[9]知っておいて欲しいと彼は言った
(緑黄。いい意味で擦れ違ってる緑間と黄瀬。冷却期間編の決着!)
「黄瀬」
と呼ぶ声に振り返った黄瀬を待ち受けていたのは、緑間の深緑色の双眸だった。レンズ越しに見える目は赤く、緑間真太郎でも泣くことがあるのだ、ということを黄瀬はその時初めて知った。
「緑間っち?」
震えるくちびるから漏れた名前は掠れていた。
どうして、今、ここに緑間がいるのだろう。という疑問と、洛山に――というよりは赤司に負けて泣いたのであろう緑間の姿を見ることができずに悔しいという思いがまぜこぜになって、頭が現実逃避をしはじめている。
会いたかったけれど、今、どうしてこのタイミングなんだ。
と、理不尽な八つ当たりの言葉を吐きそうになって、けれどそれは唾液と一緒に飲み下した。だって、仕方がない。試合後に緑間から声をかけてくれたことなんて、今まで一度もなかったのだ。
海常の試合を見に来てくれていることもあるらしいけれど、そういうとき緑間は、黄瀬に黙って試合を観戦し、そうしてひとりで――あるいは秀徳の十番と一緒に帰っていく。
緑間がそういうひとだと知っていたから、黄瀬はまるで期待していなかった。黄瀬と緑間のWCは事実上、今日終わったも同然なのだけれど、だからといって、緑間がこんな風に迎えに来るなんて。
「え? あ、ちょ……な、なんで!?」
だから黄瀬は動揺した。
明日の三決のために、秀徳はこの後ミーティングがあるのではないのか、だとか。いつも一緒にいるあの十番は今日はいないのか、だとか。なぜここにいるのだ、という問いが、喉の奥で渋滞を起こして詰まっている。
黄瀬に声をかけてきた緑間は、肩に提げたショルダーバッグのストラップをぎゅうと握り締めて、まるで意を決したかのように一度くちびるを引き締めてから、
「黄瀬、この後の時間を貰えないか」
と言って、言っている途中で何かに気づいたらしく、
「一緒に帰りたいのだよ、黄瀬」
と続けて黄瀬を見つめた。
わけが、わからない。正直、なにが起こっているのかわからなかった。黄瀬は目を丸くして口をぽかんと開けたまま、思考停止しかけている頭を再起動すべく、必死になって考えた。
今、緑間はなんと言ったのか。というところから初めて、一緒に帰りたいというのは、つまりどういうことだろうかというところで必ず詰まる。
時間が欲しいだとか、一緒に帰りたいだとか。そんな甘い言葉を緑間の口から聞くのが久し振りすぎて、今にも涙が出そうだった。
けれど、痺れるようなくすぐったいような緑間の要求を素直に受け取ることが、どうしてもできない。黄瀬を素直にさせまいと立ちはだかっているのは、理由があるとはいえ、一ヶ月近く放置されていたということ。
自分だって不満に思っていながらも、会いたいだとか話したいだとか、そういう欲求を緑間にぶつけなかったのだから同罪だ。ここぞとばかりにバスケに集中して、完全無欠の模倣を完成させたのだから、人のことは言えない。
緑間を意識しすぎていて気にしすぎているのは自分だけ。緑間がなにを考えているのかなんて何一つとしてわからないのだけれど、揺らぐことなく真っ直ぐ前を向いているのだろう、ということだけはわかる。
緑間はいつもそう。中学の時だってそうだった。
揺れないし、ブレない。
緑間とつき合うことになってから、少しくらいは自分の存在が緑間のそういう鋼のような心を揺さ振ったり、影響を与えることができているんじゃないか、と思っていた。それは自分の思い上がりで、少しも影響を与えることなんてできていないじゃないか、と自棄になっていたのはつい数分前までのこと。
今は、やっぱり少しくらいは緑間の心にひっかき傷をつけることができたのかもしれない、と。浮かれて頬が緩みそうになったところで、黄瀬は慌てて眉を顰めた。
それを緑間がどう受け取ったのか。緑間は微かに目を細めて首を傾げると、
「黄瀬、オレはオマエを迎えに」
「わ、わー! わ、分かったっスから、それは分かってるっス! 分かってる分かってる、めっ
ちゃ分かってるからっ!」
「……黄瀬。どうしたのだよ、そんなに慌て」
「慌ててないっ! つか、どうしたのだよ、はこっちのセリフっスよ!」
黄瀬は、どうしてかそれ以上は喋らせてはいけない、と咄嗟に感じて、緑間の言葉を遮るように喚いた。言葉を遮られた緑間の顔がどんどん険しくなっていくのわかる。
ああ、ごめん。でもちょっと待って。このまま緑間っちを喋らせたら、赤面どころじゃすまなくなりそうで、恐い。迎えに来てくれただなんて嬉しい。けれど、今までの冷却期間を思い出すと、どうしても素直になりきれない。
黄瀬はひとつ深呼吸すると、
「……もういいから、緑間っちはちょっと黙って」
そう言って再度緑間を遮って、興味深そうに黄瀬と緑間を見ている先輩方に緑間と帰ることを告げたのだった。
一ヶ月振りに緑間と肩を並べて話している。それは酷く懐かしい距離感で、頬と涙腺が緩みだしている。
あの後。緑間は黄瀬に「話がある」と告げた。緑間の口からそんな単語が漏れると、黄瀬は大体よくない妄想が頭の中を駆け巡る。つまり別れ話だとか距離を置こうだとか、そういう話。
八月からつき合い始めて、今は十二月。四ヶ月か、意外と長かったなぁ。と、これからやってくるであろうダメージを最小限に留めるべく、黄瀬の頭と精神は勝手に結論を妄想し、期待なんて初めからしていないとでもいうかのように表情を引き締めた。
そうして緑間に連れてこられた公園のベンチに座り、緑間の話を聞いている。
淡々とした、けれど心臓をくすぐるような甘く痺れる声。棘のないそれが、かえって黄瀬の心臓を抉る。それを緑間は知っているだろうか。きっと知らないんだろうな、と意識を飛ばしていると、唐突に名前を呼ばれた。
「黄瀬」
はっとして、緑間のほうを向く。外灯の灯りの中に浮かぶ黒髪と深い緑色をした双眸。その眼は黄瀬が思っていたよりもやわらかい。けれど少し緊張しているようだった。透明なレンズの向こうで深緑色の瞳が揺れている。
緑間は黄瀬の手を慎重な手つきで取ると、きゅうと握り締めた。
「オレは大体いつも、オマエのことしか考えていないのだよ。だが、オレはいつもオマエを不安にさせているな。……それが辛いなら、もうやめるか? ――……オレはやめたくないのだが」
「オレだってやめたくないっスよ! ……やめたく、ない……」
黄瀬は叫ぶように告げた。告げて、ひと息吐いて再び言葉を続けようとしたけれど、喉が詰まって言葉が出ない。否、詰まったのは言葉ではなく胸と心だ。詰まった鉛のような塊を無理矢理呑み込んで、黄瀬は続けた。
「やめたくないっス……でもオレ、本当は全然自信ないっス。緑間っちに好きでいて貰う自信が
ないんスよ……」
「なんだそれは……自信だと? そんなこと、オレは……」
「緑間っちが気にしなくても、馬鹿馬鹿しいと思っていても、オレは違うんスよ。緑間っちには上手いこと隠してっけど、オレ、本当に矛盾ばっかで……緑間っちみたく頭よくねーし……すぐ変なこと考えるし、マジで自信ないんスよ」
黄瀬は不安な気持ちを涙と共に吐き出した。
緑間のことが好きだ、というのは変わらない。緑間も黄瀬を好いてくれている、ということもわかっている。けれどこの先、どれくらい好きでいてくれるだろう? そう考えると、恐くて恐くて仕方がなかった。
自信がまるでない。今まで誰かに好かれることはあったけれど、こんなに好きになったのは初めてなのだ。
嫌われたら生きていけない。けれど、実際に自分は死なないのだろう。
けれど心は死んで、世界から色が消えるのだ。
この関係が続くわけがない。もしここで止めることができたら、これ以上傷付かなくて済むかも知れない。そう思って予防線を張り、いつか来る終わりの日に備えている。そういう自分がとてつもなく情けない。黄瀬は鼻をスンと啜って、こぼれそうな涙を懸命に抑えた。
「オレさ、ダメなんスわ。別れたくねーのに、終わりの日のことばっか考えて、ひとりで勝手に
不安に思ってんの。だって、こんなんずっと続くなんて思えねーし。……オレは続けたいんスけ
どね、緑間っちは違うかもしんないし。なにかの間違いだったって、冷めるかもしんねーし」
黄瀬は、はぁ、と涙混じりの溜め息を吐いて言葉を区切った。ずっと閉じ込めておこうと思っていた不安が次から次へと溢れ出て、どうにも止まらない。区切ったところで止まるわけもなく、黄瀬の口が、喉が、勝手に震えて言葉を紡ぐ。
「だからさっき、緑間っちにやめるかって言われてさ、ホントはちょっと安心したんスよ。これ
でもう、不安に思うことがなくなるんだって。でもさ、やっぱダメなんスわ。諦めらんねーの。
緑間っちの隣にさ、隣に立つのはオレだって思っちゃってんの。緑間っちの隣に相応しいかなん
て、全然足んねーって分かってんのに」
「いいや、オレの隣に相応しいのは黄瀬、オマエなのだよ」
黄瀬の嘆きを止めたのは、緑間の断言だった。迷いのない一本筋の通った凛々しい声。暗闇を切り裂くような、深い森を切り分けるような。
黄瀬はそれを、緑間の優しさだと受け取った。けれど緑間は「いいからオレの話を聞け」と言って、黄瀬の手を握っている手に力を込めた。黄瀬が思わず怪訝な表情を浮かべて首を傾げると、緑間は眉をハの字に垂れ下げ困ったような顔をして、
「黄瀬、オレはな。正直言うと、オマエのことがよく分からないのだよ」
「……そりゃ、そうっスよ。オレと緑間っちは全然違うっスもん」
「ああ、そうだな。だからこそ、オレは言葉を尽くさねばならなかったのだよ。しかしオレは、オマエに甘えてそれを怠った」
「……そんなこと、あったっけ?」
「あった。その証拠に、オマエはこうして不安を抱えているのだよ。オレはそれが」
一度言葉を切って、緑間は息を吸った。そして一回吐いて、また息を吸う。
「それが、どうしようもなく情けなくて、不甲斐ないと思っている。黄瀬、オマエはオレに嫌われたら生きていけないとよく言うが、それはオレも同じなのだよ。オマエに『距離を取りたい』とメールを打ってから三日もオレは、ぐだぐだ引き摺ってバスケも碌にできなかった」
本当に情けないだろう、オレはこんなにも器の小さな男なのだ。と、緑間が言う。そんなこと、自分も同じだ。と告げる前に、緑間が言葉を重ねた。
「いつ冷められるか、など……そんなことはオレの方がいつも思っていることなのだよ。オレはオマエのように社交的ではないし、言葉も足りない。面白い話などネタはないし、オマエに教えられるのは勉強くらいなものなのだよ。オレはいつも、それ以上にオマエから貰っているというのに」
「……え? なんスか、それ。オレだって緑間っちに貰ってばっかで、なにもあげれたことなんてないっスよ!?」
「そんなことはない」
緑間が即答して黄瀬の言葉を否定した。だが黄瀬も譲れない。
本当に心当たりがないのだ。いつも緑間から貰ってばっかりで、尽くして貰ってばっかりで、少しも返せている気がしない。我が儘を言って困らせて、それでもぎこちなく笑って受け入れてくれる緑間が、どうして貰ってばかりだというのだろう。
「ない、って言っても……!」
「ないのだよ、黄瀬。そんなことはない。オマエはオレに、形にも言葉にもできないものをくれたのだよ」
「……緑間っち」
「黄瀬。オレは前に覚悟の話をオマエにしたな。覚えているか?」
「あ、うん。覚えてるっスよ。……それが、なに?」
「黄瀬、オレの覚悟がどういう重さを持っているか、オマエは知らないだろう?」
緑間が黄瀬の目をじっと見つめる。深い緑の目の奥は、チカチカと瞬く強い光が灯っている。それは強固な意志と、背筋がゾクリと震えるほどの執着心だ。
「……えっと……え?」
こんな緑間は見たことがない。まるで狩りをする獣のような。優しいだけだと思っていたけれど、緑間だって獰猛な雄を内側に飼っているのだと、思い知らされたような。
すると緑間が、そっと手を伸ばして黄瀬の前髪に触れた。指で掻き分けて梳くように撫で、一瞬見せた獰猛さを隠すように二回瞬きをしてから、
「オレはな、黄瀬。オマエと付き合うと決めたときから、オマエを選んだときからもう、オレにはオマエしかいないと思っているし、オマエとこの先も共に歩んでいきたいと思っている。そう決めてしまったのだよ。おかしいだろう? だが、そんな先のことまで考えているのだよ、オレは」
言って、緑間は自嘲気味に笑った。きまりが悪そうに逸らされる視線が、惜しいと思ってしまうほど、黄瀬は緑間を凝視している。
緑間は一度逸らした視線を再び戻すと、
「それをオマエに無理強いする気はない。オマエもオレと同じように考えて欲しいと、言う気はないのだよ。それでも……知っておいてくれないか」
「えっと……緑間っち?」
黄瀬の声が上擦った。それは過剰な期待からだ。けれどもしかしたら、過剰ではないのかも知れない、という予感に黄瀬の心臓がドキリと震えた。
口数の少なさの裏に、それほどにまで強い愛情を抱え込んでいたなんて。
黄瀬は潤みかけた涙の気配に鼻を啜って、涙腺を引き締めた。
「黄瀬、オレは大抵オマエ中心に考えているし、オマエを大事にしたいのだよ。オマエは目の前のことしか見ていないようだが、逆にオレは先のことしか考えていない。ならば、調度良いとは思わないか。足して二で割ったら、ひとつになるのだよ」
「……緑間っち、マジでどうしたんスか。そんなこという人じゃなかったと思うんスけど」
黄瀬の声は、まだ上擦っている。口から出る言葉と本心がずれるのは、よくあることだ。期待で緩んだ表情で、黄瀬は緑間の次の言葉を待っている。
「オレをここまで変えたのは、オマエなのだよ、黄瀬。オレにはオマエが必要なのだよ、黄瀬。だからこの先、オレと共にいてくれないか」
そんなこと。答える言葉はひとつしかない。
だから黄瀬は、花が咲くように顔を綻ばせてひとつ大きく頷くと、
「……いる。ずっと一緒にいるっスよ、緑間っち」
そう告げて、隣に座る緑間に抱き付いた。それは、黄瀬の世界に色彩が戻った瞬間だった。
end.
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