赤い糸



 ──それが見え始めたのは唐突だった。

 竈門炭治郎は至って普通の高校生だ。優等生で通っているような真面目さで、けれど父から受け継いだ形見のピアスをつけているという教師に目をつけられるような点も持つ、至って普通の高校生だった。
 そんな炭治郎には秘密がある。それは懸想している相手が教師で同性の相手だということ。
 想い人の名を冨岡義勇といい、担当科目は体育、生活指導も担っていてスパルタ教師と恐れられる人物だ。
 冨岡とは教師と生徒という関係以外にも繋がりがあった。炭治郎の実家がパン屋をやっていて、そこに昔から来てくれる常連の一人なのだ。幼い頃から身近にいる近所のお兄ちゃんといった存在の彼に憧れを抱くのは当然で、その気持ちが次第に変化していったのは計算外だった。
 昔は彼に触れるのに何の躊躇いもなかったというのに、今は話しかけるのすら一苦労するのだから恋心というものは非常に厄介だ。ひとこと話すだけで心臓が暴れ回って頬に熱が集まる。いつ気持ちがバレてもおかしくない程に、炭治郎は冨岡のことが好きでたまらなかった。

 高校に上がって冨岡と学校で会えるようになって、更には形見だと知っていても他の生徒の手前見逃すわけにはいかないからと追いかけられることになって。炭治郎は内心嬉しく思いつつもヒヤヒヤしていた。もし冨岡を好きな気持ちが伝わってしまえばこの関係はどうなってしまうのか。せっかく弟分に近い位置にいるのに、それすらもなくなってしまうのかもしれないと思うと怖かった。
 けれど行動を起こす勇気もなくて、炭治郎は冨岡にいい人が現れないように祈るというなんとも最低なことしかできなかった。
 いつまでもこんな関係が続けばいいのに、と密かに願っていた炭治郎にそれが見え始めたのは突然だった。

「赤い糸……? なんだ、これ……」
 炭治郎は仕込みの為に早朝に起床し、自分の小指に赤い糸が結ばれていることに気がついた。当然結んだ覚えなどなく、首を傾げながら自室を出た。
 とにかくこんなものが指についていては邪魔になってしまう。炭治郎はそれを外そうとしたのだが。
「あ、あれ? 取れない」
 掴む感覚はある。なのに解けないのだ。ひたすらに疑問符を浮かべて、まさかと思いつつ工房に入る。
 結果から言うと、糸は確かにそこにあるのに他の物体に対して全く干渉しなかった。
 試しに妹や母に尋ねてみると彼女たちには不思議そうにしていた。どうやらこの赤い糸は炭治郎だけにしか見えていないらしい。そしてもう一つ。赤い糸があるのは何も炭治郎だけではなかった。登校中に目にしたそれらは何本も交差しており、いつもの馴染んだ道がまるで別物に思えるくらいには大量に存在していた。
 けれど全員にあるわけではないようで、妹をはじめきょうだいたちにはなかった。他にも通りすがりに人の小指に注意を向けてみたけれど、結ばれていなかった者を幾人も見た。ある者とない者の違いは分からないけれど、とにかくこれが人と人を繋ぐ縁のようなものだろうと考えついた。
(運命の赤い糸ってやつかな)
 まさか本当にあるとは思わなかった。炭治郎の赤い糸は何処かに向かって真っ直ぐに伸びている。ということは、炭治郎にも運命の相手がいるということだ。
(案外興味ない、かな)
 これがもし、冨岡に繋がっているのなら良かった。けれどそうではないことは、学園に近づくにつれてピンと張っていく糸が証明していた。
 炭治郎にとっての運命の人は冨岡だけれど、冨岡にとっての運命の人が炭治郎ではないことくらい分かっている。
 ──分かっていても、改めて見せつけられると気分は良くなかった。
(神様はいじわるだ)
 ひどい。わざわざ言われなくたって知ってる。炭治郎の心は朝から沈んでいくばかりだった。校門に向かう足がやけに重い。
「はあ……」
 炭治郎が深いため息をついたとき、こつん、と頭に何かがあてられた。
「おはよう。今日も校則違反だな」
「っ!? お、おはようございます」
 あたっていたのは冨岡の持つ竹刀だった。慌てて顔を上げると呆れ顔の体育教師がこちらを見ている。捕まったら放課後まで没収のルールに従って炭治郎は大人しくピアスを外した。差し出された手のひらにそれを乗せようとして、ふと視界に入る。
 冨岡の小指には、赤い糸があった。そしてその糸はもちろん、炭治郎以外の誰かに向かって伸びていた。
「……ッ!」
「、……おい……!?」
 ほとんど押し付けるように冨岡へピアスを渡して、炭治郎その場から駆け出した。突然逃げた炭治郎に冨岡は何か声をかけようとしていたけれど、きちんとピアスを渡した生徒を追いかけ校門を離れるわけにもいかなくて、結局彼が炭治郎を追うことはなかった。
(胸が痛い、ずきずきする……)
 人気のない校舎裏に逃げ込み壁に寄りかかる。自身の小指から伸びる糸を見て、乾いた笑いがこぼれ出た。それを掴んでずるずるとしゃがみ込んでしまう。こんなものに振り回されて馬鹿みたいだと嘲笑する思いはあるのに、どうしても割り切れなかった。
「いいなあ……先生の相手って、どんな人なんだろう……」
 考えても詮無いことなのに、炭治郎は気になって羨む気持ちが消えない。自分の運命の相手なんかより何倍も知りたかった。知って、俺の方が冨岡先生と仲が良いんだって主張して、それで。
「……こんなもの……」
 どうして急に見えるようになってしまったんだろうと恨みがましく睨めつける。炭治郎は思い立って、鞄を開けた。中からペンケースを取り出し、ハサミを手に取る。それを赤い糸にかざして。
 ──ちょきん。
 糸は呆気なく切れた。炭治郎がどれだけ解こうと頑張っても取れなかった赤い糸は、なんとハサミを使うことであっさりと切れてしまったのだ。
 元々何の思い入れも抱かなかっただけに惜しくはなかった。むしろ晴れ晴れとした気持ちすら湧いてくるようだった。
「はは……」
 運命なんて、こんなにも簡単になくなってしまうんだと思うとおかしくなってしまう。
 炭治郎は笑って、そして一粒だけ、雫をこぼした。





 放課後、ピアスを返してもらいに炭治郎は指導室へと赴いていた。
 室内にいるのは冨岡一人で、炭治郎が中に入ると二人っきりの空間になる。校内で冨岡と二人というのがやけに緊張を煽り、鼓動を早めていた。
「……今日はどうしたんだ?」
 冨岡は炭治郎がすんなりピアスを渡した態度やその後の様子について不審に思っており、何かあったのなら言えとこちらを向いてくれた。その表情は教師の親切心というよりも、炭治郎にとって馴染みの深い近所のお兄ちゃんの方の顔つきになっていて、こういうところが好きなんだよなあなんて場違いにも惚れ直してしまった。
「こら。聞いてるのか」
「聞いてます。……別に、何かあったというわけでは……」
 赤い糸が見えるようになりましたなんて正直に告げれば怪訝な顔をされかねない。炭治郎は俯いて誤魔化そうとしたのだが、付き合いの長さ故にそんな小技は効きやしない。
「お前がそんな顔をするときは嘘をついてるときだって相場が決まってるんだ」
「ちが、」
 否定の為に上げた顔はむにゅりと両頬を挟まれ固定させられた。そのまま好き勝手伸ばされ、早く言えと急かされる。
「ひょっ、ひゆうひゃん……!」
「相変わらずやわらかいな……」
「ひゃめへ、」
「言う気になったか?」
 好きな相手に頬を包まれるのがどれだけ心臓を跳ねさせるのか、この男はちっとも分かってない。炭治郎はこくこくと頷いて冨岡の手を引き剥がした。その際わずかに残念そうな匂いがしたのは気のせいだっただろうか。
 色んな意味で頬を赤くした炭治郎はどこから話すべきかと頭を悩ませた。自身の小指と、そして冨岡の小指。それらを交互に見て、ぴっと掲げてみせる。ええいままよと口を開いた。
「先生は運命って信じます?」
「…………」
「ひひゃひゃひゃ! ひひゃいへふ!」
 やっと観念したかと思えば訳の分からないことを。冨岡は無言だったが、確実に目がそう語っていた。せっかく引き剥がした手が再び炭治郎の両頬を摘む。ぐっと強く引っ張られたので痛くて涙が滲んでしまった。抗議の意を込めぽかぽかと彼の胸を叩くと、渋々離してくれた。
「もう! 何するんですか!? 頬がちぎれるかと思いました!!」
「それくらいでちぎれるわけないだろ」
「思うくらい痛かったんですよ!!」
 おまけに出鼻をくじかれて散々だ。炭治郎のきゃんきゃんと吠えるさまも冨岡にしてみれば軽く流される程度。ハイハイと適当にあしらわれて憤慨したが、いつまでも怒っていては話が進まない。炭治郎は長男らしく引いてやることに決め、再び会話を切り出した。
「別にはぐらかそうとして運命なんて言ったんじゃないですよ」
「……だったら何の関係があるんだ」
「信じてくれなくてもいいですけど、今日起きたらいきなり赤い糸が見えるようになってたんです」
「……は?」
 案の定、冨岡はぽかんと呆けてしまった。炭治郎は己の小指を指して、ここに、と続ける。
「赤い糸が結ばれてて、……誰かに、伸びてて」
 正確にはもう切ってしまったから、先端がだらりと力なく落ちているだけなのだが。どうせ見えやしないからと嘘を混ぜた。
 炭治郎の言葉にふうん、と鼻を鳴らした冨岡からは冷たい匂いがした。興味を失ったように肘を付き「それがどうして今朝の態度に繋がるんだ」ともっともな問い掛けを投げてきた。
 それに言葉を詰まらせる。正直に告白してしまうと炭治郎の想いすらも筒抜けになってしまうからだ。けれど今更真っ赤な嘘なんてものは通用しない。炭治郎は冨岡から伸びる赤い糸に目線を下ろして重い口を開いた。
「……先生にも赤い糸があるのに気がついてしまって」
「俺に?」
 冨岡は眉根を寄せ、自身の手のひらを見つめていた。だがその目に赤色が映ることはないのだろう。やはり首を捻って炭治郎の言葉を待っている。
「…………今まで兄のように思ってた人に、彼女ができるかもと思ったら、寂しくて」
 半分が本当で、半分が嘘。これくらいの範囲なら許されるだろうかと、不自然な距離になっていないかと、炭治郎は慎重に冨岡の様子を窺った。
「それだけか?」
「え?」
「寂しいだけなのかと聞いている。本当は見知らぬ女に妬いたんじゃないか?」
 くい、と顎を持ち上げられる。不敵に笑う冨岡は炭治郎の知らない顔をしており、動揺で頭がまわらない。
「何、言って……」
「俺はお前が何処の馬の骨とも知れぬ奴と運命とやらで繋がっているのかと思うと腸が煮えくり返りそうだ」
 そう言って口元を歪める冨岡を、炭治郎は信じられない思いで見つめていた。

「……そんなの、もう切っちゃいました」

 炭治郎はぽそりと呟く。
「貴方じゃないなら、どうでもよくて」
 でもね、切ってもなーんにも変わんないんです。こんなもんなんだ、って拍子抜けするくらい、全然。
「突然現れた赤い糸なんかに相手を決められたくなかった」
「……俺のは、どうなってる?」
「さあ? 遠い遠い、何処かの誰かと繋がってるみたいです」
 冨岡の小指から伸びる糸の方向を目で追うが、その先はとても特定できそうにない。
「炭治郎」
 久しぶりに呼ばれた名前にとくりと胸が高鳴った。声色は優しくて、先程までの剣呑さを醸し出していた彼は何処にもいない。
「俺の赤い糸も切ってくれ」
「……えっ、」
 思わず目を見開いて凝視してしまう。差し出された手には冨岡と運命の相手を結ぶ糸。
 確かにそんな相手なんかいなければ良かったのにと思ったが、まさか冨岡の方から切ってくれと言われるなんて。
「あるんだろう? ここに。俺には見えないからどうしようもない。お前にしか切れない」
「そ、う、みたいですけど……でも……」
 自分なんかが冨岡の縁を断ち切ってしまってもいいのだろうかという迷いが炭治郎の心を埋めていく。良心と醜い恋心がせめぎ合っていた。
「俺だって赤い糸なんぞに相手を決められるのは御免だ」
 腕を掴まれてぐっと引き寄せられる。冨岡の胸に誘われ、炭治郎の耳元で大好きな低い声が囁かれた。
「相手くらい、自分で選ぶ」
「あ、の……っ! せんせ、っ」
 ここまで言われたらさすがに理解する。させられてしまう。片想いだと思い込んでやまなかった相手は、こんなにも焦げ付くような匂いをさせる程に強く想ってくれていたのだと、ようやく気がついたのだった。
「せめて卒業までは、と自制していたんだが……無理そうだ」
 ぷちん、と。糸が切れる音が炭治郎の耳に届いていた。





 結局、あの赤い糸について詳しいことは分からないままだった。義勇と両想いになったからなのか、それとも一日だけの奇跡だったのか。炭治郎が糸を見ることはもう叶わなかった。
 ──ただ最後にぼんやりと見えたのは、とても解けそうにないくらいにぐちゃぐちゃに絡まった、二人の赤い糸だった。



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