大事なものはすぐそばにある


※ぎゆ誕、少しだけモブ女の気配あり



 姉が嫁ぐと、両親は今度は義勇の番ね、と言って笑うから。
 今まで恋人がいたことはあった。告白され、なんとなくまあいいかと思った相手であれば頷いたことが数回。しかしどれも義勇が振られる形で別れている。曰く、ちっとも恋人扱いしてもらえない、と。
 デートはこちらから誘ったことがないし、連絡も最低限。触れ合いも抱擁が精一杯。成程、言われてみればこれ程彼氏に向かない男もいないだろうと我ながら納得した。直す気は微塵もなかったが。
 そもそも恋人を望んでいた訳ではなかったので義勇はどうでもよかった。しかし両親が結婚を促すのであればそろそろ視野に入れるべきかと考えを改める。
 斯くして冨岡義勇は、二十代を半ばにして婚活に重い腰を上げたのである。

 しかしいざやろうと決めたものの何から手をつけるべきなのか分からず、その辺りに詳しげな知り合いも同僚の宇髄しかいない。義勇は仕方なくその男を頼ることにした。
「派手に面白ェことになったな!」
 居酒屋の個室に入るなり説明した経緯に対しギャハハと涙を浮かべて笑う宇髄に、相手を間違ったかと無言で立ち上がる。しかし慌てて引き止めてくるので渋々座り直した。
「悪い悪い。冨岡が婚活って字面が似合わなすぎてな」
「貴様は俺を怒らせたいのか」
「違ぇって!そうだなー……お前の場合街に立ってりゃいくらでも声掛けられるだろうが結婚だもんなァ。となると…アプリか結婚相談所に行くか、だな」
「……アプリ?」
「婚活アプリだ。……ほら、こんなの」
 見せられたスマートフォンの画面には様々な入力項目があり、条件を入れればそれに見合った相手がすぐさま出てくるといった機能を持つらしい。が。
「……冨岡お前、メッセージのやりとり頻繁にやる方だったか?」
「面倒だからやらない」
「だよな!じゃあ相談所行け」
 どうやらこの手のものはメッセージのやりとりを経て距離を縮めるようで、お前には向かないだろうと告げられた。それは同意だったので黙って頷く。義勇の性格を知ってもなお連絡をし続けてくる者など家族を除けば一人しかない。そういえばその一人には稀に返事をしているな、なんて思ったりした。
「聞いてんのか?」
「ああ」
 この周辺にある結婚相談所を幾つか教えてくれた宇髄は最後に、でもな、と付け加える。
「そういう相手は案外近くにいたりするもんだぜ」
 義勇は訝しげな顔をしながらも、メニューを差し出す。礼に今日は奢ると言うと嬉々として酒とつまみを大量に注文していた。
 義勇は横目でそれを見ながらビールをあおる。そして宇髄に言われた通り、何となしに周囲の人物を思い浮かべた。同僚、先生、年の離れた幼馴染み、幼い頃から見てきたパン屋の息子。途中まで首を振っていたのに、最後の一人が脳裏に浮かんだ瞬間義勇は動きを止めた。
 そんなタイミングで傍らのスマートフォンが通知音を鳴らす。それは無理やり登録させられたメッセージアプリのもので、相手はまさしく今思い浮かべていた子どもであった。
『明日伺ってもいいですか?』
 あの子どもは義勇の何が気に入ったのか、幼い頃からぎゆうさんぎゆうさんと舌っ足らずな声で名前を呼んではカルガモの子のように後ろをついてまわり懐いた。初めて手伝いで店先に立ち、接客対応の練習になったのも義勇だった。
 成長して義勇の勤めるキメツ学園に入学し生徒となった今はある程度線引きをして接しているつもりだが、休みの日には家に来て義勇と過ごすのが常となっていた。
 休日であればプライベートの範囲であるし、特別扱いにはならないだろうと踏んで好きにさせている。こんなことを言うのはどうかと思うが、義勇の部屋をぱたぱたと駆け回る子どもは見ていて癒されるし、今となってはそれが習慣となっておりなければ落ち着かない。何より子どものつくる料理は義勇の胃袋をがっちり掴んでいる。どの店で食べる鮭大根よりも、子どもがつくるものの方が格段に美味しかった。
「…珍しいな、冨岡がスマホ見て笑ってるなんてよ」
「……笑ってない」
 内心焦りながらスタンプの項目をタップする。こんなときスタンプというのは便利なもので、文字を打たずとも意思疎通を図れるので義勇は大変重宝していた。教えてくれたのは当然のように今のやりとりの相手であり、勝手にしてくれと任せていたらこれが義勇さんっぽいですというよく分からない理由から狐のスタンプを選ばれた。その狐が了解と言っているものを選びタップする。そうしてアプリを閉じると義勇もつまみに手を伸ばした。





「こんにちはー、義勇さーん。お邪魔しますー」
 昼前にチャイムが鳴らされた。微睡みの中でそれを耳にしながらも義勇がベッドから出ることはない。合鍵を持つ子どもは勝手に入ってきてくれるからだ。
 確か随分と前のことになる。せっかくの休日、昼前に起こされることを厭った義勇が合鍵を渡したのだ。自由に出入りしてくれて構わないから起こしてくれるな、と。そのときの子どもの反応の様は面白い程に飛び上がって驚いていた。そのあと手のひらで顔を覆いながら後ろを向いてしまったので一体どのような気持ちだったのか義勇には読めなかったが、少なくとも悪い反応ではなかったように思う。
 そんなことを思い出しながら義勇は未だぬくぬくと布団の温もりを堪能していた。廊下からは洗濯機お借りしますだの掃除機お借りしますだの、わざわざ義勇に報告してくる子どもの声がする。いつも勝手に使ってくれて構わないと言っているのに律儀なものだと感心してしまう。
「義勇さーん?」
 寝室の扉が開かれて子どもが顔を覗かせる。声量はぐっと抑えられ、なるべく義勇を起こすまいとしているのだろうが既に義勇の意識は現実と夢の狭間にある。起きているとも言えるし寝ているとも言えるその時間は心地よく、あまり邪魔をされたくない。だがもう、この子どもならば許せると思うところまできていた。だから義勇はあやふやな返事をする。
「………ううん………」
「あ、まだ寝てますね。今日のお昼は鮭とブロッコリーのクリームパスタにしようと思ってるので、なるべく早く起きてきてくださいね」
 この子どもは日に日に義勇の扱いが上手くなっているのではないか。なんとなくそんなことを思う。鮭、と聞いただけで脳が覚醒しかけている自分が恨めしい。好物が鮭大根なだけあって、鮭と大根が使われた料理には目がないことをあの子どもにはとっくに見抜かれているのだろう。何せ義勇の食すものの半分は子どもが作った料理なのだから。
 欠伸をしながら起き上がる。布団から抜け出すと少しだけ身体が震えた。最近は暖冬の傾向があるといっても、やはり午前中は寒い。適当に羽織るものを手に取って、義勇は寝室を後にした。

「あ、おはようございます」
「……おはよう」
 顔を洗ってキッチンに向かうと、まな板を見つめていた視線が義勇を捉える。眩しい程の輝かしい笑顔に義勇は自然と表情を綻ばせた。
「コーヒー淹れます?」
「いい。それくらいは自分でやる」
 さっとマグカップを用意する気遣いには目を瞠るものがある。流石にそこまではさせられまいと断ってカップを受け取った。コーヒーをかき混ぜる度にカチャカチャとスプーンがカップの縁に当たる音を聞きながら、義勇は調子の外れた鼻歌を口ずさむ子ども、炭治郎に視線を送る。
 竈門炭治郎。幼少時代から実家のパン屋を手伝う竈門家の長男。世話焼きで優しいけれど、頑固で一度決めたら譲らないのが玉に瑕だ。これまでの付き合いで一体何度義勇が折れただろうか。間柄が教師と生徒のうちは公私問わず先生と呼べと主張した義勇に反抗したときが一番手強かった。そして結果はご覧の通りである。
 手際良く手順をこなし、義勇本人すら家に存在していたのかすら知らない調味料を入れる炭治郎はえらくご機嫌だ。今日は何かあっただろうかと考えるが、家に来る以外に話は聞いていない。義勇はまあいいかとそのまま思考を流した。
 校内では外せと竹刀を持って追いかける原因になっている花札の形をしたピアスが、炭治郎の鼻歌に合わせてからんからん、と軽快な音を鳴らしていた。

 出来上がったパスタを前にフォークを手にしたところで、炭治郎はそわそわと落ち着きのない態度で口を開いた。
「義勇さん義勇さん、好きなものって何ですか?」
「……鮭大根」
「もー!それは知ってます!それ以外でお願いします!」
「それ以外?……………別に、これといってないが…」
「ええーっ!?じゃ、じゃあ、やりたいこととか!」
「………もっと休日が欲しい」
 やっとそれだけを絞り出すと、炭治郎はがっくりと項垂れた。違うんですぅ、と悲痛な声が聞こえるが今は無視だ。せっかくのパスタが冷めてしまう。
「何なんだ急に」
「ううう……義勇さん、もうすぐ誕生日でしょう?だから…何か贈りたくて…」
「ああ…そういえばそうだったな」
「また忘れてる!毎年俺が言うまで思い出しませんね!?」
「大人になると誕生日なんてそんなものだ。それよりも早く食べてしまえ」
「また子ども扱い……はぁい……」
 あ、美味しい。自分が作ったのにさも今気づいたかのような発言に笑みがこぼれる。炭治郎の作る料理はいつだって美味しいのに。
 喋りながら食べられない義勇に倣い炭治郎も殆ど食事に集中する。これもいつもの流れで、義勇は静かで落ち着いた空間の中、炭治郎の手料理を味わえるこの時間が好きだった。

 食事を終えたら義勇が後片付けを担当して、その後は二人で各々好きなことをしながらゆっくり過ごす。多くは炭治郎が課題をこなし、時折分からない箇所を片手間に義勇が教えるといったものだ。ちらりと手元を覗くと、今日は数学の教科書とノートを開いていた。
「……そういえば、お前は数学担当の不死川にやけに目をつけられているんだったな」
「う〜ん…そうなんですよねぇ…俺、特に何かやらかした覚えはないんですけど…」
「ピアスをつけている以外は優等生だからな」
「……外しませんよ?」
「今は学校じゃないんだからそんなこと言う筈ないだろう」
「義勇さんが俺で遊んでる〜〜!」
 集中力きれちゃったじゃないですかぁ、と喜色溢れる声色で怒られても何も怖くない。こてんとソファに寄りかかったかと思えばすぐさま起き上がり名前を呼ばれた。
「義勇さん!俺、アイス食べたいです!」
「冬なのにか?」
「アイスに季節は関係ないです!コンビニ行きましょうよ!」
 わくわくしているのを隠しもしない表情をする炭治郎に断る選択肢がない。ずるずると引き摺られるまま、義勇はコートを手に取りはしゃぐ子どもと家を出るのであった。





 数日後、義勇は疲れた身体に鞭を打ち、紹介された中で一番最寄りの結婚相談所を訪れていた。入る前から雰囲気だけで後退りして今すぐに帰りたくなってしまったが、それではせっかく宇髄に聞いた意味がなくなる。義勇は意を決してその扉を潜った。
 中に入った義勇は恐ろしい勢いで飛んできたスタッフに捕まり、あれよあれよという間に会員登録が完了していた。
 早速条件に合う人物を何人かに絞られ、選択を迫られる。なんとなく赤みがかった瞳を持つ女性を選ぶと、あっという間に次の休日に約束が取り付けられてしまった。
 そうして解放された義勇は外に出ると、深いため息をもらしてしまった。最初からこの調子では先が思いやられるというもの。果たして己の身は持つのかと一抹の不安を抱えながら、義勇は帰路についていった。

 義勇は失念していた。休日に約束をしたということは、もう他の予定は入れられない。つまり炭治郎が家に来るルーティンが途切れるということ。
 いつものように土曜日に炭治郎から来たメッセージを見て、義勇はそこで初めて思い至ったのだ。
 惜しみつつも義勇は断りの文言を送った。炭治郎からは分かりましたと聞き分けの良さを見せるメッセージが返ってくる。文章だけでは炭治郎の顔が見えなくてもどかしい。しょんぼりとしながらも無理に笑顔を浮かべる顔が自然と脳裏に過ぎった。それが切なくて、今すぐに訂正する為に電話を掛けてしまいたくなる。
 そこまで考えて我に返った。一体何を考えていたのか。義勇は取り付けた約束の方に集中しなければならないのに。
 しかしどうしても炭治郎と過ごす方が魅力的に思えて、女性と会うことについては億劫でならなかった。

 週末の夜、義勇はぐったりとした身体を引き摺って自宅にこぎ着けていた。
 まず昼前には待ち合わせ場所にいなければならないのが一つ。なるべく愛想良く、とは一応これでも考えていたので慣れない表情筋を酷使したことが一つ。行きたい場所は任せていたせいで普段なら絶対に近寄らない所を連れ回されたのが一つ。そして、出会って間もないのにいきなりホテルに誘われ回避するのに言葉を並べ立てたのが一つ。
 積み重なった疲労が心身に重くのしかかる。己は何をしているのだろうかと遠い目をした。これならばいつものように炭治郎とのんびり過ごして疲れを癒したかった。女性と付き合うのがこんなにも大変だと、今までいい加減な付き合いしかしてこなかった義勇は今更ながらに思い知ったのである。
 結婚式に参列したときに見た姉の笑顔を思い出す。唯一無二のパートナーとの門出を迎えた姉は本当に幸せそうで、義勇は喜びと羨ましさを感じたのだ。
 自分にもそんな風に笑って隣を歩いてくれる相手ができるのだろうかと、あのときはいつかの自分に思いを馳せたというのに。いざそのパートナー探しに手をつけた義勇はといえば、既にくたくたで明るい未来などとても想像できない。
 義勇はため息をつきながら浴室に向かう。今日はもう早く寝てしまおうと考えた。せめてじゅうぶんな睡眠をとって備えなければ。時間は止まってくれないので、いくら義勇が疲れていようとまた明日からは通常通りに一週間が始まってしまうのだ。
 ──ああ、けれど。
(学校なら、炭治郎がいるのか)
 シャワーを浴びる傍ら、疲れきった頭でそんなことを思った。





 週末が近づくにつれ憂鬱さが増すなど、ともすれば人生初めての経験かもしれない。尤もそんな経験など御免なのだが一向に気分は晴れないままだ。
 義勇はふと、己に結婚はまだ早いのではないかという結論を出しかけた。しかし両親が楽しそうに義勇の将来について語り合うあの顔を思い出してしまうと、どうしても退くことを躊躇ってしまう。親孝行をしたいと思う気持ちは大いにあるのだ。それに、義勇の口下手な気質を慮って両親は結婚を勧めていることは知っている。だからそんな二人の気持ちを跳ね除けることなどは到底出来ず。
 休日が潰されている、なんて思う自身を振り払って義勇は二度目のデートに臨むのであった。

 次の約束も休日かと思えば、持ち掛けられたのは平日。その日は学校もギリギリ冬休みに突入しており、多少とはいえど仕事も減っている。義勇は特に考えを巡らせることもなく了承した。年末で相手も忙しいのだろうと深く考えていなかったのだ。
 その次の日、炭治郎から掛かってきた電話に義勇は珍しいなと思いながら出た。どことなく緊張している気配の炭治郎が口を開く。
『こ、こんばんは、義勇さん!』
「ああ。何の用だ?」
『あの、あのですね。明後日、空いてますか?終業式の次の日、なんですけど…』
「……いや、その日は……」
 炭治郎が尋ねてきた日付は、まさに女性と約束を取り付けた日であった。どうしてよりによって、と歯噛みした義勇は致し方なく用事があることを告げると、炭治郎は気落ちした声で分かりましたと言葉を紡いだ。
『そうですよね……毎年、ってわけにもいきませんよね……』
「炭治郎…?」
 その後は話好きな炭治郎にしては珍しく、お喋りに興じることもなくすぐに通話は切れてしまった。
 そして炭治郎の落胆の理由を義勇が知ったのは当日のことである。
 待ち合わせの場に向かいながら、その道中に煌びやかなイルミネーションが飾られているのを幾度もなく目にしたからだ。季節のイベントに無頓着といえど、我ながらよく忘れていたなと愕然とする。
 クリスマス。キリストの降誕祭、とはいえ一般的には家族や恋人たちが楽しく過ごす定番のイベントとなっているそれ。義勇も幼い頃は家族と、数年前からは炭治郎と過ごしていた日だった。まさかすっかり失念して恒例の約束を反故にしてしまったとは。
 女性と会う前から士気が下がってしまった義勇はいつも以上に無表情のままでその日を終えてしまった。

 大晦日こそは炭治郎を呼んで新年を共に迎えることと決めた義勇は、表に出すことはなくとも久しぶりに浮かれていた。
 ここに来るまでに冷えてしまうであろう炭治郎のことを考えて、暖房をつけっぱなしにして家を出る。炭治郎はいつも通り何も知らずこちらに向かっているだろうが、一刻も早く会いたい気持ちが抑えられずに義勇は迎えに行くと決めた。
 案の定互いの家の半分程の距離で合流できた義勇は満足げにムフフと笑った。どうして、と目を白黒させている炭治郎の手を握る。手袋をしていない子どもの手は思った通りひんやりと冷たい。己の手も温かいわけではないが、ポケットに突っ込んでいたおかげで多少の温度は保たれている。ないよりはマシだろうとそのまま手を引いて行く。炭治郎は未だ呆けており、歩き出した義勇に対応できず足を縺れさせた。慌てて立ち止まると、義勇の背中にぽふりと顔をぶつけていた。
「大丈夫か」
「ひゃ、ひゃい……すみません……」
「お前が平気なら構わない。寒いから早く行こう」
 今度は何事もなく義勇についてくる炭治郎を見て、義勇の心にはぽかぽかとあたたかい気持ちが揺らめいていた。

 玄関を潜ると、暖まっている室内にほっと息を吐く。炭治郎もどこか気を弛めた気配がした。
 ひと息ついた炭治郎は持ってきたトートバッグの中身を説明し始めた。母親と一番上の妹とで一緒に作ったというおせちをお裾分けさせてもらえるらしい。ここのところ久しく口にしていない炭治郎の手料理に、義勇はそわりと気持ちを逸らせた。あとはお蕎麦を作りますね、と言って台所へ駆けていく背中を微笑ましく見送る。
 義勇は先程まで炭治郎と手を繋いでいた右手を見遣った。歩いている間に体温を分け合った手のひらはほんのりと熱を持っている。家に着いた際にあっさりと離されてしまったことを少しだけ残念に思うのは何故だろうか。
 義勇は自身の気持ちにすら気がつけないまま、首を傾げてコートを脱いだ。

 テレビ画面越しでは今年活躍したアーティストらが出演して歌を披露している。炭治郎がこれは妹が好きなアイドルで、こっちは善逸が気に入っている曲で、と話してくれるのを朗らかな気持ちで聞きながら観ていた。
 卓上には炭治郎の作った年越し蕎麦が湯気をくゆらせている。のんびりとした時間だった。
 ふと、炭治郎が口を閉ざした。すると番組からの音声だけが室内に響き渡る。気づけばカウントダウンが始まり、炭治郎は画面をじっと見つめていた。
『さん!にー!いち!ゼロ〜!ハッピーニューイヤー!』
「……義勇さん、あけましておめでとうございます」
「おめでとう。今年もよろしくな」
「…はい」
 そう答える炭治郎の表情は何故かこちらを慈しむような、どこか切なさを感じさせる笑みで、義勇は妙な胸騒ぎを覚えた。しかしその正体を掴む前に炭治郎は立ち上がって椀を片付け始める。仕方なく義勇も後に続いた。
 初詣も一緒に行く予定だったので、二人は元旦だからと夜更かしをすることなく眠りにつく。うとうとと微睡む中でなんとなく炭治郎の元気がないと感じて。義勇にはそれがひどく寂しかった。

 翌朝は竈門家特製のおせちを頂き、しっかりと着込んでから家を出た。そこまではそれ程違和感がなかったように思う。けれど神社でお参りを済ませて炭治郎に御守りを買い渡したところで、人混みに酔ったと子どもは眉を下げた。確かに顔色がよくない。すぐに気づけなかった自分に内心舌を打って、義勇は炭治郎を送っていくことにした。本当はこの後何処かへ出掛けようと話していたが、こうなっては中止だ。またいつでも行けるだろうと踏んで、炭治郎を気遣いながら自宅までの道のりをゆっくりと歩いていく。
 昨夜元気がなかったのはそもそも体調が万全ではなかったのだろうか。ならば無理に家へ来ることもなかったのに。義勇は折り曲げた人差し指で炭治郎の頬の輪郭をなぞった。
「ひぇっ!?ぎ、ぎゆうさん…?」
「すまない。冷たかったか?」
「いえ、そういうことではなく…」
 しどろもどろな炭治郎に首を捻るが、珍しく子どもは一向に言葉を発しない。その間に炭治郎の家まで辿り着いてしまった。共に過ごした時間はあっという間に過ぎてしまい、残念に思いながらも身体に気をつけるよう告げて子どもが家に入るのを見届けてから義勇は踵を返す。
 まるで太陽が雲に隠れてしまったように、炭治郎が隣にいなくなっただけで急に寒さを覚えて義勇は身を震わせる。炭治郎に気をつけろと言った側が体調を崩していては洒落にならない。
 足早にその場を去る姿を窓から見つめていた赫灼の瞳に、義勇は気づけなかったのだった。





 残りの冬休み中に炭治郎が義勇の家を訪れることはなかった。メッセージも来ず、あの後は大丈夫だったのかとひっそりと気にかけていたのだが、始業式には変わらず堂々とピアスをつけて元気よく登校してきた姿を見て安堵した。あいにく今日ばかりは服装検査もないので竹刀を持参しておらず、口頭での注意に留める。炭治郎はすみませんといい返事をするもののピアスを外す気配はなく、義勇は呆れた視線を向けた。
「……はぁ。明日は外して来いよ」
「無理です!」
 しかしこのやりとりを心地よく感じているのもまた事実。義勇はわずかに頬を緩めていた。
 校内では変わらぬ炭治郎の態度に、義勇はまだ異変に気づいていなかった。

(炭治郎からのメッセージが来ない)
 義勇は静かなスマートフォンを前に眉を顰めていた。
 炭治郎のことが気になりすぎて女性とのお付き合いははっきりと拒否してしまったし、相談所の方から来た二人目の紹介メールも無視してしまっている。
 だがいつまでも待っているだけでは気が済まず、ついに義勇からメッセージを送ってみた。それには普通に返信が来たものの、どこか素っ気なく感じる。益々不安が膨れ上がっていたところに、彼女は現れた。
 ──炭治郎の妹、竈門禰豆子である。
 一人校舎裏の非常階段で昼食をとっていた。そこに禰豆子がやってきて、意志の強さが垣間見える瞳で仁王立ちして義勇の前に立ち塞がった。だがその割に、彼女は丁寧にお辞儀をして挨拶をする。
「……こんにちは、義勇さん」
 彼女も兄ほどではないものの義勇のことを慕ってくれていて、仲のいい関係を築けていた筈だったけれど。
 今の彼女は微笑んでいるのに、その背後には般若が浮かんで見えた。前に炭治郎が、禰豆子は怒ると怖いんですよねぇと言ってくすくす笑っていて義勇もつられたことがあったが、実際に目にするととても笑えない。正直に言うと少し怖い。義勇の脳内は混乱して事態を飲み込むのに必死だった。
「お昼休みに突然押しかけてしまってすみません」
「それは別に構わないが…」
「ありがとうございます」
 再びぺこりと頭を下げた禰豆子が顔を上げたときには、何かを決意した表情をしていた。
「義勇さん……私、いつもそばで二人のこと見てきたから、分かるんです」
「……?」
「お兄ちゃんには貴方しかいないし、貴方もきっと同じなんだって、そう思っているんです」
「……」
「だから…大事なもの、ちゃんと見極めてくださいね」
 それを、伝えたかったんです。そう言って目を細める彼女の表情は兄とそっくりで。
 義勇は何も言うことができず、ただ頷くしかできずにいた。たったそれだけなのに禰豆子は満足したように、それでは、と言って中等部に戻って行った。嵐のように過ぎ去った出来事に、義勇はただ目を瞬かせる。
『大事なもの、ちゃんと見極めてくださいね』
 禰豆子の言葉が何度も頭の中でリフレインしていた。彼女が言うのはやはり、炭治郎のことなのだろう。
 炭治郎は義勇にとって当然大切な存在だ。生徒であることはもちろん、あれ程慕われて絆されないわけがない。最初は炭治郎から持ち掛けてきた家に来る習慣だって、いつの間にか義勇にとっても楽しみで仕方ないひと時になっていた。弟がいたらこんな感じなのだろうかと、一体何度考えたことか。
「弟……」
 自身の思考にストップをかけた。弟。はたして本当にそうなのか。それこそ禰豆子やその下の子たちも妹や弟のように可愛がっている。けれど炭治郎だけはいっそう特別に思う心があった。
 その特別が何なのか。義勇は今まで深く考えることがなかった。そうしなくても炭治郎はそばにいて笑いかけてくれるのが当たり前だったからだ。けれど今は。炭治郎は何も言わず義勇から離れていこうとしているように思う。しかし義勇はそれにとやかく言う権利がない。ないのだ。義勇は一教師であって、近所に住む年上の男で、実家の店の常連の一人で、炭治郎が歩き出した道を変えることなどできない。もしあの子に義勇よりも尊敬する人物や、それこそ彼女でもできたならこちらは二の次なのだ。
 そのことに気がついたとき、義勇は呆然として危うく食べていたぶどうパンを落としそうになった。何故そんな簡単なことに頭が回らなかったのだと己を責める。よくこんな傲慢な思考であの子どもが呆れず隣にいてくれたな、と炭治郎の懐の深さに感嘆した。
 ──唯一は、炭治郎がいい。
 義勇は立ち上がる。話がしたい、と送ったメッセージには既読の文字がついたけれど、それに返信が来ることはなかった。





 帰路につく。自宅に帰りつくのにここまで緊張するのは初めてだ。
 鍵を開けて足を踏み入れると、中は暗い。子どもは来てくれなかったらしい。その事実にずきりとかすかに痛む心臓を押さえ、明かりをつけてリビングに向かった。
 室内のテーブルの上には手紙が置いてあった。知らずのうちに溜まっていた唾液を飲み込む。そしておそるおそる、その手紙を開いた。

『冨岡先生へ。まずはごめんなさい。話がしたいって言われたけど、俺にはとてもそんな勇気が出ませんでした。なのでこうして一方的にお手紙を書いています』
 あれ程譲らなかった炭治郎が、義勇のことを先生と呼ぶことから文章は始まっていた。
『そしてお誕生日おめでとうございます。ちゃんと覚えてましたか?』
 また、忘れていた。この手紙の主のことでそれどころではなかったから。
『たくさん悩んだんですけど、俺からの誕生日プレゼントは冨岡先生の自由な時間です。なんて、図々しいですね。俺がもっと早く気付いて離れていれば良かったのに、いつまでも甘えて先生の隣を独占していた自分が恥ずかしいです。彼女さんにも申し訳ないことをしました。本当にごめんなさい』
 そんなことない。彼女もいない。義勇にとって炭治郎と過ごすことが何よりも心安らぐ瞬間だった。激務のうえ少ない休日だったのに頑張れたのは、炭治郎がそばにいてくれたからだ。
『今まで俺の我儘に付き合って下さりありがとうございました。鍵はポストに入れておきます。気まずいかもしれませんが、学校では一生徒として扱ってくれると嬉しいです』
 義勇の隣にいることが我儘ならば、世の中の願い全てが我儘だ。そんな些細な願い、義勇はいくらでも叶えてやれる。
 それに、今更炭治郎を生徒としてなんて見れる筈がない。炭治郎はもう、義勇にとって唯一無二の大切な存在なのだと、誤魔化せないくらいに思い知ってしまったのだから。
『義勇さんと過ごせた日々は楽しい思い出です。それでは、さようなら』
 ──だから、さようならなんて、言わないでくれ。
 義勇は手紙を握りしめた。くしゃりと皺が寄ってしまったが、そもそもこんな手紙は受け取れない。構いはしなかった。
 義勇は部屋を飛び出した。その際ポストに入っていた鍵を回収することも忘れない。これは既に炭治郎の手に渡ったものだ。義勇が持つべきものではない。
 これ程までに全力疾走したのはいつ以来だろう。体育教師をやっているおかげで、普段から身体を鍛えている方だったのが幸いした。恐らく今まで生きてきたなかでも最速で目的地までを駆け抜けた。肺は焼き切れそうで、口内には血の味がしたが、気にする余裕もなかった。

 息を切らしながら、炭治郎の実家に辿り着く。酸欠で震える指を叱咤して、チャイムを鳴らした。
 勢いで飛び出してきてしまったが、普通の家庭はもう夕飯の時間である。他人の家を訪ねるには相応しくない時間帯であることに今更ながら思い至った。出直すべきか、しかし既にチャイムは鳴らしている。誰が出てくるかと冷や汗を流したとき、カチャリと扉を開けたのは昼間義勇を駆り立て本当の気持ちを自覚させてくれた彼女だった。
 禰豆子は義勇の表情を見て、眉尻を下げながらもふわりと笑う。全てが見透かされていて、なんだか恥ずかしかった。
「義勇さん、ちゃんと大事なこと、気づけましたか?」
「…っああ、」
「そうですか、分かりました。お兄ちゃん呼んできますね」
 サッと引っ込んで行った背中を見て、心臓が跳ねる。炭治郎は出てきてくれるのだろうかという不安は、ぱたぱたという耳に届いた足音に掻き消されていった。
「えっと……冨岡、先生…?」
 そろりとドアから顔を覗かせた炭治郎は非常に愛らしいが、如何せん呼び方がいただけない。
「名前」
「え?」
「お前が、名前で呼びたいと言ったのだろう」
 自分でも驚く程に拗ねた言い方だった。炭治郎は戸惑って視線を彷徨わせる。
「いや、でも、おれはもう、」
「……もう…家に、来てくれる気はないか…?」
「……」
 手を伸ばすのに躊躇った。けれどかすかに怯えている子どもの心を引き寄せるには、もう義勇がその手を取るしかない。
 そっと指に触れて、持ち上げる。
「こんな…自分の気持ちにすら気づけないような、情けない男には、呆れ果ててしまったか?」
「…っ!」
「炭治郎、好きだ」
 気づいたばかりの気持ちを真っ直ぐに伝える。見つめ合うだけでも通じ合うことができると思っている義勇だが、今ははっきりと言葉にしなければならないのは明白だった。
「な…そ、……えっ…!?」
 言われたことを時間差で理解したのか、数秒ぽかんとしていた炭治郎は薄暗い中でも分かってしまうくらいに、徐々に頬を赤く色付かせていく。それが可愛くて、今すぐにでも顔中にキスを降らせたくなってしまった。
「まだ俺へプレゼントをくれる気があるのであれば、お前の人生を希望したい」
「えっ、えっ、」
「駄目、か…?」
「だ、だめじゃ、ない、です……!ふつつか者ですが、よろしく、お願いしますっ……!!」
 この子ども、自分は押しが強いくせに逆に迫られるのは弱い。それを義勇は今このとき、初めて知ったのである。



  ◇  ◇  ◇



 義勇と離れることを決めたはずだったのに、現在の炭治郎はその人と手を繋ぎながら彼の家への道のりを一緒に辿っていた。
 正直何が起こっているのか半分も理解できていない。都合のいい夢だとすら思っている。
 ──だってそんな、炭治郎がずっとずっと大好きだった初恋の相手が炭治郎のことを好きだと言ってくれたなんて。
 両想いという単語が浮かんだ。たったそれだけでふわふわと舞い上がってしまう。
(義勇さんと、両想い……)

 一目惚れだった。幼いながらに炭治郎の瞳には義勇の姿がいっとう輝いて見えて、見惚れてしまった。きっかけはそんなものだった。
 けれど義勇のことを知っていくうちに、中身にも惹かれていった。寡黙でクールに見えて実は情に厚い。最初は奇妙な生き物を見る目でこちらを見ていたのに、だんだんと優しく接してくれるようになった。店の手伝いをしている炭治郎を、義勇はたまに頭を撫でて褒めてくれるのが大好きだった。
 高等部に上がって義勇が先生になり関係が少し変わっても、炭治郎は名前で呼ぶことを譲らなかった。生徒たちに恐れられているのに女子には人気な義勇を見て、どうしても自身が特別だと思えるような何かが欲しくて縋った。そんな醜い気持ちを抱えていたなんて、きっと彼は知らないだろう。
 炭治郎が登録したメッセージアプリも、休日に押し掛けることも、義勇の身の回りの世話をすることも、少しずつ彼の生活に己を浸透させていった。気持ちを伝える勇気もないくせに卑怯だと思いつつも、義勇から炭治郎を求めてほしかった。
 その願いが今、成就してしまった。

「……家族に俺から言わなくても良かったのか」
「義勇さん、うちでは絶対的な信頼を得ているので名前出しただけで許可貰えましたよ」
 真実だった。急遽義勇の家に行くことになったと告げると、誕生日を覚えていたらしい母は笑顔で送り出してくれた。だが義勇は申し訳なさそうに焦った匂いを滲ませている。もっと説得してもいいが、珍しい光景に炭治郎は口を噤んだ。ちっとも炭治郎の気持ちに気づいてくれなかったことに対して、ちいさな仕返しだった。
(なんて、言わなきゃ伝わらないのにな)
 自身のことを棚に上げた態度に自省する。炭治郎は繋いだ手に力を込めた。
「っ義勇さん!早くしないと今日が終わっちゃいます!」
 ぐいぐいと引っ張って歩くスピードを上げた。見上げた夜空は今の炭治郎の心のように晴れて、きらきらと星が瞬いていた。





 手紙と鍵を置いていくのに一度訪れているから、本日この部屋に足を踏み入れるのは二度目だ。
 室内は何故か照明がつけっぱなしで、誰もいない空間を健気に照らし続けていた。
「…消すのを忘れていた…」
 思わずといったようにぽつりと呟いた義勇に、炭治郎は目を瞠る。もしかして手紙を読んで、そのまま出てきたのだろうか。だとすればとても嬉しいけれど。
「ああそうだ。お前に返す」
 義勇のコートのポケットから出てきて炭治郎の手のひらに乗せられたのは、ポストに置いてきたこの家の合鍵だった。手に馴染むそれに、じわりと目頭が熱くなる。
「電気も消し忘れる程だったのに、鍵は持ってきてたんですか……?」
「……これは、お前のだからな」
 罰が悪そうに視線を逸らす義勇に、視界が滲む。手放したはずのものが返ってきた感覚は何物にも得難い。ぎゅっと握りしめて、奥歯を噛み締めた。長男なのに、こんなことで泣いてしまいそうだった。
「それと、これは捨てても構わないな?」
「あ……、」
 もう一つポケットから取り出されたのは、しわくちゃになった紙きれ。炭治郎が義勇にさよならを告げる為に書いた手紙だ。
「これでも…色々悩んで書いた、ラブレターなんですよ」
「そうか。お前の言うラブレターとは随分寂しいことを伝えるものなんだな」
 来年の誕生日には、本物のラブレターが欲しい。そう言った義勇に、炭治郎の涙腺はもう限界だった。
「来年も、義勇さんと過ごせるんですか?」
「当然だ。俺はお前の人生が欲しいと言ったんだ。これから先も、ずっと一緒だ」
「……っひ、…ぅ、……うわあああん……!!」
 炭治郎は声を上げて泣いてしまった。多分、ようやく実感したのだと、遠くで冷静に分析する自分がいるのがおかしかった。
 義勇はコートが涙に濡れるのも意に介さず、炭治郎が大泣きする間ずっと抱きしめてくれていた。





 落ち着いた頃に義勇はココアを作ってくれて、それを飲みながら炭治郎はぽつぽつとこれまでのことを語った。
 クリスマスに約束を断られて嫌な予感がしていた。残念だと思いつつもきっと忙しいからだと自分に言い聞かせていたけれど、家族と食べるケーキを買いに行った際にたまたま女性と街を歩く義勇を見掛けてひどくショックを受けてしまった。
 ついに恐れていたことが現実になってしまったのだと、目の前が真っ暗になった。その日はどうやって帰ったのかも分からない。一応きちんとおつかいは果たしていて、弟妹たちはケーキに喜んでいたそうだ。気がつけばベッドで、頭から布団を被っていたからよく覚えていない。涙が溢れてくるのを止められなくて声を押し殺して静かに泣いた。弟たちは既に眠っていたようで、それだけは救われた。
 泣きながらずっと悩んだ。彼女がいるのであれば、もう炭治郎は必要ないだろう。義勇とは離れなければ。
 なのに義勇は大晦日を炭治郎と過ごすと言うので困惑するばかりだった。おまけにやけに触れてくるし、距離は近いし、態度は柔らかい。それで炭治郎は振り回されっぱなしなのに。
 彼女がいるのにこんな風に思わせぶりに接しないでほしい。どうにも耐えられなくて、初詣が終わったら適当に理由をつけて帰ろうと決めた。
 やっぱり別れ際まで義勇は優しくて、泣きそうになってしまった。
 残りの冬休み期間は自分の気持ちを整理するので精一杯であった。
 炭治郎は休みが明けてからというもの、義勇のことを影からひっそり見ていた。それで気づいたけれど、義勇はとても疲れているように見えて。義勇の彼女は彼を癒すこともできないのかと優越感を覚えて、そして落ち込んだ。嫉妬心が腹の奥でぐつぐつと燃えたぎっていた。

 そうして迎えた今日、義勇から話がしたいとメッセージが来て。義勇の口から直接何を言われてしまうのかとあれこれ嫌な想像をしてしまって。
 手紙と鍵を残して、炭治郎は逃げた。
 ──けれど。義勇は炭治郎を追いかけてきてくれた。炭治郎の手を掴んで、抱き寄せてくれた。
 あまりの幸せに、それが雫となって炭治郎の瞳から溢れてしまったのだ。



  ◇  ◇  ◇



 話を聞き終わると、義勇は再び炭治郎の身体を腕の中に閉じ込めた。己が不甲斐ないせいで炭治郎の心を傷つけてしまった。もっと早くに気づいても良かったはずなのに。
 幸せすぎて泣いたと子どもは言ったけれど、きっとあの涙にはそれ以外の感情も含まれていたに違いないと、義勇は感じたのだ。
 腕の中のぬくもりに、義勇はゆっくりと己の気持ちを言葉にして聞かせた。ひとことひとことを大切に選びつつ囁くと、炭治郎は頬を染めてじっと聞き入っていた。
「姉さんが嫁いで、両親が、次は義勇だと笑ったから…気持ちが急いて大事なものを見失っていた。……禰豆子には、感謝しないといけないな」
「えっ?禰豆子、ですか?」
 突然出てきたのが意外な名前だったのだろう。ぱっと上を向いた顔は驚きに満ちていた。
 わざわざ高等部にまで出向いて直談判しにきてくれたことを伝えると、炭治郎はすみませんと身を縮こませた。しかし何も謝ることはないからと背中を優しく撫ぜる。何しろ禰豆子がいなければ今ここに炭治郎はいなかったのだから。
「あと、お前が見た女性は結婚相談所で知り合って少しだけ会った人だ。それももう断った」
「……」
「炭治郎?」
 これだけは弁解しておかなければなるまいと伝えたけれど、炭治郎はまだ浮かない表情をしている。だがなかなか口を開く気配がなく、辛抱強く待っているとようやく観念したのか。義勇の胸にぐりぐりと額を擦り付ける可愛い仕草をしながら消え入りそうな声で言う。
「……俺も、その人の分義勇さんとお出かけ、したい、です」
「!」
「その人だけ、ずるい…」
 むくれる炭治郎の愛らしさといったら。込み上げる思いを何と表していいのか分からず、義勇は泣いて赤くなった炭治郎の眦に口付けた。
「炭治郎。俺はもうお前のものだ。だから…」
「…俺も、義勇さんのもの、ですよね?」
「……、ああ」
 見つめ合って、どちらからともなく近づいた。目を閉じた炭治郎の顎を上向け、唇同士を重ねる。それは甘くて、幸福の味がした。

 後日二人の首元には揃いのシルバーの指輪が煌めいて、静かにその存在を主張していたのだった。



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