こんなはずではなかった。わたしは憎たらしい程の青空を見つめて、一人心の中で呟いた。恋に無縁だと思っていたわたしの心臓は、確かに今高鳴っている。
『かっこいい』『爽やか』『優等生』。それが彼の周りで飛び交う言葉達だった。
最初は彼のことなど眼中になかった。こういうタイプには大抵裏があるし、恋なんてどうでもいいと思っていたからだ。彼が通るたびに女子は甲高い声で騒ぐし、違うクラスならよかったと思うことが何度もあった。
芸能人扱いされている彼は、様々な人にもてはやされ、にっこりと笑う。その笑顔に虫唾が走り、彼を鋭く睨む毎日。そんな私の気持ちが大きく変わったのは、五月に入り、リンが話しかけてきた時からだった。
「宮下さん、一緒にお弁当食べない?」
おとなしくて地味な性格故かそれまで一人だったリンが、昼休みに突然話しかけてきた。いきなり名前を呼ばれて驚いたわたしは、思わず反射的にいいよと言ってしまった。クラスメイトがわたしに話しかけてくるなんて、珍しい。そう思っていると、リンがそばかすだらけの顔に満面の笑みを浮かべて机をくっつけた。
「宮下さんって綺麗でクールだから、みんな高嶺の花だって中々話しかけられないみたいだよ」
いつも一人なのにやけにクラスの事情に詳しいなと思ったが、そんなことは言えないので適当に相槌を打った。もしかしたらわたしをおだてているだけかもしれないが。
「あ、莉未ちゃんって呼んでもいい?」
「別に構わないけど」
ここまで積極的に話せるなら他のグループにも入っていけそうだが、女子のいざこざという可能性もあるな、などとぼんやりと思った。
「ありがとう。あのさ、いきなりだけど、川口くんってかっこいいよね」
また彼か。わたしは内心うんざりしたが、表情には出さないように努める。
「わたしはそういうのはよくわからないから」
わたしがそういい終えるか終わらないかくらいで、女子たちの悲鳴に近い歓声が聞こえた。
「あ、川口くんかな」
リンの表情は恋する乙女そのものだった。彼女の視線の先には、購買のパンと紙パックのジュースを持って教室に入ってくる彼。
「これ食べてください!」
顔を真っ赤にしながら手作り弁当を差し出している女子も何人かいる。
「ごめんね、俺自分のお昼あるから」
困ったように笑う彼は自分の席に着いたが、群がる女子達は彼を追って押し合い、口々に彼に話しかける。
「放課後一緒に遊びませんか?」
「よければ勉強教えてください」
彼は尚も困ったような笑顔で、「今日も部活だから」とやんわりと断っていた。リンは羨望と嫉妬の入り混じったような表情で、人だかりを見つめていた。
その日からリンと一緒に登下校をしたり、休み時間を過ごすようになったのだが、リンはことあるごとに彼の話をした。そんなリンに対するわたしの反応は、リンの話を黙って聞き、時々思い出したように相槌を打つだけだ。
「川口くん、昨日の大会の高飛びでまた一位だって」
六月に入って湿気が篭る朝、教室でそう言ったリンがすごいよね、と彼を見ながらわたしに同意を求めた。彼は走り高飛びをやっていたのか、とわたしは一人思った。彼が陸上部だというのはだいぶ前から知っていたが、走り高跳びをやっているというのは初耳だ。わたしはもう彼を嫌悪していなかった。
「優太くん、一位おめでとうございます!」
彼はありがとう、と人のよさそうな爽やかな笑みを浮かべて、女子達の相手をしている。彼と話せた女子達は頬を赤く染め、「やっぱり川口くんってかっこいいよね」「おまけに優しいし王子様みたい」と目を輝かせた。
わたしは、半そでのワイシャツから覗く彼の細い腕をじっと見た。細いけれど程よく筋肉がついて引き締まっていて、不覚にもその腕に抱かれたいと思ってしまった。そして、わたしははっとする。
この前クラスメイトの女子が言っていたことと同じことを考えているではないか。そんな自分が恥ずかしくなり、彼をうっとりと眺めるリンに「ちょっとお手洗い」とだけ言い残して教室を飛び出す。
廊下に座って話し込む女子やふざけて遊んでいる男子をよそに、わたしは顔を真っ赤にしながら早足で廊下を歩き、トイレに入った。鍵をかけるや否や、わたしは両手で顔を覆った。冷たい手に伝わった熱いほどの温度で、少し冷静になることが出来たわたし。そして、そこでわたしは気付く。こんなにも胸の奥を覗かれているように恥ずかしいのは、クラスメイトの女子と同類だということではなく、彼のことを意識してしまったからではないのか。
彼のことなんか好きじゃない、とわたしは自分に言い聞かせる。あんなに嫌いだったじゃない、ああいうタイプには裏があるんだからと、思いつく限り彼の悪口を並べ立てた。それでも、あの細い筋肉質な腕を、爽やかな笑顔を、繊細な横顔を、思い出さずにはいられない。
彼のことを意識していると自覚してしまったそれからは、面白いように彼に溺れていった。リンの話にもいつの間にか熱心に耳を傾け、彼女と同じように人だかりを見つめるようになった。その度に一人でおかしな罪悪感に苛まれるが、周りの女子が騒ぐ頃には、わたしもまた目で追う。
彼の上品な薄い唇にわたしの唇でそっと触れたいと願ってしまったのは、まだ暑さの残る夏休み明けだった。夏休みも彼のことばかり考えて勉強に集中できなかったり、眠れなかったりすることはよくあることになっていた。
わたしは彼にメモのような手紙を書いた。飾り気のない罫線が引いてあるただのメモ用紙に、ただの黒いボールペンで、用件だけを書く。
『三時半に屋上に来てください 宮下莉未』
その字はかっちりしているようにも、震えているようにも見えた。
その手紙を書いた次の日は、彼の所属している陸上部は休みの予定だ。それを見計らって、彼の下駄箱に手紙を入れた。他にも手紙は入っていたが、彼は律儀だから、たぶん全ての手紙に目を通すだろう。
その日はひどくそわそわしていて、リンにも不審がられた。
「莉未ちゃんどうしたの? 何か落ち着きないね」
リンが心配そうに尋ねてきたので、わたしは大丈夫だよとぎこちなく笑った。
そうして、ろくに授業も聞かないまま運命の放課後になった。来てくれる保証はないが、掃除を済ませると、急いで屋上へ向かう。階段を駆け上ってドアを勢いよく開けると、息が切れて心臓が暴れ回る。喉がひゅうひゅうと鳴った。今のところ人気はない。わたしは気が抜けたように壁にもたれかかった。
汗ばんだ肌を、夏の匂いが残る生温い風が通り過ぎていく。汗で張り付いたワイシャツが気持ち悪い。吹奏楽部の楽器の音がちらほらと聴こえた。もう部活が始まったのだろう。
わたしは静かに腕時計を見た。それと同時に、何でこんなことをしているんだろうという気持ちが湧き上がってきて、手紙を下駄箱に入れたことを後悔する自分がいた。
こんなはずではなかったのに。屋上から見える空は憎たらしいほど青かった。
リンや周りの女子が騒ぐから、その気になってしまっただけではないかという気持ちも出てきた。わたしは、何だかクラスメイトの女子達に嘘をつかれた気分だった。
『宮下莉未は川口優太が好き』と。
『群集心理を考える企画』提出作品(お題:緒道ユキヒ様)
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