小説 | ナノ
>>グラセの村のトト



風が吹く。

身体をすっと通っていくような暖かな風は、仄かに花の蜜の甘さを漂わせた香りを運び、鼻腔を擽る。
枯れた中から飛び出す様に生えてきた青々しい草たちは緩やかに風の撫でる方へ靡く。
手を伸ばせば届きそうな、目の醒める青い空。

頬に当たった小さな花弁に、漸くこの山間の村グラセに春が訪れたのだと歓喜した。




暖かな気候は僅かで、後は寒さが大半を占めるグラセは遊牧民がいつの間にか定住して作り上げた村である。
家畜から取れる乳と寒い気候の中で育てられる僅かな穀物とで食を繋いでいる、はっきりいって貧しい村であったが、それでもトリストラムは此処が好きだ。
元遊牧民と言う事もあって掟に従わないであろう余所者に冷たいのかと思いきや、迷い人を暖かく迎える姿勢。そして、貧しいけれども誇りを捨てずに甘言に乗る事を決してしない彼らがとても好ましいのだ。

杉の幹を少し濃くしたような癖のある茶の髪に、鮮烈な印象を与える・・・正にコバルトブルーという例えがぴったりであろう青い瞳。顔立ちはまあ一般的に見ればそこそこ、とでもいえるだろうが、美形とは言い難い。肌の色は山間の民に比べて幾分か焼けている。
年の頃は十代後半で、背丈はこの地方では標準である百七十五センチメートルよりもより少し上。体格はこの年代の青年よりも少ししっかりしている程度。
それがこのグラセに住む、トリストラムの外見的特徴だ。

外の空気をめいっぱい吸い込み春の訪れに口元を緩ませていたトリストラムであったが、次第に表情は険しくなっていく。
青を基調とした装いはこの山間の村で生きていくには少し華やかではあるが、この村に合った衣服はもう彼には必要が無いのだ。よくよく見れば彼が持っているのは、多くの荷物が入りそうな旅用の鞄であった。

そう、トリストラムは今この瞬間出ていくのだ。グラセから。

出来るのならば、このままこの村で時を過ごしたかったのだが。

「本当にいいのかい?」

不意に掛けられた声に、驚く事は無くトリストラムは振り返る。
「ああ。俺が行くのが妥当だ」
「そうじゃなく、気持ち的な問題さね」
青い瞳を優しげに細め、トリストラムが見たのは老婆だった。優しさを姿形で現したような老婆は、だが、その表情は寂しそうである。
言われてトリストラムは顎に右手を当てて考える素振りを見せてから、
「正直に言うと此処でずっと皆と過ごしたい、とは思う」
「だったら」
「でも」
老婆の言葉を申し訳ない気持ちで遮りながらも、トリストラムは続ける。
「それでは、いけないとも思ってはいるんだ。甘えだけで居たくないし、それに、恩を返したい」
恩なんて気にする事は無いんだよと老婆は言いたかったが、トリストラムの真剣みを帯びた目を見てしまっては何も言う事が出来ず、
「アロア達が寂しがるねえ・・・」
独り言のようにぽつりと呟いた。
その呟きに心の中でこっそりと謝罪し、またあとで、と小さく告げると鞄を持ち直し歩きはじめる。
老婆の後ろからやってきた村の人々から、気を付けてね、頑張れ、応援してるぞ、というトリストラムを励ます言葉が投げかけられる中、
「それにしても、来いとか命令しておいて馬車の一つも寄越さないなんて、勝手な所ね」
「全くだ、何かあったら抗議してやる」
「そうだそうだ、うちの大事な働き盛りの男を奪うんだからね」
という、村人たちの憤慨した言葉が聞こえてきて思わず破顔しそうになる。

本当に己の事を村の一員だと家族だと思って接してくれているのだと、そう思うだけで何とも言えない浮遊感と心地よさを覚える。

トリストラムは、余所者だったのだ。




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