「今日は…帰ってくれないか…?」 「どうして?」 「会いたくない」 目も合わせず機械的に返答する伊角にナマエは我慢の限界に来ていた。 「伊角君のばか!」 プロ試験2日目のお昼頃、事件は起きた。ナマエは涙ぐみながら伊角にそう叫んでいた。女の子を泣かすなんて普通の伊角なら考えられないのに、今日の彼は様子がおかしかった。思いつめたような表情をしている。何も答えない伊角に耐えられなくなってナマエは持ってきた紙袋を落として棋院を飛び出した。落ちた紙袋からお弁当がはみ出ている。今朝、ナマエが伊角のために作ったものだ。お昼はいつも外で済ましていると聞いて、それでは身体に悪いと思ったのだ。ナマエが飛び出して行った後も、伊角は只呆然と立ち尽くしていた。幸い人が少なく野次馬はできなかったが、心配した事務の人が紙袋を拾って伊角の手にそれを強引に持たせた。 「あんた午後も試験あるんだろ?しっかりしな!」 その人の言葉は悲しくも彼の耳には届かなかった。外音をシャットアウトし、自分の世界だけを見ている。 (どうしてあんなことになった。何故…ハガシの反則なんて…) 今日の第一戦、進藤との対決の結果は反則負け。序盤は優勢で確実に勝つ碁だった。なのに一瞬の迷いで自分は一勝を逃すどころか、プライドさえも傷つけた。今まで積み重ねてきた努力に泥を塗った気分だった。ハガシをした直後、反則を誤魔化せないかと躊躇った長い時間、あの時の自分を思うと情けなくて仕方ない。 (ナマエ…わざわざ弁当持って来てくれたんだ…) 伊角はようやく紙袋に意識がいき、朦朧とする頭で必死にあの時のナマエの顔を思い出そうとしていた。 (…どうな顔…してたっけ…) 分からないまま紙袋を持って休憩室へ行った。院生仲間がおしゃべりしながら食べていたが伊角はそれを避けて隅の方に座る。紙袋からお弁当を取り出しパックの蓋を開けると、中には色とりどりのおかずが詰まっていた。もう一つのパックにはご飯だ。朝、ナマエがどれだけ時間をかけて、どれだけ伊角のことを想って作ったかが伺える。しかし思考を止めていた伊角は機械のように食べるだけ。もくもくと箸を動かし続けるのだった。食べ始めてから数分が過ぎた頃、まだ半分もおかずが残っている時だ。つい先程の伊角とナマエの一件を事務の人から聞いた和谷が、怒りを顕にしてやって来た。伊角の向かいに座ると、死んだような目をして食事をしている彼を見て歯ぎしりする。 「なあ、伊角さん。進藤に負けたのが悔しいってのは分かるけど、せっかく応援してくれる女の子を泣かしちゃダメだろ!」 和谷の声に驚いた人達が振り返る。しかし伊角は全く意に返さない。親友の声が聞こえないというのか。怒っているのは何も伊角の行動が自分のポリシーに反するとかいう格好つけた理由ではなく、純粋に心配しているからだ。和谷はいつだって友達思いのいい奴だ。なのに伊角は無視を決め込む。 「いい加減にしろよ!!」 和谷は机を思い切り叩いて立ち上がった。机が大きく揺れてさすがに伊角も驚いてやっと我に返ったようだ。 「それ…美味しいんだろ?」 和谷は変わらず真剣な顔で伊角の食べているお弁当を見る。人に言われて始めて気づかされることがあるけど、伊角はまさにそれだった。箸を止めて項垂れる。 「早く言ってやれよ。きっとあの人、伊角さんの言葉待ってると思うぜ」 それを聞いた瞬間伊角はお弁当を掻き込み始める。和谷からお茶を渡され流し込む。和谷はやれやれといった風に見ていた。もう大丈夫だろう、そう感じたのだ。伊角は急いで片付けると携帯を取り出し外へ出て行った。ふとまだ近くにいるかもしれないと思ったが、そんな上手い話はなくて、人っ子一人いなかった。ナマエはバスで来るから追いかけられるはずない。彼は電話帳からナマエの番号を表示させると、少し心を落ち着かせてから通話ボタンを押した。 prr…prr… 長い間呼び出し音が鳴る。おそらくこの時ナマエは出るのを躊躇っているのだろう。彼女もまたあの後後悔に苛まれていた。試験でストレスが溜まっているのは伊角なのに何故自分は追い打ちをかけるように彼を責めたのか。そう何度も何度も言い聞かせて悔し涙を流した。 prr… 「はい…」 二人の回線がようやく繋がる。ナマエのしゃがれた声が伊角の電話越しに聞こえた。伊角はぐっと唇を噛み締める。 (最悪だ…俺) 彼女の声を聞いて決心がつく。 「さっきはごめん…それと、弁当美味しかった」 数秒の間があってナマエはワッと泣き出した。伊角に嫌われたと思っていたからだ。自分から話しかける勇気なんてないし、彼もきっと関わってこない。もう二度元の関係に戻れないんじゃないかとまで考えていたのだ。 「私こそ…ごめんなさい…!」 ナマエは何度も涙を拭いて必死に言う。 「試験…頑張ってね。大丈夫、絶対受かるよ。だって私、伊角君が努力している姿ずっと見て来たから…」 彼女の優しい言葉に伊角は喉の詰まる思いをする。言えない。今日反則負けして、それをずっと引きずっているなんて。これ以上ナマエに心配をかけたくない。もう沢山だ、自分のことで彼女が泣くのは。 伊角は携帯を握り締め、顔を悲痛に歪ませた。 「ああ、必ず受かって、真っ先に報告に行くから」 通話が切れた後、伊角は建物内に入らずベンチに座り込んだ。前かがみになって片方の手を額に当てている。さらに顔色を悪くした彼に気付く者は、おそらく誰もいないだろう。ナマエでさえも。そして彼だけが見る。最後についた嘘が人知れず朽ちていくのを。 優しい君の優しい嘘
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