機が熟すのを待っている


※妖怪パロ、お狐様×たぬき



 ──私たちの世界はね、お舘様と、九人の柱の方たちが守ってくれているのよ。

『はしら?』
 炭治郎はその言葉を初めて耳にした。お舘様とは、このあやかしの世界を守り導いてくださる方だとは生まれたときから皆が知っていることだ。
 しかし柱とは、炭治郎はまだ聞いたことがなかった。赫灼のまるい瞳を瞬かせて母に話の続きをねだる。
『どんなかたたちなの?』
『ごめんね。詳しくは母さんも知らないの。でも、一人だけ存じ上げているわ』
『ほんとう?』
『その方はね…』

「……水柱様……」
 炭治郎はたぬきのあやかしである。化けることを得意とし、本来はころころとした毛のかたまりのような姿なのを、今は人間の子どもの姿へと変えている。とはいえそれも完璧とはいかず、赤い髪には丸い耳が生えたままであるし、尻にはふわふわの毛玉のようなしっぽが残っている。耳やしっぽを消すのは技術と力がいるのだ。幼い炭治郎には未だ難しいことであった。
 そんな炭治郎は掃除が趣味であることを存分に発揮し、床はピカピカと艶が出る程に磨きあげ、埃のひと欠片も見当たらないまでに綺麗にした道場の真ん中で瞑想していたのだった。
 今この屋敷には炭治郎ただ一人しかいない。管理を任されているのが炭治郎だけだからだ。
 屋敷の主はこの辺り一帯をお守りして下さっている水柱様のものだ。しかし大人たちが言うには三十年や四十年に一度だけ、ふらりと立ち寄るくらいなのだという。水柱様は大変お忙しい方で、何日も同じ場所に滞在することはないのだとか。あやかしにとって数十年なんてあっという間だよ、とからからと笑う大人たちを前に炭治郎は愕然とした。
 炭治郎の両親は水柱様の話を何度も何度も子どもたちに聞かせてみせた。その方はなんでも両親の命の恩人らしい。誤って人間界に迷い込んだ際に助けてくれたのだという。
 成長した上の妹と弟は流石に飽きてしまったのか、また話してるね、なんて笑っているが、長男であるが故に一番耳にした回数が多いはずの炭治郎だけはいつも目を輝かせて耳を傾けていた。
 話でしか知らない水柱様への尊敬と好奇心は溢れるばかりであった。
 そして最近、この屋敷の管理を任される機会に恵まれた。それがどれ程嬉しかったか。炭治郎は近々逢えるものだとばかりに浮かれて大人たちに問うたのだ。そして返ってきたのが滅多に訪れないという事実。炭治郎は密かに肩を落とした。
 まだ十年と少ししか生きていない炭治郎にとって、三十年など気が遠くなりそうな程に長い年月に思えたのだ。

 道場での瞑想を終えた炭治郎は昼餉の支度をする為に立ち上がった。が、いつもより長く座っていたのか足が痺れており、思わずその場に立ち尽くしてしまう。
(ぐおおお…!!俺は神聖な場でなんてことを!!)
 プルプルと震えながら痺れがとれるのをただ待つ。誰にも見られていないと知りながらも羞恥心が炭治郎を襲った。暫くじっとしていると、ようやっと動けるようになる。ふう、とひと息ついて一歩踏み出した刹那、鋭い気配が肌を刺した。それは澄んだ水のように透明で、自慢のよく利く鼻は一切匂いを嗅ぎ取れなかった。
「っ誰ですか!?」
 意を決して振り返る。炭治郎はこの屋敷を任された身として侵入者を見過ごす訳にはいかなかった。
 振り向いた先には見たことのない男が立っていた。狐の面を被っていて顔は分からない。藍色の長髪を乱雑に束ねて後ろに流していた。そして、頭には縦長の耳と、九本の尾が揺らめいている。覚えのある姿に、炭治郎はハッと息を呑んだ。
「水柱、様……?」
 何度も何度も両親から聞いたその特徴にぴったり当て嵌る姿、そして凛としていて、畏怖すらしてしまいそうなただならぬ気配。炭治郎は確信を持った声で呟くように尋ねた。
「……ああ」
 彼はこくりと頷いて静かに答えた。憧れの存在を前にして、炭治郎は圧倒される。自分はこんな人に近づきたいと願っていたのかと、今更浅ましい考えを恥じた。
「……っ、申し訳ございません…!こんな姿で、今すぐにもてなしの準備を…!」
「構わない」
「いえ、そんな!」
「ちょっと義勇、先に行かないでよ〜」
「せっかちな奴だな」
「っひぇ?」
 彼と炭治郎しかいなかった筈の空間に、突如男女二人の声が混じる。そのことに心底驚いて口からは情けない悲鳴がもれた。
 声のした方を見遣ると、これまた二人とも狐の面を頭につけた、黒髪の可愛らしい女性と宍色の髪で口端から頬にかけて傷のある青年が、水柱様へ呆れるような視線を向けていた。
 次から次に起こる事態に炭治郎の頭は爆発寸前だ。目を回していると、そんな炭治郎に気づいた女性が身を屈めて頭を撫でてくれた。
「ごめんね、いきなりで吃驚させちゃったよね。私は真菰、こっちは錆兎っていうの。先代水柱の傍付きをしてるんだ」
「先代の、水柱様…ですか?」
 そうだよ、と朗らかに笑う真菰の姿にほっとする。彼女のふわふわとした喋りがいくらか炭治郎の心を安らげてくれたのだった。
「現水柱とは旧知の仲で……まあ、幼馴染みみたいなものかな。最近この屋敷を気にしてるみたいだったからついてきちゃった」
「真菰」
「はーい」
 水柱様が咎めるように名を呼んだ。真菰はぺろりと舌を出して悪戯をした子どもみたいに無邪気に返事をする。
 しかし炭治郎にとっては聞き捨てならないことを言っていた。この屋敷を気にしている、と。気にしているのが誰のことを指すのか、分からない訳ではなかった。
「あの、水柱様は屋敷の様子が分かるんですか?」
「そうだ。何年もこれ程までに丁寧に世話をされた覚えがなかったから来てみれば…まさかたぬきの子どもだったとはな」
 今度は錆兎がわしゃわしゃと炭治郎の頭を撫でる。長男である炭治郎はこんなにも構われた経験が少なく、まるで姉兄がいるみたいで胸がいっぱいになった。むずむずする気持ちを抑えながら首を振る。
「ありがとうございます!でも、俺なんてまだまだで……水柱様がいらっしゃるのも気づけずもてなせてなくて……」
「急に来た俺たちが悪いんだ。気にするな」
「そうそう。普通は文のひとつでも出すものなんだよ」
「錆兎様…真菰様…」
「あっ!やめてやめて!私たちに様付けなんて仰々しい扱いは!」
「俺たちもお前と同じあやかしだからな」
「そうなん、ですか…!?」
 聞けば柱も元はあやかしだという。三人ともきつねのあやかしで、先代の水柱様の元で修行していた身とのこと。流されるままに二人のことを名前で呼ぶことになり、炭治郎はおそるおそる口に出した。
「さ、錆兎、真菰……」
「うんうん!ところで君の名前まだ聞いてなかったね」
「そうでした!すみません、自己紹介が遅れて。炭治郎といいます、よろしくお願いします!」
「炭治郎か」
「……おい、」
 そこで漸く、今まで口を挟まなかった水柱様が声をかけてくる。炭治郎は背筋をピンと伸ばし、緊張した面持ちでそちらを向いた。
「……炭治郎」
「は、はい!」
「俺は、水柱と呼ばれるのはあまり好きではない」
「はい……?」
「義勇だ」
「?」
「まどろっこしい。男ならはっきり言え」
「義勇も名前で呼んでほしいんだって」
 真菰にこそりと耳打ちされ、炭治郎はその場で飛び跳ねた。あの水柱様を名前で呼ぶなど。視線をうろうろと彷徨わせるが、水柱様はじっとこちらを見て名前を呼ぶのを待っているように思える。錆兎と真菰と目を合わせると、二人は目尻を下げて頷いた。炭治郎はこくりと唾を嚥下して、そろそろと口を動かす。
「義勇、様…?」
「……」
「もうちょっと気安く、だって」
「えっ!?ぎ、義勇、さん!」
 これ以上は譲歩できない。その気持ちが伝わったのか、義勇は少し不満げにしながらも納得するように相槌を打ってくれたのでこれで良かったのだと胸を撫で下ろす。どきどきと高鳴る胸を押さえて、炭治郎は水柱様──義勇の姿を仰ぎ見る。憧れの存在は存外、親しみ易いお人であった。
「あの…俺、義勇さんにお会いできてとても嬉しいです。ずっと、憧れていたので…!」
 両親の命の恩人だと聞いています。二人に代わってお礼を言わせていただきます。ありがとうございました。
 深々と下げた頭の上に、ふわりと手のひらの感触が乗る。その手はぎこちなくも炭治郎の頭を数度撫で、離れていった。
「義勇…羨ましかったんだね…」
「やめてやれ、真菰」
 顔を上げれば、によによと口元を緩ませる二人がいた。言っている意味が分からず首を傾げたが、義勇は気にしなくていいとそっぽを向いた。そのとき髪と面の間からちらりと見えた耳は赤くなっていた、気がした。





 その後、炭治郎は義勇たちに時間を頂けるかを確認してから厨に引っ込んだ。今からでも夕餉の準備をして食べて行ってもらおうと考えたのだ。真菰も手伝ってくれると言うので、炭治郎は厚意に甘えることにする。話せば話す程に意気投合した二人はきゃいきゃいとお喋りに興じながら準備を進めていたのだが。
 ふと、真菰は手を止めた。あのね、と真剣味を帯びた声色に炭治郎も知らずのうちに息を詰めていた。
「さっき義勇が言ってたでしょ、水柱と呼ばれるのが好きじゃない、って」
「…うん」
「あれね、炭治郎に名前で呼んでほしかったのもあるんだけど……義勇ったら自分が水柱に拝命されたこと、義勇自身が一番認めていないの」
「え……?どういう、」
 真菰は眉尻を下げて、そっと明かしてくれた。初めは錆兎が水柱になる筈だったこと、けれど怪我を負ってしまい自ら辞退したこと、そこで義勇が任されるようになったこと。義勇だって実力は申し分なく、お舘様が錆兎の代わりに任命したなんてことは絶対にない。しかし義勇本人が頑なに認めず、ずっと気に病んでいるのだという。
 炭治郎は話を聞いて、胸が締め付けられるようだった。義勇が炭治郎の両親を救ったことは事実であり変わることはない。なのに本人は自身を柱に相応しくないと突っぱねてしまっている。炭治郎が他の大人たちから聞いた話を合わせても義勇はあやかしたちから信頼され、じゅうぶん水柱としての役割を果たしていると思えるのに。
「そんな……」
「ごめんね…突然こんなこと話しちゃって……。義勇が誰かに興味を持つなんてこと、滅多になかったから……もしかしたら、炭治郎なら…義勇を変えてくれるんじゃないかなって期待しちゃった」
 真菰はそう言って力なく笑った。
 もしそうであれば嬉しい。けれど今日初めて会ったばかりの炭治郎に、幼馴染みの二人や先代の水柱様が説得しても変えられなかった義勇を変節させるなんてこと、できるのだろうか。
 しかしほんのわずかでも力になれるのであれば、やれることはやりたいと思った。尊敬する人にもっと悠々と過ごしてほしいと考えるのは傲慢だろうか。それでも、せめてみんなが義勇に信頼を寄せていることだけは知っていてもらいたかった。
「真菰!俺、話してみるよ!」
「本当?ありがとう」
 そうと決まれば。炭治郎はより一層気合いを入れ、包丁を握り直した。むん、と張り切る炭治郎を見て真菰は微笑み、もう一度礼を言った。
 最初とは打って変わって厨は静寂に包まれたが、その沈黙は決して気まずいものではなかった。





「お待たせしました!」
 障子を開け放つと、義勇と錆兎が振り向いた。が、それを見た瞬間炭治郎はピタリと固まってしまった。後をついて来ていた真菰が不思議に思いながら室内を見て、察する。
「……ああ、義勇やっとお面外したんだ」
「はわわわわ………!!」
 炭治郎はわなわなと身体を震わせていたく感動した。しっぽがふるりふるりと揺れているが両手が塞がっていて隠すことができない。
 初めて目にする義勇の見目は大変麗しく、炭治郎にはきらきらと輝いて見えた。深い青が炭治郎を視界に入れていると認識するだけで頬が色づく。けれど目を離せなくて、じっと見つめてしまう。完全に見惚れてしまっていた。
「……炭治郎、いつまでもそこに突っ立っていないで入れ」
 見かねた錆兎から声をかけられハッと我に返る。見つめられすぎて義勇は引いていないだろうか。炭治郎はそっと窺ってみたが、何故だか満足げな表情をしているように見えた。とにかく不快に思わなかったのであれば僥倖だと安堵する。
 三人分の配膳を終えた炭治郎はその場を後にしようと静かに立ち去ろうとした。それを炭治郎の羽織を引いて阻んだのは、義勇であった。
「あ、の、…義勇さん…?」
「……ここで食べないのか?」
「ええっ!?で、でも…お邪魔でしょう?」
「邪魔じゃない」
「でも…でも…」
 遠慮しておろおろと立ち尽くす炭治郎の背を押してくれたのはやはり、真菰と錆兎の二人であった。
「も〜炭治郎ってばまだそんな態度とって。折角仲良くなれたと思ってたのに寂しいよ」
「何?さては支度の間に話したな?炭治郎、俺もお前のことが知りたい。……義勇も同じ思いだ」
 一瞬だけ義勇が鋭い視線を錆兎に向けていた気がする。しかしほんの少しだった所為でよく分からなかった。
 炭治郎は腹を括り、ではお邪魔しますと告げると三人は嬉しそうに笑ってくれた。
 自身の分を取りに戻る為一度退出する。てくてくと廊下を歩きながらやりとりを思い出して、ホワホワとあたたかい気持ちになる。くふくふと口を覆いながら密かに笑みをこぼしていると、後ろから足音がした。
 振り返ればなんと義勇が炭治郎を追いかけてきていた。何事かと歩みを止める。
「義勇さん?何か足りない物がございましたか?」
「いや……お前と少し、話したくなった」
「!」
 炭治郎はパッと顔に花を咲かせた。そんな風に話しかけてもらえるなんて思ってもみなくて、えっとえっとと懸命に話題を探す。
「あの、義勇さんはどうして突然いらっしゃったんですか?大人たちからは、何もなければ屋敷を訪れるのは何十年かに一度だと聞きました」
「………お前の声が、心地よかった」
「声…ですか?」
「遠くからでも心優しい者だと感じ取れた。どんな奴なのか気になって、逢いに来たんだ」
「義勇さん…」
「俺が想像していたよりも綺麗な心を持つお前に驚いた。俺も、炭治郎と逢えて良かったと思う」
「そ、そんな…あ、えっと…ありがとう、ございます」
 今まで錆兎や真菰が代弁してくれることが多く、口数の少ない男だと思っていたのに炭治郎のことを怒涛の勢いで褒めてくれるものだから羞恥で口が上手くまわらない。内心で身悶えながらなんとか言葉を紡ぐ。
「…明日までの短い間ですけど、その間にたくさんお話ししたい、です。いいでしょうか…?」
「……炭治郎」
「?」
「俺は暫く此処に滞在するつもりだ。だから時間などたっぷりある」
「えっ………ええーっ!?」
 義勇の宣言にあんぐりと口を開けた。大人たちから聞いていた水柱様の話とは、何もかもが違うではないか。勿論喜ばしいことではあるが、心の準備が追いつかない。
「駄目だろうか」
「そんな!元々は義勇さんの屋敷なのですから俺に拒否する権利はありません!ただ…」
「ただ?」
「し、幸せすぎて、こわい、です……」
 消え入りそうな声で呟いて、きゅう、と鳴きながらたぬきに戻ってしまった炭治郎を義勇がどんな目で見ていたのか。丸まっていた炭治郎には分からなかった。
 その後抱き上げてもらい、夕餉と共に運ばせてしまったのはおそらくこの先もずっと後悔していくのだろうと思う。





 義勇が屋敷に滞在してから二週間が経っていた。最初はどうなることやらとハラハラしていたものだが、数日ですっかり日常に落ち着いてしまっていた。自分の豪胆さに驚愕しつつも、義勇と過ごす日々は楽しいものであった。
 残念ながら錆兎と真菰はあれから二日程で帰ってしまったけれども、また来ると約束してくれたので笑顔で見送りをした。そのときにヒソヒソと二人が義勇に何か忠告をしていたようだったが炭治郎は上手く聞き取れなくて、幼馴染みっていいなぁ、なんて少し羨ましく思ったりした。

 この二週間ですっかり炭治郎のお気に入りになったのは義勇の尾であった。滑らかでいて頬を擦り付けるとふわふわのそれは延々と埋もれていられる程。一度気持ちよくてそのまま寝入ってしまったときには無礼すぎて起きた瞬間涙目で土下座をしたが、義勇は何も気にしていなかった。懐が深すぎて益々義勇が好きになった。
 今もまた、たぬきの姿に戻った炭治郎はくうくうと喉を鳴らしながら九本の尾の中に埋まり込む。義勇本人はのんびりと湯呑みを傾けていた。
 そんな折、カアァ、と鴉の声が室内に響いた。炭治郎はぶわりと毛を逆立たせてころりと床に転がり落ちてしまう。そのまま端まで転がり続けるところだったのを義勇が慌てて止めてくれた。
「すまない。驚かせたか」
「いえ、ありがとうございます。この鴉は…?」
「オ舘様カラノ…言伝ジャ…」
 ヨボヨボとふらつく足取りで義勇に近付く鴉を、炭治郎は心配しながら見守った。どうやらかなりの年配のようだ。
 義勇は鴉の足に結ばれた文を取り開いた。サッと目を通すと、了承したと告げる。すぐさま飛んで行こうとする鴉を引き止めたのは炭治郎だった。
「あの!少し休まれてからじゃ駄目でしょうか」
「…そうだな。続けて飛ぶのは疲れるだろう」
 義勇も頷くと、鴉は休憩していくことにしたのかその場に座り込んだ。炭治郎は人間の姿に化け、鴉に出す差し入れを考えながら廊下を急いだ。

「炭治郎、俺は少し出る」
「は…、」
 鴉を見送り、また二人になったところで義勇は口を開いた。先程のお舘様からの文とは、義勇の担当する区域で助けを求める声があったことを報せるものであったらしい。
 ──きっと、いつかの両親のときのように。
「そうですか……気をつけていってらっしゃいませ」
「……あまり気を落とすな。直ぐに戻るから」
 くしゃりと髪をかき混ぜられた。そんなに顔に出ていただろうか。元々義勇が滞在していること自体が珍しいのに、いつの間にこれ以上を望むようになってしまったのだろう。炭治郎は自省して俯く。戻る、と言ってくれているのになんて我儘なんだ。長男なのに甘えすぎではないか。
「炭治郎」
「……はい…?」
「いい子で待っていてくれ」
「っ!?」
 声をかけられのろのろと顔を上げた炭治郎が見たのは、かすかに微笑む義勇の表情。息を呑む炭治郎を置いて、そのまま義勇は行ってしまった。
 残された炭治郎はへなりと崩れ落ちる。間違いなく今己の顔は林檎のように真っ赤に染まっているだろう。
「うう………かっこいい………」
 あんな顔を見せられて、落ちない筈がなかった。炭治郎はこの気持ちが恋慕なるものだと、自覚してしまったのだった。





 しかし初めての恋に浮かれた気持ちでいれたのは義勇が帰ってくるまでの数日間だけであった。
 宣言通り直ぐに戻ってきてくれた義勇は出迎えた炭治郎を無言で抱きしめた。想い人の胸の中に誘われドキドキしていた炭治郎だったが、すぐに様子がおかしいことに気がつく。くん、と嗅ぐと、義勇からは重く苦しい匂いがした。
 真菰の言葉が脳裏を過ぎる。もしかして水柱のお役目のことが関係しているのだろうか。
 だが今の義勇に炭治郎がかけられる言葉が見つからない。果たして少し聞きかじっただけの炭治郎が口を挟んでもいい問題なのか。
 結局その日は口を噤んでしまい、殆ど会話らしい会話もないまま就寝した。無力な自分が悔しくて、布団の中で少しだけ泣いてしまった。
 翌朝。義勇は帰ってきたときと変わらず冷たい目をしていた。あまり表情の変わらない人ではあるものの、全くの無表情という訳ではないことを炭治郎は既に知っている。なのに今の義勇は感情が削ぎ落とされたかのように無表情だった。
「……義勇さん」
 まるで心が遠くに行ってしまったみたいで不安になり、名前を呼んだ。義勇はわずかに反応を示してこちらを見てくれたが、その瞳は炭治郎を映してはいなかった。
 ぽふん。たぬきの姿に戻り、とてとてと傍に寄る。しかし膝に乗ることも、尾に潜ることもできずに項垂れた。どこまで彼の心に踏み込んでも許されるのか分からない。分からないから触れられない。もう、炭治郎には為す術がなかった。
『炭治郎なら…義勇を変えてくれるんじゃないかなって期待しちゃった』
(ごめん、真菰……折角期待してくれたけど、俺にはそんな力なかったよ)
 暫くはそっとしておいた方がいいのかもしれない。そう考え、炭治郎は踵を返した。しかし。
(……あ、)
 まだあのことを伝えていなかったのを思い出した。
「…っ義勇さん!」
「……?」
「あの…、義勇さんがどう思っていようと、俺も、俺の両親も、この辺りに住んでるみんなも!義勇さんが大好きで尊敬しています!」
「………、」
「貴方が水柱で良かったと、心から思っています……!!」
 心を閉ざしてしまっている彼に届くよう、しっかりと大声で宣言した。少しでも響いてくれますようにと願いながら障子を開ける。だが炭治郎が廊下に足を踏み出すことはなかった。
 たぬきの姿だった所為で、軽く抱き上げられてしまったからだ。
「炭治郎………炭治郎…………」
 己の名を呼ぶ義勇の声は泣いていた。涙は出ていなかったけれども、炭治郎にはそう聞こえたのだ。
 ちいさな前足で義勇の頬を撫でていると、彼はぽつりぽつりと今回の経緯を語りだした。注意しなければ聞き逃してしまいそうな程に、小さく掠れた声だった。

 義勇が向かったのは東に存在するとある山で、助けを呼んだのは炭治郎と同じたぬきのあやかしだったという。あやかしは父が食料を探しに行ったっきり戻って来ないと涙を溢れさせ義勇に訴えた。すぐさま頼んできた娘と同じ気配を辿って捜索したところ、そう時間は掛からずとも父親は見つかった。足に人間のかけた罠が嵌ったまま、崖から転落した姿で。
「──ッ、」
 義勇は娘に報告した。例えどんな結果だろうが、伝えなければならないからだ。
 娘は半狂乱で泣き喚いた。父親のところへ連れて行ってくれと頼まれたが、悲惨な姿を見せるのは躊躇われて断った。すると娘は義勇を言い募った。もっと早く来てくれれば間に合ったのに、あやかしを守れなければ水柱なんてやめてしまえと。
 騒ぎに気づいた近所のあやかしたちが駆けつけてくれて、義勇は帰された。彼らは義勇を庇ってくれたが、娘は何ひとつ間違ったことを言っていない。義勇の心臓に刺さった棘は深く深く沈んでいく。
「俺は、水柱になるべきではなかった。あのとき断っていれば、錆兎が水柱だったら、先生なら、娘の父親は助かっていたかもしれない」
 炭治郎は絶句した。とても一介のあやかしに口出しできるような問題ではない。義勇の気持ちを思うと、悲しくてぼろぼろと涙がこぼれる。
 それでも、こんな義勇を見て放っておくことなど無理だった。
「…………確かに、義勇さんが水柱ではなかったら、結果は変わっていたかもしれません……」
「っ、」
「……でも、全部“もしも”の話なんです。義勇さんが水柱じゃなくても救うことができなかった可能性だって、あるんです」
「………」
「義勇さんだって元はあやかしだって、真菰が言ってましたよね?いくら水柱に任命されたからって、それでみんなを助ける万能な力が手に入る訳でもないんでしょう?」
「……ああ、」
「だったら、やっぱり結果は分からないじゃないですか。……きっと、その子も頭では分かっていた筈なんです。だけど突然の別れを受け止めることができなかった」
 全部炭治郎の予想でしかない。きっと身勝手なことを言っている。それでも炭治郎は続けた。
「……俺は、義勇さんに水柱であることを否定してほしくないです。俺にとって水柱様は義勇さんで、義勇さんは水柱様だから。……だから、水柱であることに辛くなったら、俺のところに来てください。義勇さん一人で受け止めきれない分の苦しみを、俺も受け止めます」
「……たん、じろう……」
「水柱は一人かもしれませんが、義勇さんは一人じゃありません。錆兎も真菰も、先代の水柱様もいます。あと、俺、も……っなので!」
 義勇の幼馴染みと先代の水柱様の中に自分を入れることに、今更烏滸がましく思った。けれど前言を撤回しようとは思わなかった。
「全部とは言いませんけど、辛いことは溜め込まずにちょっとずつでも吐き出してくれると安心します。少なくとも俺はそうです」
 義勇がわずかでも安らぐ居場所でありたい。そんな祈りを込めて、彼の頬に口付けた。どうかこの思いが伝わってくれますように、と。
「…………ありがとう……炭治郎」
 ふ、と義勇が笑った。それは今まで見たどの笑顔よりもやわらかく、炭治郎を慈しむような目で見つめていた。
 多分その笑顔は義勇の心をほんの少しだけ溶かした瞬間だったのだと、炭治郎は思っている。



  ◇  ◇  ◇



「錆兎、真菰!久しぶり!」
 玄関で一番に二人出迎えたのは、義勇の愛おしい子どもだった。

 思えば炭治郎に惹かれていたのは最初からだった。とある屋敷から届く声は優しくいじらしく、それでいてきらきらとした宝石のようだった。毎日届くそれが、いつしか義勇の楽しみになっていた。
 この声の主に逢いたい。義勇が行動に移したのは早かった。
 そして義勇の予想通り、声の主は心優しい子どもであった。
 本当は少し様子を見るだけで帰るつもりだったのだが、義勇よりも仲良くなっていく錆兎と真菰を見て焦り、暫く滞在することにした。二人には散々まだ子どもだぞ、何も知らないんだよ、と耳にタコができる程告げられた。帰り際まで耳打ちされたときには少々辟易してしまうくらいに。
 というか、何故二人には義勇があの子に惚れていると気づかれたのだろうか。
 その後炭治郎と義勇の二人きりで過ごした穏やかな日々は永遠に続いてほしいと願ってしまうくらいに幸せだった。例え本意ではなくとも、義勇には水柱の任があるというのに。
 後ろめたい気持ちを押し止めていた生活を打ち破ったのはお舘様からの文であった。
 当然義勇は助けを求めるあやかしの元へ急いだ。炭治郎が帰りを待ってくれていると思うと、義勇の心にはふわりとあたたかい気持ちが溢れて頑張ろうと思えた。
 だが、駆けつけた先であやかしを救うことができなかった。
 義勇は後悔した。自分は何をしていたのだろう。炭治郎と過ごして浮かれて、水柱の役目を果たせなかった。あの娘の父親を見殺しにしたも同然と言えるだろう。
 娘の言っていた言葉が頭から離れない。やはり義勇は、水柱なんて大層な役目を貰うべきではなかったのだ。
 帰りついた屋敷で、何も知らない炭治郎がにこにこと愛らしい笑顔で迎えてくれた。今はただ、その笑顔に救われた。真実を知れば、炭治郎は義勇のことを軽蔑するだろう。いずれ全てを明かして此処を出て行くから、せめてそれまでは義勇を優しく包み込んでほしかった。
 絶望に打ちひしがれていた義勇だったが、真実を知っても尚、炭治郎は受け入れてくれた。それどころか、義勇の心を救ってくれたのだ。
 あの子が懸命に義勇に語りかけてくれたから、少しだけ前を向くことができた。これからも精一杯務めを果たそうと、そう思えるようになれた。
 炭治郎は中々に大胆な子どもだった。いや、何も知らない子どもだったからこそ、なのだろうか。一世一代のような告白を受けた義勇は炭治郎を伴侶にしようと決めた。決めてしまった。何がなんでもこの子を手に入れろと本能が告げていたから。
 数日かけて気持ちを整理した義勇は、炭治郎にひとつの提案を持ちかけた。それは知識の少ない子どもを騙すような手であったが、義勇は手段を問わないことにしたのだ。
『炭治郎、俺の傍付きになってくれないか』
 提案自体は何もおかしいことではない。見込んだあやかしを傍付きにするのはどの柱もやっていることだ。ただ、義勇の思惑の問題だけであって。

 錆兎と真菰を出迎え、てきぱきと動く炭治郎は見ているだけで愛らしい。思わずゆるんだ頬を指摘したのは錆兎であった。
「義勇…」
「…分かっている」
 茶と菓子を準備し終えたたぬきの子は、元の姿に戻らないまま義勇の膝の上に腰を落ち着けた。腹に手をまわして抱きしめてやれば、きゃっきゃと喜ぶのが本当に可愛くて癒される。
「あーあ…炭治郎が毒牙にかかっちゃったぁ…」
「傍付きにしたと聞いてはいたが、お前という奴は…」
 二人は呆れ返って頭を抱えているが、義勇は素知らぬ顔で未来の伴侶が入れた茶を啜った。今日も美味い。
 ──傍付きにしたのは、炭治郎を義勇好みの嫁にする為だったのだ。
 炭治郎はそのことを知らない。錆兎と真菰にはすぐに気づかれてしまったようだが、彼らが告げるかどうかは任せることにする。何せ義勇はどうやってでも、この腕の中にいる温もりを手放す気はないのだから。
 あれ程大胆な告白で義勇を落としてくれたのだ。責任はきちんととってもらわねばなるまい。
 炭治郎は困った顔をしながらも、両手を広げて受け入れてくれる。そんな未来を思い浮かべて、義勇は自身の尾をふるりと揺らした。
 ──ああ愛しい子、早く育ってくれないか。



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