ聞きたいんだが……」
「お兄ちゃんにしてははっきりしないねぇ?」
 いつもはなんでもすぐ口に出しちゃうのに。禰豆子はくすくすと愛らしい笑みを浮かべながら首を傾げた。
「ぬいぐるみ用の服、って、作れる、か……?」
 なんとか絞り出した兄からの問いに、禰豆子は今度こそ本当に不思議そうな顔をした。

 禰豆子は裁縫が大の得意だ。彼女の手にかかれば商品として売れる出来栄えの物ができてしまう。炭治郎の目の前であっという間にミニチュアのポンチョが一着、完成していた。
「はい出来上がり。サイズどう? 合ってる?」
「……ピッタリだ」
「そっか、良かった!」
 炭治郎が感心と驚きでふわふわしたまま答えると、禰豆子は笑顔で胸を撫で下ろした。ポンチョを被せたぬいぐるみを見せると、確かに可愛いねえ、とのほほんとした声を上げている。
 炭治郎は未だにすんなりと受け入れられたことの衝撃から抜け出せておらず、ここに来てようやく自ら口を開いた。
「なあ、禰豆子。……兄ちゃんの趣味に引かなかったのか?」
「え? そりゃあ、びっくりはしたけど……でも、お兄ちゃんが可愛がる気持ちも分かるもの! 最近のぬいぐるみってよく出来てるんだね」
 そう言ってつんつんとつつく。それは炭治郎と同意見だ。まさかこんなにも愛着を持つなんて予想外だったのだから。
「……ありがとう……」
「ううん。それより他には? 何着せたら可愛いかなぁ?」
「え? いや、流石にこれ以上は負担になるだろう? あとは自分で頑張ってみるから、」
「全然! むしろ楽しくなってきちゃった! お兄ちゃんさえ良ければ色々作ってみてもいい!?」
 禰豆子は爛々と目を輝かせて聞いてきた。その気迫に押され、炭治郎は何も言えずにただこくこくと首を振るしかなく。
「やったあ! 楽しみにしててね! ちなみに可愛い系とかカッコいい系とか、何か希望はある?」
「えっ……じゃあ、カッコいい系、かな……?」
 どきり。不意に跳ねる心臓に気づかないふりをして正直に選ぶ。禰豆子は了解と口角を上げて、炭治郎の部屋をあとにした。
 趣味に付き合わせてしまって申し訳ないな、と思う気持ちは残ったままだけれど、ワクワクしている心がないと言えば嘘である。何より禰豆子本人が楽しそうにしていたしいいのかなあと、わずかに我儘な気持ちが首をもたげた。
 禰豆子お手製のポンチョを被り可愛さが増した水柱を見て、炭治郎の頬はゆるゆると和らいでいく。
「良かったなあ」
 思わず口をついて出たそれは水柱に対してか、または自身への言葉だったのか。分からないまま炭治郎は水柱を見つめていたのだった。





 放課後、帰宅しようと教室を出たところでその声は届いた。
「竈門」
 耳馴染んだ低音ボイスに、炭治郎は反射的に振り向く。目線の先には、クスリともしないと生徒たちから密かに囁かれている教師がいた。件の、炭治郎の好きなひとである。
「冨岡先生」
 学校でなければ『義勇さん』と呼べるのだけれど、校内では先生と呼べときつく言い聞かされていた炭治郎は呼び方を間違えない。
「どうされました?」
「先日の約束、葵枝さんに次の土曜日でもいいか聞いておいてくれないか」
 義勇は度々、忙しい竈門家の親に代わって子どもたちの相手をしてくれていた。つい先日も店に来た際母と約束を交わしていたのだろう。それについて伝言を頼まれ、しかし迷惑をかけてしまうなと眉を下げる。
「ああ! 六太たちを遊びに連れて行ってくれるんでしたっけ。でもせっかくのお休みでしょう? 本当にいいんですか?」
「構わない。俺にとってもきょうだいみたいなものだしな」
 炭治郎が義勇を兄のように慕っていた影響で、禰豆子を始めとした下のきょうだいたちも彼のことが大好きになっていた。無愛想だと周知されている義勇だけれど竈門家に対してはそれが取っ払われる。まだ小学生や幼稚園生である花子、茂、六太は特に、甘えることに何の躊躇いもないため義勇が竈門家を訪れる度にきゃっきゃと懐いておんぶをねだっていた。それに嫌な顔ひとつせず、むしろ微笑みすら見せて軽々と背負う姿は確かに兄とかわらない。
「それに。おまえたちはみんな、世話の掛からないいい子たちばかりだろう」
「それは、そうですけど」
 下の子たちのいい子っぷりは炭治郎が保証する。何処に出しても恥ずかしくない、自慢のきょうだいなのだ。
「分かりました。多分、母ならいつでも大丈夫って言うと思いますけど」
「頼んだ。それじゃ、呼び止めて悪かったな」
「いえ。さようなら、冨岡先生」
「さよなら」
 呼び方は『冨岡先生』のままだが、話している内容は完全にプライベートなのはいいのだろうか。炭治郎はそのおかしさに少しだけ笑ってしまいそうだった。
 片手を掲げた義勇と別れて昇降口へ向かう。その足取りは教室を出る前と比べて軽く、自分がどれだけ浮かれているのか分かりやすい。それでも、学校以外で義勇と会えることが嬉しくてにやけずにいられない。きゃー、なんて。乙女顔負けの声が口からこぼれ出ていた炭治郎だった。





 土曜日。鳴らされたチャイムに、我先にと玄関へ向かう弟たちを炭治郎は慌てて追った。
「お邪魔します」
「ぎゆーさん!」
「ぎゆーさんこんにちは!」
「ひさしぶりぎゆーさん!」
 早速囲まれている義勇に炭治郎は目元を綻ばせて、とりあえず上がってくださいと奥を指した。
「本当にごめんね。こっちにお弁当と水筒が入ってるから」
「いえ、気にしないでください。ありがとうございます」
 母からトートバッグを手渡され、義勇がぺこりと会釈する。今日は遊園地に連れて行ってもらうのだと、昨夜花子たちが嬉しそうに話しているのを炭治郎は何度も聞いていた。
「義勇さんに迷惑かけるんじゃないぞ?」
「分かってるもーん!」
 念の為に言い聞かせていると、母はあら、と目を瞬かせた。
「炭治郎は行かないの?」
「えっ!? 何で!?」
 思わぬ質問に炭治郎の方が驚いた。今日も変わらず店は開くのに。というか、だからこそ義勇が弟たちを遊びに連れて行ってくれるというのに。
「お店の方なら禰豆子と竹雄が手伝ってくれるから大丈夫よ」
「うんうん。お兄ちゃんも行ってきていいのよ。ね、竹雄?」
「こういうときしか兄ちゃん休んでくれなさそうだし」
 既に母に同意している二人に炭治郎はあわあわと目を泳がせる。思わず義勇を見ると、無言で頷かれた。貴方それで伝わると思ってるんですか。特別鼻が利くから伝わるんですけどね。
「お兄ちゃんも来てくれるの!?」
「やったー!」
 トドメとばかりに弟妹に抱きつかれては成す術無く。あっさりと白旗をあげる炭治郎を見てしたり顔をする四人がいたことには気づけなかった。

「本当に俺まで良かったんですか?」
「お前がいるなら、むしろ心強い」
 助手席に座り、特等席で義勇の運転姿を見られることに密かに胸をときめかせつつ。炭治郎はしつこく確認していた。後部座席では弟たち三人がきゃらきゃらとはしゃいでいる。
「勿論注意は怠らないつもりだが、用心に越したことはないからな」
「……義勇さんって意外と慎重なんですね」
「これでも臆病なんだ」
 昔は姉さんの後ろをついてまわってばかりだった。
 懐かしむように微笑する義勇にぽうっと見惚れかけて、取り繕うようにそうなんですかと答える。声は上擦っていなかっただろうか。
「今度蔦子さんに義勇さんの小さい頃の思い出聞かせてもらおうかなあ」
「それはやめてくれ……」
 何を思い出したのか。途端にげんなりする義勇に、炭治郎はけらけらと笑ってしまったのだった。

「何から乗りたい?」
 入場ゲートを潜り、パンフレットを広げた義勇が見やすいようにしゃがんで尋ねる。
「私メリーゴーランドがいい!」
「え〜! コーヒーカップからだよ!」
「こらこら、義勇さんが困るだろう。焦らなくても全部まわってやるから」
「そうだな。近いところから行くか」
 「じゃああっち!」と駆けて行く三人を危ないぞと注意しながら小走りで追いかける。その途中、義勇がぽつりと呟くように問いかけた。
「炭治郎は? 乗りたいものはないのか」
「俺ですか? うーん……」
 義勇の手伝いとして来たつもりだった炭治郎は咄嗟に答えられず首をひねった。
「特には……」
「そうか。思いついたら言えよ」
「はいっ」
 昔みたいにぽん、と頭をひと撫でして、義勇は先に行ってしまった。見られていないのをいいことに、撫でられたところに手を重ねてうう、と唸った。好きだなあと思う心が暴れだしそうになる。
「俺も行こう……」
 追いつく頃には頬の赤みが引いていますように、と願った。

 主に義勇が保護者として付き添い、炭治郎は外からカメラを構える係として園内をまわっていた。ファンシーな馬車に花子と乗り込む義勇や、茂にねだられてコーヒーカップをギュンギュンと回す義勇、昼休憩には六太にご飯を食べさせる義勇。炭治郎は撮った写真を見返し、我ながらいいシーンを切り抜いたなと自画自賛していた。弟たちの思い出は当然ながら、こっそり義勇にもレンズを向けてしまっているのは許してほしい。
 今義勇は六太のために園内を巡る汽車に乗車している。茂たちはここからも見える空中ブランコにスキップで行ってしまった。
「ふう……」
 なんとなしに、きょろ、と視線を彷徨わせる。妹たちにも「お兄ちゃん乗りたいものないの?」と聞かれてしまったのだ。けれど見ているだけで楽しいのも本心で、やはり何も出てこなかった。
「……あっ」
 ふと炭治郎は思い出した。急に出掛けることが決まり慌てて準備していた最中、逡巡してえいやと鞄に入れてきたものがあったのだ。
(水柱のぬいぐるみ持ってきちゃったんだよな……)
 人前で出すのは恥ずかしい。けれどインターネット上で見た写真のように外の景色とともに写っているのが少し羨ましくて。
 うんうんと悩んでいると、視界にちらついた観覧車。刹那炭治郎は「あそこだ!」と思い立った。観覧車なら一人の空間になることができる。みんなが戻ってきたら少し離れていいか聞いてみようと、こっそり口角を上げた。

「俺もついていく」
「えっだめです」
「…………何故だ」
 つい即答してしまった炭治郎に、義勇は不満を隠しもしない表情でたっぷり沈黙したあと理由を問うた。
「何故って……」
 ギシリと身体を強張らせると目敏く気がついた義勇の眼差しが鋭くなる。
「あの、ほんと、みんなが乗るならついででいいんで」
「お兄ちゃん一緒に乗ってくれないの……?」
「う゛っ!」
 花子のうるうると潤ませられた目は炭治郎にとって絶大な効果を見せた。兄ちゃんも乗るから泣くなと宥める炭治郎を義勇は疑わしげに見つめている。その視線から不自然な程に目を逸らしたまま、観覧車への道を歩いていった。





 散々遊び尽くした子どもたちは大きな欠伸をこぼして眠気まなこをこすっていた。それでも「楽しかったか?」と尋ねると元気のいい返事が跳ね返ってくる。駐車場へ戻る一行の雰囲気はほわほわとあたたかいものだった。
「義勇さんすみません、帰りもよろしくお願いします」
「……ああ」
「義勇さん? やっぱりお疲れに?」
「いや、そうじゃない」
 歯切れの悪い言い方に体調を気遣うも大丈夫としか言ってくれない。炭治郎も免許を持っていれば交代できるのだろうが、如何せんまだ年齢が足りない。こんな場面でも早く大人になりたいなあ、なんて思うことがあろうとは。
 帰りは静かなもので、弟たちはすやすやと寝息をたてていた。車内は適当に入れられているラジオが流れているのみ。普段から話を振らないタイプの義勇と、珍しく静かに、窓から流れる景色をぼんやりと見つめる炭治郎。無言の空間が続いていたが、二人ともそれを破ることはなかった。

 竈門家に到着し、お礼にと母から夕食に誘われた義勇は留守番組だった禰豆子と竹雄の強い要望もあって上がっていくことになった。もれなく全員義勇のことが大好きな竈門家ゆえの押しの強さである。
 帰り道車内でぐっすりだった三人はすっかり元気を取り戻し、夕飯の席では楽しかった出来事をひとつひとつ報告していた。それに母や禰豆子が笑い、竹雄はぽそりとツッコミを入れたりと賑やかな食卓を囲んだ。
 しかし時が経つのは早く、あっという間に夜も更けていく。気がつけば言い負かされて泊まることになっていた義勇は暫く目を白黒させていて、その姿にこっそり笑ったのは内緒だ。
「久しぶりだな、お前の部屋で寝るのは」
「そうですねえ、義勇さんが就職してからはすっかりご無沙汰でしたね」
 義勇が泊まるときは炭治郎の部屋で寝る。それは炭治郎が一人部屋をもらってからの決まりになっていた。
 車内でかすかにピリッとした匂いをさせていた義勇は知らぬ間に鳴りを潜めており、油断した炭治郎は並べて敷いた布団の隣でのんびりと就寝の準備をしていた。
 ──さて、ここで問題が起こる。
 ここ最近の炭治郎にはある習慣が備わっていた。この習慣を身につけてからは当然義勇が泊まりに来たことはなく、それどころか家族の誰にも言っていないことだ。
(えっと、水柱は……そっか、バッグの中か)
 きょろ、と軽く室内を見回し、目当てのそれを手に取った。そしてあわや取り出す寸前のところではたと思い至る。
 これ、まずいのでは。
 最近炭治郎がやり始めたこと──就寝の際、そばに水柱のぬいぐるみを置くことだ。
 すっかり癖がついて、いつものように枕元に連れて行こうとしていた。炭治郎は背中に冷や汗が伝う感覚を味わいつつ、何事もなかったようにぬいぐるみをしまいなおす。そしてちらりと義勇を窺うと、先程までの様子もばっちり見ていたとばかりにこちらを凝視していた。
「義勇さん」
「何を隠しているんだ」
 なにも見ていませんよね、と声をかける前に先手を打たれる。義勇からは再びムッと拗ねたようなピリピリとした匂いがする。炭治郎は首を左右に振り、どうか納得してくれと祈った。
「ななな何もっ!」
「そんな訳あるか。鏡で今の自分の顔見て来い」
 バッと顔に手をやる。ペタペタと触ってみるもそれだけで己の表情は読めない。義勇は小馬鹿にするように鼻で笑った。
「嘘をつくときの顔してる」
「なっ……!?」
 初耳だ。どうりでいくら炭治郎が嘘をついても誰にでもバレてしまうと思っていた。
 衝撃の事実に動揺している炭治郎は隙だらけで、義勇にとっては絶好のチャンス。すかさず背後にあったバッグを奪い取っていってしまう。
 義勇が中身を見た瞬間に炭治郎が思っていたことといえば、プライベートの侵害なんじゃないですかこれ、とかいくら気心知れてる相手でもやっていいことと悪いことがあるんですよ、とか。とにかく文句ばかりが浮かんでいたのに。
「……ぬいぐるみ……?」
 心底不思議そうな義勇の声に、炭治郎は顔を覆うしかできなかった。

「……つまり、今炭治郎はこのキャラが好きで、その延長線上で人形にのめり込んでいる、と?」
「概ねその通りです……」
 羞恥で支離滅裂になった炭治郎の言い訳を義勇は簡潔にまとめてみせた。だがすべてをぶっちゃけていないので、きっと今の炭治郎はまた変な顔をしているのだと思う。手のひらで覆っているから双方とも知り得ることはないけれども。
 義勇に似ているからという最大の秘密以外でも、男子高校生がぬいぐるみにのめり込んでいるというのはかなり恥ずかしい。その意を汲んでくれたのか、義勇からは気まずそうな匂いが漂っている。無理に暴いたことも相まって悪いと思ってくれているのであろう。
「その、悪かった」
「いいですもう……なにもかも……」
「不吉なことを言うんじゃない。俺は別に引いていないから」
「え。……本当に?」
 くん。確かに、嘘の匂いはしない。
「可愛い趣味で、いいんじゃないか」
「でも俺、男……」
「男だからって可愛いものが好きだといけないなんて決まりはないだろう」
「ん……」
 ぽん、と頭上に重みが増す。どうやら励ましてくれているらしい。義勇が頭を撫でるのは大抵元気づけようとしているときだ。その優しさに救われるように小さく頷く。
「……それにしても、この服、よくできてるな」
「あ、それは禰豆子が」
 服を褒められ炭治郎の表情にはパッと花が咲いた。妹の手作りだと自慢げに話す炭治郎は立派な兄馬鹿である。
「この間作ってくれたやつを着せたら本当に格好良くて、本物の義勇さんみたいって、……あ、」
「……俺?」
 やらかした、のひとことがありありと書いてある顔をさらす炭治郎。サァッと血の気の引く音がして、今度こそ終わったと何処かへ逃げようと立ち上がる。が、義勇はそれをあっさりと阻んでしまう。ここは室内で、当然逃げられるはずもなく。
「まだ、隠していたことがあるとはな?」
「ちがっ、いまのはなし!」
「無しにさせてたまるか」
 ぐいっと腕を引かれ、至近距離に義勇の顔が迫る。吐息がかかってしまう程の近さで、なあ、と囁かれる。
「最近は一緒に寝てるって言ってなかったか」
「イ、イッテナイデス」
「ふっ、……そうか。俺に似てると思ってる人形を抱いて、寝ているんだな」
「言ってないってばぁ!!」
 一人で勝手に納得されている。抗議の意味を込めて睨みつけてみるがちっとも効いちゃいない。いっそのこと笑いたきゃ笑ってくれと目を瞑ると、そのおかげで更に研ぎ澄まされた嗅覚は蜂蜜のように甘くて、このまま嗅いでいたらだめになってしまいそうな、そんな匂いを嗅ぎとった。
「ぎゆ、さん……?」
「バレたか。お前の鼻は本当に厄介だな」
 そう言う男の顔は柔らかい笑みが浮かんでいる。これは、つまり、どういうことだ。混乱している頭では答えが導き出せない。
「こんな紛い物に縋らず、素直に本物に来れば良かったものを」
 あ、と思ったのと、唇スレスレに口付けされたのは同時だった。

 ──なんだ、悩まなくても良かったんだ。
 ストン、と。憑き物が落ちる感覚がした。そうして炭治郎は、憧れだった広い背中に手を伸ばすのだった。



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -