誰にも渡さない


※ホラー要素あり…を書きたかったので仄かにそういう感じです。



 義勇は現在同門で弟弟子である竈門炭治郎と、その炭治郎に背負われた箱の中にいる竈門妹と共にとある山村へ向かっていた。村では何日かに一度、人が消えているという。既に向かった戊の階級の隊士数人は行方知れずとなっており、救援で柱である義勇と、たまたま任務のなかった炭治郎が選ばれたのである。
 この子どもは義勇が間に合わなかった所為で家族を失い妹を鬼にされてしまった。平穏な生活を送っていた優しい子どもを、鬼殺の道へ導いてしまった。義勇のことを恩人だと宣い慕ってくれているが、その度にそんなんじゃない、と否定したくなる。
 義勇はいつだって守りたいものを取りこぼしてしまう、弱くてちっぽけな存在なのだから。

「…行方知れず、って…皆さん無事だといいですね…」
「……ああ」
 道中、歩みを止めないまま炭治郎がぽそりと悲痛な声をもらした。かりかりと聞こえた爪音から妹も同じ気持ちを持っているようだった。義勇はそれにひと言応えただけで留めたが、経験則からして大抵この場合はいつも歯噛みする結果ばかりになってしまう。それでも今子どもの顔が歪んでしまうのは見たくなくて口を噤む。いずれはっきりすることでも、少しでも真実を知ることを遅らせたかった。

 夕暮れまでには村へ辿り着いた。村はしんと静まり返り、人っ子一人見当たらない。きっと皆怯えて夜は出歩かないようになったのだろう。
「……鬼の匂いはしません。外れの方か、山の中なんでしょうか」
「分からない。この様子じゃ村人も教えてくれないだろうな」
 こちらを拒絶するかのようにピシャリと閉じられた戸を見つめながら些か落胆の表情を浮かべる。
「仕方ない。まずは外れから行くぞ」
「はい!」

 気配を探りつつ歩いていると、突然炭治郎がきょろきょろと辺りを窺いだした。鬼がいる様子はないが、炭治郎の鼻は何か嗅ぎ取ったのだろうかと問う。
「どうした?」
「……いえ、気の所為でした。すみません」
「……? なんだ、気になることがあるなら言え」
「でも……さっきまで大人すら見掛けなかったのに、子どもの声がしたのはおかしいでしょう?」
「何…?」
 義勇の後ろを炭治郎は離れずついてきていた筈だ。炭治郎に聞こえた声が義勇に聞こえなかったというのは有り得ない。眉根を寄せて足を止めた。
「声とは、どんなものだった?」
「冨岡さんには聞こえていなかったんですか?やっぱり俺の気の所為じゃ…」
「構わん」
「え、ええと……すごく小さな声で、しい、しい、って。静かにしろって意味でしょうか?」
「意味というか…」
 そもそもそれを言った相手は何処にいるんだ。
 義勇がこぼした素朴な疑問に、炭治郎は口を閉ざして首を捻った。そういえばそうですね、なんて暢気さに少し気が緩む。しかしすぐに任務中だと引き締めるよう己を制した。どうにもこの子どもといると何処か心が安らいでしまうのだ。
「もしかすると血鬼術かもしれない。油断するな」
「分かりました!」
 むん、と気合いを入れ直した炭治郎に、義勇は少しだけ表情を和らげる。しかしそれを目にする者はいないまま、二人は捜索を再開したのだった。

 しかし二人の努力も虚しく鬼も隊士らも見つからずじまいであった。近くには藤の花の家紋の家もなく、普通の民宿に身を寄せた義勇たちは眠気に抗いつつ朝餉を摂る。今夜は山の方へ行ってみることにして、それだけを話し合うと後は泥のように眠った。
 昼過ぎに目を覚ますと、隣の布団は既に綺麗に折り畳まれていた。ぼんやりとしたまま身体を起こしたところで障子が開く。入ってきたのは炭治郎で、がしがしと濡れた髪を乾かしていた。
「あ、冨岡さん!起きられました?」
「………ああ………お前は………」
「実は…恥ずかしながらおかしな夢をみてしまい……目を覚ましたときには汗だくでして、お風呂をいただいてきたところなんです」
 こんな時間でも入れて良かったです、とにこにこ笑う炭治郎を見て、次第に思考がはっきりしてくる。
「…おかしな夢、とは」
「大したことはないんですよ?小さな子が話しかけてくるだけの夢です。ただ…」
「?」
「ううん……内容は覚えていないんですけど……言われたことにゾッとしたのは覚えてるんですよね」
「そう、か」
「でもただの夢ですからね!なんてことはありません!」
 義勇には何か引っ掛かるものがあったが、その正体が分からずその話は流れてしまった。
 しかしどうしても妙な予感が胸を過ぎり、義勇は炭治郎から目を離さぬよう心に決める。この兄妹は義勇にとって数少ない大切でかけがえのない存在だ。しかも弟弟子には特別な想いを抱いてさえいる。喪うなんてことは、絶対にあってはならない。
 鬼相手なら、義勇は戦える。だが、鬼が相手ではなかったら。
 得体の知れない感覚にそんな想像をしてしまう。義勇は頭を振った。何をらしくのないことを。
 任務を終えて、早く兄妹を蝶屋敷へ帰してやりたかった。彼処で妹と、同期たちや己の同僚と笑い合う炭治郎の姿を見て安心したかった。





 夕暮れの前に宿を出る。言葉数の少ない義勇の代わりとばかりに炭治郎は口を動かした。子どもの口から語られるのは微笑ましいものばかりで、義勇もつい顔を綻ばせる。尤も、それは他人に見抜けない程に些細なものではあったのだが。
 山に近付くにつれ、会話は減っていった。二人の間には緊張が走る。昨夜は全く情報が得られなかったので今日こそは少しでも掴みたい。それは炭治郎と共通する思いだった。
 炭治郎が歩みを止める。そして、何かを探すように目線が彼方此方を向く。義勇も立ち止まって炭治郎の言葉を待った。
「………冨岡、さん…」
「どうした」
「あの、あのですね。一応確認したいのですが、少女の声とか、聞こえてない、です、よね……?」
「……ああ」
 歯切れ悪く質問をする炭治郎の顔は蒼白だった。胸中に言い知れぬ不安が満ちて咄嗟に肩を掴む。情けなくもその手は少しだけ震えていた。
「何が、聞こえたんだ」
「……昨日より近くで、同じことを言っていました」
 何なんでしょう、気味が悪い。
 炭治郎は身を震わせ、恐怖を耐えるように市松模様の羽織をぎゅうと握りしめている。義勇は気休めにもならない大丈夫だのひと言しか口にできなかった。
 鬼の仕業であれば、どのような血鬼術なのか。何故炭治郎だけにしか掛かっていないのか。分からないことばかりで、それが一層恐怖をあおっている。
「……傍を離れないようについてこい」
「…はい!」
 義勇の頼りない発言だけで、炭治郎は恐怖なんぞ吹き飛ばしたかの如く笑顔で返事をした。
 それが逆に義勇の心を明るく照らしてくれたなんて、この子どもは知らない。



  ◇  ◇  ◇



 最初は、気の所為かと思う程に小さく消え入るような声だった。
 次は夢の中。暗闇の中で誰かが炭治郎を呼ぶ声。しかしそれに返事をするのは不味いと、本能で分かった。
 今度は、はっきりと。くすくす、くすくすと笑い声と共に聞こえるのはやはり、しい、しい、と意味をなさないような言葉。炭治郎は背筋がひやりとして、鳥肌が止まらなくなった。姿なき相手は着実に炭治郎の精神を蝕んでいた。
 風が靡いて木々の葉を揺らす音さえ恐ろしいものに感じる。それでも立っていられたのはひとえに兄弟子が隣にいたからだ。この人がいれば大丈夫なのだという安心感があった。
 だから自分は大丈夫。そう、思っていた。

 今夜も成果はなかった。鬼本体も痕跡すらも見つからない。炭治郎たちが到着して村人が消えたという話は聞こえてこないから、被害はないのだろう。それでも焦りが生じる。
 憂鬱な気持ちを持ったまま、宿で就寝の準備の為に布団を敷いていたときだった。
 ──ドンッ、ドンドンドンドンッ。
 強い力で床を踏み鳴らす音が響いた。何事かと廊下を見たが、そこに人影はない。
「ひ……ッ、」
 不可解な現象を前に、炭治郎の喉からは引き攣った声が出る。音は確かにこの障子の向こうからしたのに気配も匂いもない。逸る心臓を落ち着けてくれたのは冨岡の冷静な低音だった。
「炭治郎」
「っは、……とみおか、さん……」
 詰めていた息を一気に吐き出す。ゆっくりと背後を振り返ると緊張した面持ちの冨岡が炭治郎を見ていた。その様子にもしやという思いが広がる。
「聞こえ、ましたか?」
「ああ。今のは…」
「俺にも、分かりません…こんな音は初めてで…」
「そうか……」
 考え込んだ冨岡を見て、炭治郎は申し訳なくなる。
「すみません。なんだか巻き込んでしまったみたいで…」
「…どうしてお前が謝る必要がある?お前こそ理不尽に脅かされ気が気じゃないだろう。鬼の仕業ならば、とっとと頚を斬ってこんな事態を終わらせるぞ」
「……はい」
 さらには気遣わせてしまった。早く、炭治郎が自分でどうにかしなければ。焦燥ばかりが頭を占める。
 自分でも気づかぬうちに、炭治郎の精神は今にも切れんばかりの細い糸のようにギリギリであった。

 暗闇で泣いている少女がいる。炭治郎はどうしても放っておけなくて、大丈夫かと声をかけた。
「……しい、しいの」
 その少女は泣き止んで、顔を、上げた。
「欲しい、欲しいの」
 ニタリ、と。歪に笑うソレは炭治郎を見ると少女とは思えぬしゃがれた声で、言った。

「やッとコっち、見テクれたァ」



  ◇  ◇  ◇



「炭治郎…、炭治郎…!」
 義勇は必死に呼び掛ける。兄の異常事態を悟った禰豆子も箱から飛び出してきて炭治郎の身体を揺さぶる。
「むむー!むー!」
 ひどく魘されている炭治郎に気付いて義勇は目が覚めた。先程から二人で起こそうと奮闘しているのだが炭治郎は一向に目覚めない。これも血鬼術なのかと未だ尻尾の掴めていない鬼へ苛立ちが募る。
「……っ炭治郎……!」
「………ん、………あれ…、おれ……」
「むーー〜〜!!」
「わっ、禰豆子?どうした?」
 漸く目を開けた炭治郎は事の事態を理解しておらず、ぽけっと呆けて妹と義勇を交互に見ている。よしよしと禰豆子を宥める瞳は困惑に満ちていた。はあ、とつい大きなため息をつくと、炭治郎は肩を跳ねさせた。
「す、すみません……俺、何を、」
「肝が冷えた。良かった、炭治郎…」
「ひえっ……!?」
 禰豆子ごと炭治郎を抱きしめると情けない悲鳴が上がったが気にしていられなかった。一瞬だけ、このまま炭治郎が眠ったまま起きないのかと思った。義勇が隣にいながら何もできず失ってしまうかと思った。
 こうやって腕の中に閉じ込めておかないと安心できそうになかった。
「……あ、」
 妹と義勇に抱擁された炭治郎はぱちぱちと何度か赫灼の瞳を瞬かせていたものの、ぽろり、と涙をこぼし始めた。
「あれ、どうしちゃったんだろ、おかしいな、」
「う〜…」
「ぅ、…あり、がと…禰豆子…」
 立て続けに起こった出来事に緊張していた気持ちが緩んだのだろう。今度は逆に妹から頭を撫でられて自身の涙に驚愕していた。義勇は少しでも落ち着くようにと炭治郎の背中を摩った。
「……大丈夫だ。何があっても、俺はお前たちを守る」
「とみおかさん……」
 義勇は誓う。例えその為に自分の身がどうなろうと構わなかった。





 次の晩、やっと事態は動いた。
 山中を捜索していた二人は同時に顔を見合わせた。どちらともなく頷いて駆け出す。炭治郎の鼻も義勇の勘も、鬼の居場所を告げていた。
「ぐう…っ!」
 鬼は一人の男性を喰らっていた。炭治郎が顔を顰める。子ども程鼻が利かない義勇ですらきつい血の匂いが広がっていて、手遅れだったのが知れた。
「なんで…人の匂いはしなかったのに…!」
「奴の血鬼術なんだろう。……来るぞ、」
「ヒヘヘヘヘ!人間!鬼狩りか!まとめて俺が食ってやるぞ!」
「……下衆が」
 義勇は向かってきた鬼に陸ノ型、ねじれ渦を繰り出す。しかし首を取った感触はない。炭治郎が咄嗟に肆ノ型、打ち潮で追撃をかけるがそれでも鬼は生きていた。
「当たらねえ!そんなモン、当たらねえンだよォォ!!」
「何なんだアイツは…!」
「落ち着け、奴は恐らく空間を操っている。だが必ず隙はある筈だ。俺がお前に合わせる、好きに動け」
「は、はいっ!」
 そこからはひたすらに技の応酬だった。流流舞い、水車、水面斬り、滝壺。僅かな予備動作から炭治郎の動きを見極め、互いに邪魔をしてしまわないよう立ち回る。まだ未熟な部分はあれど、炭治郎の繰り出す技に義勇は確かな高揚感を覚えた。
「ックソ!」
「!」
 このままではいずれ殺されると悟ったのか、鬼は隙を見て一目散に逃げ出そうとした。素早く察した義勇が後を追う。
「冨岡さん!」
 出遅れた炭治郎の叫びが背後から聞こえたが、義勇は気持ちが急いて先に向かう。
 逃げ惑う無防備な背中に義勇は漆ノ型、雫波紋突きを繰り出す。ギャッと耳障りな悲鳴をもらして倒れた鬼の頚に刃の切っ先を押し当て、義勇は湧き上がる怒りを声に乗せた。
「炭治郎に何をした」
「だッ、誰のことだ…!」
「先程まで隣にいた子どものことだ。知らないとは言わせんぞ」
 じゃり、と肩を踏み躙るが鬼はただ首を横に振っている。
「し、知らない知らない知らない!!!そんな人間俺は、あァアァ!!!」
「言え」
「だから知らッギャアアァ!!」
 何も答えない鬼に痺れを切らし、義勇はその頚を撥ねた。口を利く必要などなかったなと思う。
 塵になった鬼。辺りには血鬼術が解けた所為か帯や風呂敷、簪などが散らばっていた。そして、日輪刀も。
 やはり、間に合わなかった。せめて持ち帰ってやらなければとそれらを拾い集める。優しいあの子どもは悲しむのだろう。
 結局どのような血鬼術なのか詳細は掴めないままだった。空間を操ることだけしか分からず、それがどのように作用して炭治郎を怯えさせたのか。義勇としては暴いておきたかったがあれ以上鬼を生かしておくのも虫酸が走った。だからもう、これで良かったのだと自身に言い聞かせる。
 遺品を抱えて来た道を戻る。ふと、嫌な予感に胸がざわついた。ゆっくりと歩いていた義勇の足は次第に地を蹴っていた。
 呼吸が早くなる。炭治郎と別れた場所は何処だと見回し、暗闇の中に影を見つけた。
 ──そこには妹が入っている箱と。
「禰豆子ッ!!」
「!!」
 義勇が駆け寄ると、禰豆子はぼろぼろと涙を流して羽織をしっかりと握りしめてきた。
「ううーっ、うう〜〜…!」
「どうした、怪我はないのか」
 鬼である妹の怪我の心配はない筈なのに、つい声をかけてしまう。禰豆子がふるふると首を振ったことで漸く安堵の息をこぼした。刹那、義勇の背中に冷たい汗が流れた。
『俺は妹と…禰豆子と、ずっと一緒にいます』
 いつだったか、炭治郎はそう言って慈しむ目で箱を撫でていた。
『……でも、本当に危ないときは逃げてほしいんです。……本人は嫌だって怒るんですけどね』
 困った顔でそんなことを宣う炭治郎。妹の怒りは尤もだろう。義勇だって今の発言には眉を顰めた。心臓はギリギリと嫌な音を立てている。鬼殺隊はいつだって死と隣り合わせだというのに、仮定の話でも炭治郎の口からそんなことを聞きたくなかった。そう思う自身にも嫌気がさす。柱は下の階級の者たちを守らねばならない。炭治郎一人に肩入れしてしまう程の個人的な感情を抱くべきではないのに。
 ──やはり自分は柱であるべきではないと実感してしまうのだ。
 結局、喉元まで出かかった言葉が空気に乗ることはなかった。
 だがあのとき、義勇が炭治郎を咎めていれば現状は変わったのだろうか。
「…っ禰豆子、炭治郎は……お前の兄は、どうした……?」
「むむーっ!!」
 禰豆子は桃色の瞳が溶けてしまいそうな程に大粒の涙を浮かべながらも懸命に義勇へ何かを訴える。少女が指をさすのは箱のある位置。
 理解したくなくとも、義勇の脳はその考えを導き出してしまう。
「……ここで……っいなくなった、のか……?」
「む……っ、」
 こくり、と。頷いた禰豆子に、義勇は愕然とする。鬼は義勇が斬った。空間を操る血鬼術ならその時点で解かれる筈だ。現に村人や隊士たちの遺品は回収している。
 義勇の知らないところで炭治郎の身に何かが起こったのだ。あれだけ目を離さないと決めていたのに。
「炭治郎!何処だ!?炭治郎!!」
「ムーッ!!」
 これ以上、禰豆子にまで何かあっては堪らないと柔らかく小さな手を力強く握る。
 どうすればいい。義勇の表情に焦りの色が浮かぶ。突然此処で消えてしまったのであれば、闇雲に探し回るのは得策とはいえないだろう。しかしこのままじっとしているなんてできそうになかった。それは禰豆子も同じで、フゥフゥと息を荒らげて今にも走り出してしまいそうだった。それをしないのは、おそらく義勇が手を握っているからだった。まるで判断を仰ぐようにちらりと見上げてくる視線がそれを証明していた。

 ──くすくす、くすくす。
 突如辺りに響き渡る少女のような声がした。義勇たちはびくりと身を強ばらせる。それは生きている人間のものとは思えない程に冷たく、知らずのうちに義勇は肌を粟立たせていた。ぞわりとする寒気が止まらない。
 それが異常なのだと、義勇の本能が告げていた。
「ムーッ!!」
「禰豆子…?……ッ!?」
 禰豆子の視線の先を追って、絶句した。そこにはぐったりとして顔色をなくした炭治郎が身体を横たえていたのだ。
 慌てて駆け寄ろうとした二人だったが謎の力によるものなのか、その場に固まって立ち尽くしてしまう。焦燥に駆られる義勇の意思とは反対に指の一本すら動かせない。
「な、んだ、これは…!?」
「むむーっ」
「……おにーさんたち、このおにいちゃんをつれもどしにきたの?」
「!?」
 気配もなく現れた影に、義勇は素早く日輪刀へ手をかけようとした。しかし、やはり身体は動けないままで内心舌を打つ。
 この山には鬼が二体いたのか。これは血鬼術なのだろうか。疑問はつきないものの、今最も優先されるべき事項は炭治郎の無事を確認すること。義勇は必死に炭治郎へ呼びかけた。
 今できるのはたったこれだけだった。
「炭治郎!起きろ!炭治郎っ!!」
「う゛ーっ!!」
「うふふ。だぁめ。これはもう、わたしのものだもん」
「ぐあ゛あ゛う゛!!」
「そうだ、炭治郎は禰豆子の兄だ。巫山戯たことを抜かすな」
 得体の知れない少女の姿をしたソレは、一体何がおかしいのか。耳障りな声でくすくすと笑うばかりであった。それに構わず、義勇と禰豆子は炭治郎に起きてくれと祈りながら懸命に叫び続ける。
 ──炭治郎の指先が、かすかに震えた。



  ◇  ◇  ◇



 蹲って泣いてる姿が弟たちと重なった。だからつい、声をかけてしまったのだ。
 けれど炭治郎はいつまでも此処にいることはできない。妹を人間に戻す使命があるし、友人と甘味処に行く約束もある。後は、兄弟子に伝えていない想いだって。
 次から次へと溢れてくるやり残した未練の数々。だから立ち上がる。その子は未だ泣き続けているけれど、炭治郎には救えない。それが分かってしまった。
 ──……!……!!
 遠くから、声が聞こえる。炭治郎が命より大切にしている存在と、大好きな尊敬する人の声だ。
「すまない。俺は君の兄にはなれないんだ」
「………〜〜っどうして!?そとのせかいにはおにがいて、いもうとだっておになんでしょ!?あのおとこはおにいちゃんをつらいみちにひきこんだ!ふこうばかりじゃない!!」
「人の幸福を勝手に決めるな」
 気づけば己の右手には日輪刀が握られていた。抜かないままのそれを少女だったモノに向け、炭治郎は怒りをぶつける。大切な人たちを侮辱するような言葉だけは何よりも許せなかった。
 確かに妹は鬼になった。けれど彼女は凄まじい精神力で理性を保っている。自らの意思で、炭治郎について来てくれている。その努力を踏みにじるように嘲笑う声色に怒りを覚えた。
 冨岡のことだってそうだ。炭治郎は人より鼻が利く。あの人の感情は分かりづらいが、それでも炭治郎は知っていた。炭治郎が鬼殺の道に進んだことをあの人が一番気に病んでいることを。いくら炭治郎が感謝を伝えても、心の奥には響いていないことを。
 ──あんなに優しい人を責めるなんて天地がひっくり返っても有り得ない。
 炭治郎は不幸ばかりの人生じゃない。辛いことがあっても、その分楽しいことだっていくらでもある。だから。
「俺は何がなんでも此処を出て行く」
「……ルな、ふざケルなフざけるナ!!むリにきマっテる!!ワたしニはむかッたやつはミんなしンダもノ!!」
「死なない。禰豆子と、冨岡さんが待ってるから」
「うルサいウるさイうるサいうるサイ!!!」
 半狂乱で喚く少女だったモノを無視する。ソレはいつしか黒い靄に成り果てていた。そのことを哀れには思うも、同情はしなかった。
 いつかと同じように、刀を首に押し当てる。不思議と恐怖はなかった。
 刹那、視界がぱちぱちと弾ける。炭治郎は真っ白な光に包まれた。



  ◇  ◇  ◇



 歯を食いしばって早く、早く動けと唱えていると、弾かれたように足が動き出した。禰豆子も同様で、二人は急いで炭治郎に駆け寄る。近寄れば炭治郎の呼吸はしっかりしていたのがすぐに分かって、安堵に泣きそうになる。
 義勇は日輪刀を握りしめ、そちらを向いた。けれど。
「がァ、アア、アアアアッ」
 ソレは獣のような唸り声をあげ、黒い靄となり消えようとしていた。
「………ねずこ、とみおかさん、おれ、かえって、きまし、た………」
「ああ……おかえり、炭治郎」
 子どもの掠れ声に、義勇の意識はすぐさまソレから外れた。
 ふにゃり、と相好を崩してゆっくりと起き上がる身体を支える。なんとなく、全てが終わったのだと悟った。
「……帰ろう」
 義勇の提案に炭治郎から異論は上がらなかった。炭治郎を背負い、禰豆子の手を握り帰路を辿る。夜が明ける前に宿に辿り着き、禰豆子は安心したように箱に戻って眠りについた。
 炭治郎は静かに語った。夢の中であったこと、アレは人でも鬼でもなかったこと。
 話が終わると炭治郎は義勇に寄りかかるようにして眠りについてしまった。きっと、心が限界を迎えたのだろう。
 起こしてしまわぬよう、そっと抱き上げて布団に寝かせる。穏やかな表情ですうすうと規則正しい寝息をたてる炭治郎に、義勇は心の底から安堵した。瞼にかかった前髪をするりと退けてやる。すると炭治郎はかすかに口元を緩ませた。無意識であろうその仕草に心の臓が早鐘を打つ。
 義勇の心はもう決まってしまった。何ものにも代え難い存在ができてしまった。きっとこれから先、目の前で炭治郎に危機が迫れば義勇は何もかもを放り出してこの子どもの元へ向かってしまうのだろう。それは鬼殺隊の柱としては褒められたことではない。もし他の柱にこんな考えが知られてしまえば糾弾は免れない。
 それでも、義勇は炭治郎を必ず守るのだともう決心してしまった。
 人だろうが鬼だろうが、それ以外の存在であろうが、炭治郎は誰にも渡さない。
「……厄介な男に捕まったな」
 その呟きは誰の耳にも届かないまま、静寂の中に呑まれていった。



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