掴んだその手を離せない



 ──ああそうだ。俺はあいつのことが好きだ。

 芦屋の視力が戻らなくなったとき、安倍はもう隠世へ赴いていた。トモリ殿によると本人の意思が関係しているのではないかと告げられた。そのとき安倍が感じたのは、今更離れるなんてそんなことは許さないという苛立ちだった。お人好しなのは芦屋の良いところだと思うし、そのおかげで安倍だけでは無理だったであろう妖怪の笑顔が見れたことも少なくない。しかしやっと見つけた、隣に立つことのできる人間だった。こんなところで諦めてくれるな、と強く願いながら安倍は横で見守るしかなかった。
 今思えば、その頃にはすでに芦屋に落ちていたということだ。
 榮の件で三権神の集まりに同席した際、芦屋は安倍に許可を得る前に勝手にほざいた。今後は妖怪に関わらないようにする、そんな発言に安倍は考えるより前に身体が勝手に動いて芦屋の口を封じていた。多少手荒な方法だったが、そうでもしなければ芦屋の口は止まらなかっただろう。そのときに安倍にあったのは焦りと、わずかな胸の痛みだった。今度は自分の意思で離れるなどと宣うのだ。性格はもちろん、趣味や生き方など安倍と芦屋では何もかもが違う。もし主と奉公人の関係が失われてしまったのならば、芦屋との縁はあっという間に切れてしまう。そんなのは認めない。
 白旗を掲げたのは恐らくその辺りだ。芦屋の隣は誰にも渡したくないと心から思った。
 だからといって、安倍の芦屋への態度が軟化することはなかった。己の性格からしてまず素直になることは殆どない。吐き出すことのない安倍の芦屋への気持ちは内側でどんどん膨らんでいっていた。

 今日の依頼は噂を聞いた人間から来たものだった。この手の依頼はあまり気が乗らないが、結局は妖怪のためになるのだ。やらない選択肢はない。
 気が乗らない、というか。安倍自身は他人に何を言われようが慣れたものだが、芦屋は違う。依頼人から訝しげな視線を向けられる度に、あの笑顔が曇ってしまう。ころころと変わる表情が、憂いを帯びたものになってしまう。安倍にとってはそれが不快だった。だから今回芦屋は置いていこうと思っていたのに、気がついたときには物怪庵が依頼の詳細を話してしまっていた。話を聞いた芦屋は当然行くと言って譲らない。最終的には安倍が折れた。
 依頼人宅の近くまでは物怪庵に送ってもらい、そこからは徒歩で行く。少し後ろを歩く奉公人はすでに憂鬱な雰囲気を醸し出していた。

「おい」
「ひゃい!?な、なんですか?」
「何か言われんのは俺なんだからお前がそこまで沈むことはねえだろ」
「な…!だから駄目なんじゃないですか!安倍さんは妖怪と依頼人のために尽くしてるっていうのに!……納得、いかないですよ」

 安倍が口を開くと、いつものように騒がしい芦屋に戻った。かと思うと、萎むようにまた静かになってしまう。だが今の言い分は自分が何か言われるのを恐れているのではなく安倍への心配から出た言葉で、それがどうしようもなく安倍の心を弾ませてしまう。出会う人、妖怪皆に優しい芦屋だから彼にとってはそれが当たり前だと分かっているのだけれど。

「大人しく留守番してりゃいいのに」
「安倍さん一人には背負わせませんよ」
「……はいはい」

 芦屋の言葉に、安倍は一瞬詰まった。ふわりと微笑みながら言うものだから堪らない。鏡がないため顔が赤くなっていないか自分では分からない。安倍は芦屋に顔を見られないよう、先を急ぐことにする。後ろから聞こえる待ってくださいよ安倍さーん、なんて声は無視だ。

「………此処か?」
「みたいですね」

 数分ほど歩いていくと、依頼人の家が見えた。さっさと仕事を片付けようとインターフォンを鳴らす。用件を告げるとすぐに家主から出迎えられた。どうやら手紙を送ってきた本人らしく、本当に祓い屋が来たことへの驚きの方が大きいようで不躾な視線もない。芦屋の方をちらりと窺うと、明らかにホッとしている。今回は杞憂だったかもしれない。

「早速ですが、詳しい話をお聞かせ願えますか?」
「はい、実は…」

 依頼者の女性から話を聞くと、ここ最近庭から謎の声がするという。最初は野良猫か何かかと思い気にもとめていなかったのだが、先日は窓を叩くような音がした。さすがに不気味に思い、今回手紙を出したとのことだった。
 話を聞いて、二人はすぐに立ち上がる。庭へ下りると妖怪はすぐに見つかった。元は狸だったという妖怪は、安倍が物怪庵の主で、妖怪を隠世へ祓う人間だと知ると喜んで隠世へ行くと承諾してくれた。すんなりと終わりそうな仕事に知らずのうちにそっと息を吐く。芦屋はというと、すっかり妖怪と打ち解けていて笑顔で話し込んでいる。相変わらずのコミュニケーション能力の高さに舌を巻いた。
 隠世の扉を開いて妖怪を見送って、無事に祓えたことを依頼人に伝え帰る支度をする。いざ帰ろうとして安倍が取っ手に手をかけたところで、玄関の扉が開けるよりも先に開いた。

「ただいまー……誰?アンタら」
「……俺たちはここで失礼しますので」
「ええっと、お邪魔しました〜…」

 おそらくこの家の娘だろうが、この女には関わらない方がいいと己の勘が告げていた。芦屋もそそくさと安倍の後ろをついてきている。

「この方たちに悪いモノを祓ってもらったのよ」
「はあ!?お母さんホントに頼んでたの!?ありえない!絶対騙されてるって!!」
「…………ねえ、そういうことはせめてオレたちが出て行ってから言ってくれない?」
「オイ馬鹿…、」

 くるりと踵を返して芦屋は低い声で怒りを見せた。こんなものは無視すればいいというのにわざわざ突っかかるやつがあるか、と芦屋の腕を引くが奉公人の怒りはおさまらない。

「何よ、幽霊だの妖怪だのマジでいるわけないじゃん」
「君がそう思うのならそれでいいと思うよ。でもオレたちには見えているし、安倍さんはちゃんと仕事したんだ。だからそれは否定しないでほしい」
「…ッ、なによ…!」

 カッとなった女が右手を振りかざす。まずい、と安倍が庇おうとするも一歩遅く、女は芦屋の身体を思いきり突き飛ばした。
 女の力とはいえ咄嗟のことだっただけに構えることも出来ず、芦屋はよろけて背後にあったシューズボックスにぶつかりバランスを崩した。その際頭をぶつけてしまいガツン、と鈍い音が響く。蹲った芦屋に安倍は慌ててしゃがみ込む。

「…っつ、」
「芦屋ッ!?」
「大変!救急車…!」
「…っだ、大丈夫です。ちょっとぶつけただけですので。安倍さん、帰りましょう」
「……分かった。…今度こそ失礼します」

 無理に笑ってみせる芦屋に、安倍は苦々しい表情を浮かべる。依頼人に一礼して立ち去るときにちがう、などと震えて呟く女をひと睨みだけした。本当は手が出てしまいそうなほど腹が立っていたが、一秒でも長くこの場にいることの方が耐えられなかった。思わず繋いだ芦屋の手をぎゅっと強く握って、早々に依頼人の家を後にした。

「……あべのさん、」
「お前、病院行かなくて大丈夫か」
「それは本当に大丈夫です。冷やせば治ると思います」
「……氷買って物怪庵で冷やすか。家帰るよかそっちのが早ぇだろ」

 しばらく歩いて、先に口を開いたのは芦屋の方だった。沈黙に耐えきれなかったのだろう。
 普通に歩いているので大事にはならなかったのだと思うが、本人の申告だけではとても安心できない。近くのコンビニで氷を購入すると、すぐに物怪庵を呼んだ。

『おかえり!イツキ、ハナエ。あら?どうしたの?その氷』
「芦屋が頭を打った」
『大変!』

 そう告げると、今日は留守番だった毛玉は安倍の言葉に飛び上がるほど驚き、おろおろと心配そうに芦屋の周りをぐるぐると駆け回っている。

「も、モジャ!オレは元気だから!」
『…本当に大丈夫?』
「やばそうだったら病院に繋いでくれ」
『それはもちろん、任せて!』

 物怪庵の返事に頼りになると笑って、安倍は芦屋の頭を冷やすための準備にとりかかった。





「わざわざすみませんでした…!ありがとうございます…!」

 ひとしきり横になって安静にしていた芦屋が起き上がり礼を言う。そこで安倍はようやく胸をなでおろした。横でぺこぺこと頭を下げ続ける芦屋に大人しくしてろと軽く肩を叩く。
 ふと、芦屋にはまだ自分がどれほど心配したのか分かってもらえてないことに気がついて、安倍は話を切り出した。

「芦屋ァ……」
「は、はいいいぃぃ…!!」

 眉根を寄せてあえて低い声で名前を呼んだからか、芦屋はびくりと身体を震わせ情けない悲鳴のような返事をした。そんないつもの芦屋の様子に、安倍は絞り出したようなちいさな声でぼそりと呟いた。

「〜〜〜っお前は…俺がどんな思いをしたと……!!」
「ヒッ!あ、あの、大変ご迷惑をおかけしてすみませんでした…?」
「ちげえ!心配したっつってんだよ!!」

 的外れな謝罪をする芦屋に安倍は怒鳴った。
 あのとき、どれだけ肝を冷やしたと思っているのか。もし打ちどころが悪かったら。角に頭をぶつけていたら。想像するだけで安倍の心は恐怖に怯える。目の前で芦屋を失うなんて、絶対にあってはならない。
 芦屋花繪は、すでに安倍晴齋にとって妖怪と同じくらい大切な存在となってしまっているのだから。

「安倍さん…心配してくれたんですね…」
「なんだ、悪いか」
「そんなんじゃないですよぉ〜!へへ、こんなこと言うともっと怒られちゃうかもしれないですけど、嬉しいです」

 そう言って頬を染め笑う芦屋に安倍の心臓がきゅう、と締めつけられるような甘い痛みを感じた。不快なものではないそれは、すぐにはおさまりそうにない。

「……っ、お前は俺を殺す気なのか…?」
「え?えええええ!?なんですか急に物騒な!!?」
「うるせえ…もう黙ってろ…」

 はああ、と深い深いため息を漏らす安倍に、芦屋は困惑しっぱなしだった。口元を覆ってなるべく顔を隠す安倍は内心でざまあみろ、と呟く。こちらは心配やら芦屋の可愛い言動やらと次々に襲いくる出来事に心臓がもちそうにないのだ。これくらいの仕返しは許されるものだろう。

「急にバイトがいなくなるのはさすがの安倍さんでも困るんですよね。オレ、ちゃんと役に立ってたんだー!良かった〜」
「………あ゛?」

 独り言のように芦屋が放った言葉に、安倍はピタリと固まり目線だけを動かして奉公人を見た。当人はうんうんと納得するように頷いていて、とんでもない勘違いをしていることにまったく気がついていない。己の想い人が向けられる好意に鈍すぎて、一気に気分が急降下していく。

「お前それ…本気で言ってんのか?」
「あわわわわ…さっきまで優しかった安倍さんは…?」
「この五歳児が!」
「それ今関係あるんですか!?じゃなくて五歳児じゃないです!!」
「俺は!芦屋が好きだから心配したんだよ!分かれよ!!それくらい…っ、」

 頭に血が上り、我に返ったときにはそう声を張り上げていた。しん、と静まる室内に、安倍はそっと芦屋から視線を逸らした。毛玉は喧嘩をしているのかと思ったのか、不安そうに二人を見上げていた。

「……え、え?ええ?………えええええ!!!??」
「………」
「安倍さん、オレのこと好きなの?」
「………………ああ」
「間が長い!!めちゃくちゃ不服そう!!」
「さっきのは聞かなかったことにしろ」
「いやいやいや、無理ですって、」
「これは雇い主としての命令だ」
「それでも聞けません!だって…、」

 頑なな芦屋に痺れを切らした安倍が視線を戻したところで、それを目にした。

「だって、おれも、あべのさんのこと、」

 ぶわわ、と真っ赤に染まった顔。いつもの元気はどこへやったと聞きたいくらい弱々しい芦屋の声。この反応はどう見ても。

「す、すきです、…わっ!」
「芦屋っ、」

 芦屋の口から発せられる好き、という単語に安倍は堪らずその身体を抱き寄せていた。
 今聞こえる鼓動の音は果たしてどちらのものだろうか。二つの心音に、芦屋が自身の腕の中にいることが実感できてとても安心する。

「芦屋…」
「安倍さ、おわっ!?モジャ!?」

 いい雰囲気になりかけたところで、芦屋の肩に毛玉が飛び乗ってきた。

『やったわね!私もモジャもどれだけやきもきしたのかしら!』
「へあ…あああぁぁここ物怪庵だったあああああ……!!!」

 芦屋はあたふたと安倍から距離をとった。そのことに少し落胆するが、今は芦屋と気持ちが通じ合ってとても気分が良いのでまあいいかと思い直す。なんせこれから何度でもチャンスはあるのだ。

「物怪庵、お前芦屋の気持ち知ってたのか」
『二人ともここで悩むんだもの。ねーモジャ?』
「ううう……お恥ずかしい……」
「ふーん……どんなことを仰っていたんですか、芦屋殿?」
「ひゃっ!?あ、あ、安倍さぁん!?」

 物怪庵のにやにやと揶揄うような顔文字に、そのときの芦屋の様子が気になり耳元で囁いて問う。バッと耳を塞いで動揺する芦屋に気を良くした安倍は、うすく笑ってもう一度その身体を抱きしめるのだった。



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