あなたの虜


※アイドル×パン屋のアルバイト



 炭治郎が大学入学を機にこのパン屋でアルバイトを始めて一年。常連客は顔見知りになり、客足の少ない時間ならば雑談をする程度の交流を持つようになっていた。奥様方は一人暮らしに役立つ生活の知識を教えてくれるし、子どもたちは弟妹を思い出して微笑ましい。
 そして常連客の中で一人、気になっている人がいた。
 その人はアルバイトを始めたばかりで慣れない業務にあたふたしていた炭治郎に、焦らなくていいと優しい言葉をかけてくれた。露骨に顔には出さずとも鼻が利く為にネガティブな感情ばかりを向けられているのが分かっていた炭治郎にとって、それは救いのようであった。おまけにその一件からだんだんと上手くこなせるようになり、失敗して落ち込む、さらに失敗を繰り返すといった負のループから抜け出せたのだ。
 恐らく住んでいるのは近所なのだろう。ジャージ姿で店を訪れることが多く、けれど容姿端麗なのでそれすらも格好良く見えた。
 意識しているうちに、受け取った会員カードからちらりと目にした冨岡義勇という名をしっかりと記憶してしまっていた。
(冨岡義勇さんっていうのか)
 寡黙な人物であることはすぐに窺えた。それでも炭治郎は必ず一言は声をかけていた。少しでも彼のことを知りたかったから。

 あるときから、彼は店に来なくなった。
 炭治郎は悲しかった。常連客一人が来なくなったことでここまで寂しく思うのかと自分の気持ちに驚いたが、落ち込んでいるわけにもいかない。また当初のようなことをやらかしてしまっても、もうあの人はいないのだから。
 己を鼓舞しながら炭治郎は仕事を続けた。もしかしたら何か事情があって、一時的に来店できないだけかもしれないというわずかな希望に縋りながら。
 その前向きな予想が当たってくれたのか、彼はまた来てくれた。思わずわっと声をあげてしまいそうになり慌てて口を塞ぐ。目の前に他の客がいなくて助かった。
 しかし一つ気になることがあった。大したことではないのかもしれないが、再び来店するようになった彼はいつも眼鏡やサングラスをかけていたりマスクをしていたり、或いは帽子を被っていたりとまるで顔を隠しているように見えた。さらにジャージ姿はとんとお目にかかれなくなり、やけにセンスの良い私服姿へと変貌していた。
 果たして来店しない間にどんな変化があったのか検討もつかないけれど、炭治郎はこっそり残念に思っていた。あの顔の良さでジャージ姿というギャップが良いのだと密かにときめいていたのだから。
 だからといって今の私服が悪いというわけではない。むしろ彼が素顔のままであったら直視できない程、魅力を最大限に引き出していると感じる。ファッションに疎い炭治郎であったが、それだけは断言することができた。
 今日の彼はシンプルな黒縁の眼鏡に小豆色のハイネックを着て、黒のジャケットを羽織っている。下はジーンズがスラリとした足を際立たせていた。
 ほう、と感嘆のため息が溢れ出てしまう。レジに会計に来る客がいないのを良いことにちらちらとその姿を目で追ってしまっている。今日は顔もあまり隠していないのでしっかりと麗しい顔を堪能できる。良い日だなぁなんて本人にはとても聞かせられないことばかり考えてしまった。
「…会計を頼む」
「っは、はい!」
 ぼんやりとしていた所為で、目の前に彼が来ていたことに気づくのが遅れてしまった。近くで見るとより格好良さが増しているように思えてくらくらする。
「……疲れているのか?」
「え?」
 いつもは炭治郎が話しかけて、それに時折相槌を打ってくれる。当たり前だったやり取りが崩れ、動揺につるりと会員カードを滑らせた。まさか彼から話しかけられるとは思わず、しかもそれが炭治郎を気遣うもので。申し訳ないけれど嬉しいと感じずにはいられない。
 見た目もいいのに優しいなんて、非の打ち所がないんじゃないかと炭治郎は真面目に思った。
「少しぼーっとしてただけですので!」
「それならいいんだが……きちんと休めよ」
「〜〜っはい!ありがとうございます冨岡さん!」
 つい名前を呼んでしまった。どうしよう、変に思われたかなと不安になったが、冨岡は微かに口角を上げただけで帰っていった。
「あわわ……」
 その破壊力といったら。へなへなと座り込みそうになるのをカウンターに手をついて耐える。
(なんだあれ…!あの人あんな顔して笑うんだ……)
 心臓を撃ち抜かれる感覚を初めて味わった気がする。顔が熱い。
 竈門炭治郎は十九歳にしてようやく、初恋を自覚したのだった。

 初めての恋心に恥ずかしさを覚えたり、冨岡が来店した日は浮かれたり、その日を振り返って一人布団の中で悶えたり。忙しい大学生生活を送りながら感情はてんてこ舞いであった。親友にはやっと炭治郎にも春が来たんだな、なんて感慨深げに言われ言葉に詰まった。けれど炭治郎にとっては今まで家族と友人がいればそれで満足だったのだから仕方がない。
 はてさてそれで、冨岡との関係が変わったのかと問われれば否。そもそもただのアルバイトと客という、長くても十分程度しか会えない薄っぺらい関係だ。突然ご飯に誘うなんてこともできないし、実行したら引かれるとしか思えない。
 炭治郎はすっかり参っていた。
 そもそも冨岡のことは名前と、ぶどうパンをよく買っていくこと、それから炭治郎よりも年上だということくらいしか知らない。
 楽しいのに胸が苦しい。恋って大変だ、と自身の感情に振り回されていた。

 今日もまた来店した冨岡の姿に頬をゆるめながら、いらっしゃいませと声をかける。おそらく普段よりも三倍は輝きを増しているであろう笑顔を浮かべて言葉を交わす。
「今日はたくさん買われるんですね」
「…差し入れにする」
「わぁ!そうなんですか」
 炭治郎はパン作りに関わってはいないものの、ここでアルバイトをしたいと決めたきっかけがパンがとても美味しくて感動したからだ。
 自分の好きなものを好きな人が気に入ってくれている。しかも知人に薦めたい程。これが存外嬉しいものだった。
 大量のパンを袋に詰めていたから必然的に冨岡もレジ前にいる時間が長く、いつも以上に炭治郎は口軽くなっていた。だからか気になっていたことをつい尋ねてしまったのだ。
「あの、最近はジャージで来店されないんですね?」
「…ああ、」
「あっもちろん!今のも格好良いんですけど…!」
 慌てて訂正を入れる。自然に聞けただろうか。さりげなく冨岡の表情を窺ったときだった。
「此方の方が良いと言われたからな」
 そう答えた彼の甘い微笑みに、炭治郎の心臓は一際大きく跳ねた。
 しかしすぐにその言葉は誰にかけられたのか、そして本来その笑みを向けるべき相手がいるのだということに、ようやく考えが至った。そのあとはどうやって残りの時間の業務をこなしていたのか全く記憶にない。
 気づけばアルバイトを終え帰路を辿っていた。しかし、一人暮らしのアパートへ向かうその一歩一歩は遅い。昼間聞いた彼の言葉が頭から離れなかったからだ。
 彼程の人に恋人がいないはずもなく。何故今までその可能性を考えなかったのだろうかと肩を落とす。
「これって失恋なのかな…」
 初恋とほぼ同時に失恋を経験するなんて。思わず乾いた笑いがもれた。
 彼とどうにかなれるという具体的なイメージがあったわけではない。けれど自覚したばかりの淡い初恋を突如切り裂かれたような感覚に、心はズキズキと痛み続けている。
(もしかして、パンも恋人にあげたりするのかな、)
 彼と好きなものを共有できただけで呑気に笑っていたのだから滑稽なことこの上ない。
 泣くのは耐えた。長男だから。だけど。
(すこしだけ、逃げたい)
 気持ちの整理が上手くいかない。せめて、また笑って彼に話しかけられるようになるまで。
 泣かなかった代わりにちょっとだけ、ぐすりと鼻をすすった。

 勤務時間を変えたいことを話すと、心優しい店長からは大丈夫との返事を貰えた。学生さんは忙しいよねえと励ますように頭を撫でられ、まさか私情故だとは口が裂けても言えなくて、眉を下げながらお礼を告げる。
 いつも同じ時間帯に来ていた彼のことを考えると、炭治郎が店に立つ時間さえ変えれば会わずに済むと思ったのだ。きっと店員が変わったくらいでは何とも思われないだろうが、気がついたときには少しでも炭治郎のことを思い出してくれればいいなぁ、なんて未練がましいことを考えて、すぐに自己嫌悪した。
 これからはこんな願いを消していかなければならないのだ。いつになるのかは分からない。けれどやらねばなるまい。
 炭治郎は店長に頭を下げて、ロッカールームへと足を向けた。

 ところが。
 彼を見かけることのない日々を過ごして一週間が経つ頃、その人は店のドアをくぐった。炭治郎は目を見開く。どうして、と紡いだつもりの言葉は音にならなかった。
「いた……っ!」
「っえ、」
 ずんずんと物凄い気迫で歩み寄ってくる冨岡に、炭治郎はその場でたじろぐしかない。もしも偶然この時間に訪れただけならば、脇目も振らずレジに向かってくる理由が分からない。
「…終わるのは何時だ」
「へ…?」
「バイトの、上がりは何時だ」
「えっ、と…あと一時間、です」
「分かった」
 それだけを確認した冨岡はまたすぐに出て行ってしまった。訳も分からず呆然としていたのは炭治郎だけに限らず、その場にいた常連客も同様で閉じられたドアを見つめている。
「………炭治郎ちゃん、何かしたの?」
「……分かりません……」
 常連の一人である近所の奥様に尋ねられたが、炭治郎はそっと首を横に振ることしかできなかった。

 困惑したままアルバイトを終えて従業員用出入口から一歩踏み出した炭治郎の前に冨岡は現れた。もしやと思っていたが待ち伏せをされていたらしい。しかし疑問は尽きない。何故彼が炭治郎を探していたような素振りを見せるのだろうか。
「場所を変えたい」
「はっ、はい」
 有無を言わさず手を引かれ、冨岡の後ろをついて行くしかない。
 連れてこられたのは小さな喫茶店だった。奥まった席につき、彼が注文したコーヒーと紅茶が目の前に置かれてようやく、冨岡は口を開いた。
「突然連れ出してすまなかった」
「いえ…あの、どうして…?」
「…店にいなくて驚いた…」
「俺が、ですか?」
 ぽかんと呆けた顔で黙って頷いた彼をしげしげと見つめる。思い出してくれたらいいなとは望んでいたもののまさかこうしてわざわざ会ってくれるとは思わなかった。店内以外で会いたいという願いがこんなところで叶うなど完全に想定外だった。
 内心は好きな人を前にして胸が高鳴っている。それを表に出さないよう気をつけながら会話を続けた。
「辞めてしまったのかと思ったが、同僚から違う時間帯に見かけたことを聞いてほっとした」
「はあ、」
「俺なんぞ事情を聞く権利すら持たない、ただの客の一人に過ぎないのは承知している。だがこれだけは知っていてくれ」
 切羽詰まった様子にただただ圧倒される。無口な人だったはずなのに今は信じられない程饒舌だった。
「……俺は、お前のことを好いている。だから突然俺の前から居なくならないで欲しい」
 ヒュッと己が息を呑む音が鮮明に聞こえた。海の底を思い起こさせるような濃紺の瞳から目を逸らせない。喉がカラカラになって、潤したくとも指先が震えてカップが持てなかった。
「もし気を悪くさせたのならばこの話は忘れてくれ。二度とあの店にも通わない」
「ほんとう、ですか。……あの、おれも…あなたのこと……!」
 いつもはよく回る口が上手く動かない。頬に熱が集まっているだろう。テーブルに乗せた手は知らずのうちに拳を作っていた。
 その拳の上に、体温の違う手がそっと重ねられた。
「すき、です。好きなんです…!」
「そう、か」
 返される言葉はそっけなかったけれど、声色は優しく、下げられた目尻が彼の心情をあらわしていると感じた。
「俺…冨岡さんに恋人がいるのかと思って…それが辛くて逃げようとしました」
「! 何故」
「その……服を、」
「服?」
 理由を告げるのが恥ずかしくなって躊躇う。だが逃がさないとでも言うように、重ねられた手に力が込められた。
「あんな嬉しそうに服を褒められたと言われれば、きっと恋人からだろうなって…誰だって思いますよ」
「……そうなのか?」
「……そうじゃないですか?」
 首を傾げられるが、炭治郎にだって正解は分かりえない。彼が初恋なのだから当然その辺りの知識はゼロと言っても差し支えないからだ。少なくとも炭治郎はそう考えたのである。この際だからあれはどういうことだったのかを聞き出すことにした。ここまで来れば開き直りもするというもの。
「じゃああれはどういう意味だったんですか?」
「幼馴染みに言ったんだ。好きな人ができたのだと。それで色々聞かれたことに答えていると、ジャージ姿を見せているのかと驚かれて……」
 呆れられるぞと言われ服を買いに連れ回されたという。それでようやくお墨付きを貰い、店に来たと。つまりは炭治郎に良く見られたかった為らしい。瞬間炭治郎の顔はまたもや赤く色付いた。
「そんな…俺はジャージ姿の冨岡さんも、好きでしたよ…?」
 小首を傾げて本音をもらすと、彼は一瞬固まったあとそっぽを向いてまたそうかと一言だけ呟いた。今度は照れも混じっているようで、なんだか可愛く思ってしまったのだった。

 家まで送ると言ってくれて、まだ離れたくなかった炭治郎はその厚意に甘えることにした。隣を歩く冨岡の存在が未だに夢のようでぽけっと見惚れてしまう。初めての恋人に、自分が思うよりも浮かれているのかもしれない。
「炭治郎」
「はい?……えっ?」
「…と、呼んでもいいだろうか」
「〜〜っもちろん!」
 冨岡に名を呼ばれただけで気分は舞い上がった。
「炭治郎も、義勇と名前で呼んでくれないか」
「! ぎ…ぎゆう、さん、」
 慣れない呼び方に言葉を詰まらせる。けれど心の奥底では、本当はずっと呼んでみたかったのだと気がついた。舌に乗せるだけで胸が高鳴るのだ。
 義勇さん、義勇さん。胸中で何度も呼んでみる。名前も格好良いなんてずるい。
 アパートに辿り着くのは早かった。離れるのが惜しくて階段までの一歩が踏み出せない。
「……炭治郎、」
「わっ」
 躊躇していた炭治郎を、彼は──義勇は背後から抱きしめてくる。近くなったことで嗅ぎ取れた感情の匂いからは炭治郎と同じように惜しがっていることが分かって嬉しくなった。
「義勇さん……」
「……おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
 けれどいつまでもという訳にもいかない。暫く抱き合って、そっと離れる。最後に義勇からもう一度名前を呼ばれて顔を上げた。
「………いや、なんでもない」
 よく分からないまま額に唇を落とされ、それに慌てふためいた炭治郎は義勇が何を言いかけたのか聞きそびれてしまった。





 義勇と付き合い始めて一ヶ月。お付き合い自体は順調だった。義勇は忙しい人で、連絡はあるものの会えるのはほぼ来店してきたときのみ。それでも幸せで満たされている日々。しかしそんな炭治郎の周りに妙な気配が彷徨くようになったのだ。
 最初は気の所為だと思っていた。いや、そう思いたかったのだ。けれど、もう何日も見知らぬ匂いが炭治郎を尾けてきている。とても気の所為で誤魔化せる程ではなかった。
 どうしてまたこんな平凡な男子大学生に。そうは思いつつも気味が悪いのでしっかりと撒かせてもらう。これ程までに自身の鼻がよく、体力もあって良かったと喜んだのは人生で初めてだった。全く嬉しくない。
 ため息をついて紙パックの中身をじゅうじゅうと吸う。肩を落としている炭治郎の隣に座る親友が珍しいと呟いた。
「悩みでもあるの?」
「んんー……いや、大したことじゃないんだけど、」
 歯切れ悪く答える炭治郎に親友──我妻善逸は再び珍しいと言った。そこまでだろうか。
「あ、待って。恋人の惚気だったら聞かねーからな!」
「はは、違うよ」
 恋人ができたことは黙っているつもりだったのだが、こと恋愛に関してはやけに敏感なこの親友はすぐに見抜いてしまった。一時はひたすらに言い募られる日々を過ごしていたものの、相手が年上の男性だということを打ち明けると途端に静かになった。軽蔑されなかったのは有難いが、なんとも微妙な気持ちになったことは記憶に新しい。
「あ、」
「え?」
「善逸、振り向かずに少し後ろの音を聞いてくれ。多分、分かると思うんだが…」
「へ?あ?……ギャアアアーー!!?何!?気持ち悪っ!!」
 どうやらすぐに分かってくれたようで安堵した。善逸は耳が良いからきっと炭治郎と同じく感じ取れると思ったのだ。
「え?え?何?ヤバくない?何が大したことないって??ちょっと炭治郎???」
「最近尾けられているっぽいんだよなぁ。でも目的がさっぱりで…」
「このおバカ!!警察行けよ!!」
「まだこれといった被害はないし…」
「じゃ、じゃあせめて恋人には相談したのか?」
「いや、忙しい人だからこんなことで煩わせる訳にはいかない」
「も〜〜〜この頑固者ヤダ〜〜〜危機感どうなってるんだよォ〜〜〜」
 グスグスと涙を流して怯える善逸には悪いが、心配してくれる親友がいることに元気を貰えてしまった。情けないとは思いつつも思った以上に心に負担が掛かっていたのだろうか。
 しかし巻き込んでしまうことだけは避けたい。だからもう少し様子見をすると言って無理やり引き下がってもらった。
 これだけは、という善逸の譲歩で、今日は伊之助と玄弥も誘ってうちに泊まってくれることにはなった。それはそれで楽しみなのでいいかと笑って頷いたのだった。





 長男だから、という言葉はこれまで何度も炭治郎に前を向かせてくれた。けれど今回はさすがに少し折れかけていた。
 あれからさらに二週間経っても不審者は炭治郎の周りを彷徨いている。しかしやはり何もしてこないので目的すら判明しない。妙な気配があるだけなのだ。
 この二週間何もしなかった訳ではない。コソコソと隠れている態度が気に食わなくて、ならばこちらから行ってやると探してみたこともあった。だが逃げ足だけは優秀なようで結局見つけられずにいた。
 誰かに見られている、というのはかなり精神を疲弊させてしまうらしく、炭治郎の心はすり減っていくばかりだ。おまけに安らぎの元である恋人の義勇はここ数日パン屋を訪れることもなくて、届いたメッセージによれば仕事に忙殺されているとのこと。会いたいと言ってくれている忙しい恋人に相談することもできず八方塞がりであった。
 そもそも炭治郎は長男だったが故に相談という行為が苦手なのだ。何でも己で解決してきただけに、自身の力でどうにもならない今回の件は炭治郎の心を蝕んでいく。これ以上心配もかけたくないからと大学もアルバイトも休んで、友人からの連絡も絶っていた。
 明かりも灯していない暗い部屋で、炭治郎は布団に包まり蹲っていた。今日は朝から食欲もない。このままじゃ不味いとは分かっていても身体が怠くて動いてくれない。
 そのとき、ピンポン、とチャイムが鳴らされた。
 炭治郎はびくりと肩を跳ねさせる。怯えの色を含ませた目で玄関を見つめた。ドクンドクンと鼓動が早鐘を打ち呼吸が荒くなる。冷や汗が背中を伝った。
 震える身体に鞭を打って立ち上がる。先刻まで動かなかったのが嘘のようだった。じわりじわりと玄関へと近づいていく。
 くん、と安心する匂いが鼻腔を掠めた途端、炭治郎はドタバタと騒がしく駆け出しドアノブを捻った。
「義勇さん…っ!!」
「っ、炭治郎?」
 細く見えるのに意外と逞しいのだと知ったその胸へ飛び込む。体幹も良いのかよろめくこともなく炭治郎を受け止めた義勇はあやすように背中を撫でてくれた。
「…? どうした?メッセージに既読もつかないから心配した」
「ぅ、……っ、」
 義勇の優しい声を聞くともう駄目だった。嗚咽が漏れて服を濡らしてしまうと分かっていても涙が溢れてしまう。そんな炭治郎の様子に義勇はただならぬ雰囲気を察したのか、硬い声で問いかけてきた。
「炭治郎、何があった」
「……」
「言え」
 ふるふると首を横に振って話さないと答えたものの義勇は咎めるように、また炭治郎の名を呼んだ。暫く無言の押し合いが続いていたが、先に義勇が折れ、とにかく中に入れてくれと言った。
 それはもちろん大歓迎なので、義勇の服の袖を握ったまま居間へ移動した。触れていないと不安になりそうで、どれ程義勇に安堵させられたのかを実感する。
「炭治郎、俺はお前の明るさに救われている。だが今のお前は明らかにおかしい。どうして話してくれない?」
「…………迷惑、かけたくないんです。義勇さんは忙しいのにこうしてわざわざ会いに来てくれて、でもおれは…っ」
「違う、よく聞いてくれ。何も迷惑ではない。恋人なのだから頼ってくれ」
 義勇からは悲しむ匂いがした。恋人なら頼ってもいいのだろうかと考えが揺らぐ。そういえば善逸も恋人には相談しろと言っていた。
(頼っても、いいのかな)
 ふわりと抱きしめられ、もう一度炭治郎、と囁かれる。それを切っ掛けに箍が外れたみたいにぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら不審者に悩まされていることを話した。黙って聞いてくれているが、義勇はじんわりと怒っている匂いを纏わせていた。そしてそれは話が進んでいくごとに濃くなっていく。
 全てを話し終えた頃には義勇の眉間にくっきりと皺が刻まれていた。
「……ごめん。全部俺が悪い」
「? どうしてですか?」
 義勇は逡巡するように目を伏せていたが、やがて口を開いた。
「…………黙っていたが、俺の職業はアイドルだ」
「え……ええっ!!?義勇さん、芸能人の方なんですか……!!?」
 唐突なカミングアウトに衝撃で涙が引っ込んだ。
 こくりと頷いた義勇は掛け時計に視線をやって、それからリモコンを手に取った。テレビの電源を入れ、チャンネルを合わせる。切り替わった画面には炭治郎も知る有名な音楽番組。まさか、と思い食い入るように見つめていると、登場したのは義勇と、さらに同じグループのメンバーであろう人たち。炭治郎は驚きでピョンと飛び上がった。テレビ画面と隣に何度も交互に視線を送るが紛れもなく同じ顔がある。軽く目眩がした。
 確かに芸能人でも通用するような容姿をしていると常々考えていたがまさか本当にアイドルだとは。しかも炭治郎は全く知らなかったなんて。
「デビューしたのは最近だからな」
 そうは言うが、今手元にあるスマートフォンで検索バーにグループ名を入力してみたら初出演の音楽番組放送後からとんでもなく人気が急上昇しているらしい。どうやらメンバーが個性的なのがウケたのだという。さらには歌唱力も抜群でCDだってランキングトップに入っている。正直に言うと非現実過ぎて受け止めきれない。
 ──あと、自分の流行への疎さも信じられない。
「マネージャーから厄介な記者がいることは聞いていた。恐らくその類いだろう」
(あああ話が進んでいる…!待ってくれない!)
「俺がもっと気にかけていれば良かった。せめて過ごす時間が多ければお前の異変に気づけていただろうに」
 先程の怒りは自身に向けたものだったのかと炭治郎は遅れて悟った。義勇がアイドルだと教えてくれなかった件については色々言いたいことはあるものの、今回義勇には何も落ち度がない。むしろ彼だって被害者だ。芸能界を煌びやかな世界だと認識していたが、案外そうでもないらしい。
「炭治郎……これからも俺のそばにいれば、嫌なことがあるだろう。だがそれでも、お前は俺と恋人でいてくれるか…?」
 わずかに震える手が炭治郎の頬に添えられる。そんな質問、答えは一つしかなかった。
「俺は、義勇さんさえいてくれればどんなことだって耐えてみせます!……それでも、たまに挫けそうになったら、手を握ってくれると…嬉しい、です」
「、そんなことでいいのか」
「それがいいんです」
 手のひらを重ねて頬を擦り寄せる。義勇は泣きそうに目許を和らげた。迫ってくる唇を静かに受け入れる。義勇と初めて交わした口付けだった。





 義勇はすぐに事務所に連絡を入れ、あれこれと事情を説明していた。数日後に家を出ると、不審者の気配はすっかり消えていて、炭治郎は久しぶりに怯えずに外を歩くことができて感動してしまった。
 事態が解決したことはきちんと友人たちに報告した。みんな見るからにほっとした表情を浮かべていて、炭治郎が思うよりも心配をかけていたことを知った。お礼に近々蕎麦でも誘って行こうと決意する。
 そして、大きく変わったことがある。炭治郎は義勇の家へと引っ越したのだ。
 炭治郎が一人で怯えていたことが相当ショックだったという義勇が、一緒に住んでいないと安心できないからとどうしても譲らなかった。炭治郎もかなり粘って断り続けていたが、実質恋人と同棲という大変魅力的な誘いの前には無力だった。炭治郎だってできることなら義勇と過ごす時間がたくさん欲しい。
 互いにルールを決めつつ、手探り状態ながらも同棲生活は順調だった。炭治郎は今の幸せを噛み締めて、ゆったりとソファで寛いでいた。
「また見ているのか」
「当然じゃないですか!」
 タブレットを抱える炭治郎に、義勇は複雑そうに眉を顰める。
 義勇がアイドルだと知ってから、炭治郎は片っ端から過去の出演番組を漁った。今の時代はお金さえ払えば簡単に見れてしまうのだから有難い限りである。
 とはいえ、知らなかった期間が長すぎるのは悔やまれるというもの。己の無知さをもう何度恨んだことか。
「もっと早く知りたかった…」
 こう嘆くと決まって義勇は、炭治郎には芸能人だからという目で見てほしくなかった。ただの冨岡義勇として好きになってほしかったから、炭治郎が知らないのであればこれ幸いにと黙っていたと言うのだから、すっかり何も言えなくなってしまう。
 確かに今でさえ俺なんかが付き合っててもいいのだろうか、と思うことが幾度もあるのだ。付き合う前に知っていたら恐れ多くて近付くことさえしなかったに違いないと分かるのだから結局は義勇の選択で正解だったのだろう。
「義勇さんの歌、聴いてると落ち着くので大好きなんです」
「……炭治郎の歌も聴いてみたい」
「!!?? むっ無理ですよ!嫌です!俺友達に酷すぎるって言われるくらい音痴なんですよ!……あ、」
「なんだ」
「いや!なんでもないですっ!!」
 一曲だけ、歌えるものもあることを思い出した。それを馬鹿正直に顔に出してしまったのだから、義勇は目を光らせて迫ってきた。
「炭治郎、隠し事は無しだと言ったのは誰だ?」
「……俺、ですね、」
 義勇にアイドルだったことを隠されていたことからそんなルールを作ったのが仇になった。ううう、と顔を覆う。ルールは守らなければならないのだ。
 観念してぽつりぽつりと昔の思い出を語った。
「昔から…妹たちに子守り唄は聞かせてたから、それだけはなんとか……でも本当にそれだけですよ!?」
「それで構わん。ほら」
「ぐうう…!!」
 プロの前で歌うなんて大恥だ。聴いた義勇が音痴になっても知らないぞと居直って子守り唄を披露した。
「こんこん小山の子うさぎは、なぁぜにお耳が長うござる」
 先刻まで義勇の歌を聴いていたからか、自分でも酷いのが痛い程分かる。これは耳が良くて絶対音感の親友が悲鳴をあげるのも頷けた。今まで理解してあげられていなくてごめん、と心の中で謝る。
「……義勇さん?」
 歌い終わっても黙っている義勇に、もしや下手すぎて絶句してしまったかとおそるおそる窺うと、彼は穏やかな表情を炭治郎へ向けた。
「……お前の弟妹たちが羨ましいな」
「えーっ!?義勇さん!?どうしちゃったんですか!?」
 心底本音で言っているのが感じ取れて、炭治郎は義勇を揺さぶった。それでも尚俺は炭治郎の歌が好きだと宣うのだから、ついに耐えきれなくなってリビングから逃走した。コーヒーを淹れてきます、ときちんと宣言してきたのだが、かすかに聞こえる笑い声から察するに多分誤魔化せていない。
 義勇の言う歌が好き、というのはどういう意味で言ったのか。単純に上手い下手だけじゃないのはなんとなく分かる。それでも褒めているのが歌唱力抜群のアイドルで恋人の冨岡義勇という事実が駄目なのだ。
(ああもう、本当に格好良い人だ!)
 結局義勇が迎えにくるまで、炭治郎はキッチンで身悶えていたのだった。



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