【虜】

オレに背を向けた格好で、あいつは俯き、後ろへと髪を掻き上げる。少し体重をかけるだけでギシギシいう華奢なパイプ椅子の背を抱えこむようにした腕の中に口許を隠して、オレの視線は真っ直ぐにあいつの背中だけに注ぐ。雑多なスタジオ。誰もが自分のやるべきことをこなしているから、オレは安心して自分の好きなようにすることができていた。この前見たときより少し伸びた気がする細いパサついた髪を見ていたとき、オレはずっとあいつのことばかり想っていたんだと今更のように自覚する。ブカブカのセーターに隠れた細い身体の線を、時々ふっと頼りなくなる不安定さをオレは知っている。努力家だし、人一倍人を思いやる部分に救われたり好ましく思ったりすることはあったけれど、でも、こいつは、その分だけ嫌な部分も多かった。あからさまで白々しい演技を行うことも躊躇せず、唐突に信じられないようなタイミングで変なことを言い出したりする。あいつはオレが心から最悪だと思い嫌悪するようなことを平然と何度かやってくれて、なのに、そんな欠点も飲み込んで、あいつの全てに引き摺られて、オレの感情はどうしようもない深みの場所まで連れ込まれていた。オレはずっと、あの身体を、精神をどうにかオレだけのものにしたかった。オレが想う分だけを返して欲しいと思っていたんだ。そんな普通なことがあいつにできるのか、そんな予測を立てる間もなく、きっと何も見えなくなっていた。ただ、オレは盲目的に願っていただけだ。いつか、あいつが応えてくれると信じて。



──顔をあげたあいつが、オレの視線に気が付いて振り返る。



「何?」たずねる前にオレが言うと「それ、オレのセリフ」とこちらへと近寄りながら笑った。今のこいつは、オレの前でもよく笑う。昔、オレを見る目はとても冷えていて、技巧的な笑み以外見たことがなかった。そんな顔をされる度に、オレはオレの内部で燻火のような感情を膨らませて、それは永遠に消えることがないと思っていた。オレは、何も知らなかったんだろう。……ずっと、知らないままでいれたらよかったのにと、時折思う。



「おまえ今、オレのこと見てたろ?」

問うようではなく自分の認識を確認するように言ってくるのに、オレは腕の中で口許を隠したまま、目元だけで曖昧に応える。さぁ。どうだか。そんなようなことをオレは言った。

「…まあ、どうでもいいけど」

本当にどうでもよさそうにあいつは呟き、オレから視線を離した。特に何をするでなく、ただ雑多な室内を見渡している表情。その横顔を見て、綺麗だなと素直に思った。そこには、何の感情も感じない。

不変を信じないこいつは正しかったんだとオレは思った。昔、ずっと変わらないと信じていたオレは変わっていった。悩むことすらなくなったのがいい証拠だ。今、オレたちはとても円滑に触れ合うことができる。そして気付いた。オレが腕の中に顔の半分を隠しているのは、笑っている顔を見られないためだった。大して意味のない格好だと自分でも思っていたけれど、無意識的にオレは自分の表情を悟っていたんだろう。自然と浮かんでくる笑みを誰にも知られたくないから、オレは隠していたのだ。だけど今オレの目の前にいる相手は他人の機微に聡いから、目元だけでもバレるかもしれない。オレはハードスケジュールに疲れたふりをして少しだけ顎を引き、目を閉じた。







椅子に座ったまま、こっちをずっと見上げていた彼がゆっくりと目を伏せていく。入れ違うように顔を動かすことなく、オレは視線だけを彼へ向ける。

彼が『冷たい目』と評し失われたものだと感じていた眼差しが、未だに向けられ続けていることを、彼が知る日はない。





since date:2002-03-01







menulist