幸せって、なに。 *


「ただいま。」
「お帰り、遅かっ」
「うわ、まだ起きてたの?寝ておきなよ。」

あー疲れた。言いながらバレッタを外した***はジャケットを手に脱衣所へ入っていく。外す際に見た腕時計は深夜零時を悠に越え二時近くになっていた

「・・・明日も会社?」
「何度言わせるの。年度末まで忙しいって」
「俺たちさ、夫婦でいる意味ある?」
「逆の立場なら何を考える?疲れてクタクタになって帰ったら妻からの文句。なら独り身が気楽と考えるでしょうよ。」
「っ、子どもも夜の営みも仲睦まじい休日も食事を一緒に楽しむことも全部諦めた。***は仕事が生き甲斐のワーカホリックだし対する俺は***の半分でも稼げたら良い方の定時出社退社男だよ。わかってるよ***だって朝早く起きて洗濯してくれたりゴミ出しもしてくれて休みには作り置き料理とか下拵えとかしてくれる。充分過ぎるよ文句なんて俺はいっちゃいけないよだって、無理矢理結婚してもらったんだから。」
「要点をまとめて。明日お客さんと打ち合わせだから」
「離婚、しよう。」
「わかった。夜間窓口に行く前に財産分与について取り決めましょう。」

リビングへ入りコピー用紙を引き出した***はボールペンを走らせる。独身時代の貯金を抜いた現在の貯金額を通帳を見ながら記載し、あなたもと顔をあげた

「なに入り口で突っ立ってるの。早く教えて。」
「なんで、そんなあっさりなの。」
「ごねられたかったのなら、私は適任には程遠い。」
「俺との結婚生活って、***にとってなんだったの?」
「今それを聞いて何になるのかさっぱりわからない。」
「そんな事務仕事を処理するみたいにさ」
「尾浜勘右衛門。あなたが離婚を切り出し私に非がある。なら慰謝料として私名義のこのマンションをあなたに渡す。財産は半々。この条件は不服?」
「だからっ、」
「有責の私が条件を決めるのは間違いだろうから条件を提示した。遡って、あなたはこういう処理に感情移入する性格だから私が仕切りだした。問題はどこ?」

そりゃそうだけどさ、違うじゃんやっぱり。呟く勘右衛門に、***は深いため息をつく。心底呆れたような顔に、勘右衛門は顔を反らしそれでいいと吐き捨てた

「明日午前中にはここをでる。荷物を取りに弁護士と業者が来るから。」
「・・・どこに、住むつもり?」
「それはあなたが気にすることではない。」

顔馴染みの弁護士に電話をかけだす***に部屋から出て行った勘右衛門は、こんな時間に本当に申し訳ないと透る謝罪に唇を噛んだ
ダブルベッドの寝室は、勘右衛門が唯一***の近くにいられる聖域だった。まだ夜は長いだろう、それでも出て行く準備のために***は夜通し起きているのだろう

結婚式の写真が飾ってあるクリスタルの写真たてを手に、勘右衛門は苛立ち全てを込めそれを壁に叩きつけた

「***にとって、俺って、なんだったんだっ・・・!」

朝が来るのが怖い。朝が来れば***は離婚届を提出し晴れて独り身に、勘右衛門はこの広いマンションで独り静寂を噛みしめるのだろう
あの瞬間が一番幸せだったと乾いた笑みを浮かべる勘右衛門の目から、雫がとめどなく落ちていった




幸せって、なに。




「これでバツ2か。」
「仕方ない。私は結婚生活不適合者だから。」
「だから私にしておけといったろう?」
「今度は大丈夫だと思ったの。バツ理由伝えて同棲もして笑って俺なら大丈夫だからと・・・手を、握って目を見て訴えてくれたから。この人とならもしかしたらと、要は錯覚したわけ。」

マンション譲渡の書類に印を捺した***は出してこないとと離婚届を取り出す。殴り書いたような勘右衛門の文字に印字のような***の文字。泣くわけには行かないよねと、目を細め尾浜勘右衛門の文字と尾浜***の文字を撫でた

「泣きたいなら胸を貸すよ。」
「利吉くん。」
「ごめん割と本気。」
「私にも好みはあるの。」

酷いいいようだが勘右衛門と前の夫に共通点がないように感じる利吉は首を傾げ、気づいた***にどんなと問う
***は教えないと離婚届をしまい、小さくため息を吐き出した

「好いた腫れたなんていう曖昧を、理解する日は来なさそう。大切な人では、あったけれど。」
「君のそれは親からの負の遺産だ。破棄するためにもカウンセリングへと何度言えばわかるんだ。」
「会社にはもちろん夫や彼氏にも話していないの、そんな中での病院通いは不審よ。それに、仕事はこちらのほうが好都合。」

天国と地獄のメロディーが突如鳴りだし、利吉はがたんと膝をうつ。なにしているのかと首を傾げながらスマホをみた***に出ないのかいと膝をさすりながら尋ねた利吉は、勘右衛門だからと首を振る姿にいいならとソファーへ座り直した。そして天国と地獄が終わり録音画面になったスマホは伏せられる

「・・・もう一度だけ、話し合ってみたらどうだ?」
「無益な時間の浪費はあなたも嫌いでしょうに。」
「無益じゃないよ、多分。」

再び、今度は運命が鳴り響き***まで驚きを見せた。どうやらメールのようで、***は訝しげにメールを開く
開いてすぐに、勢いよくソファーから立ちまた今度と理由も告げず事務所から飛び出してしまった

***がタクシーをつかまえマンションへ戻ったのは30分後。そこにあったのは液晶の割れたスマホただ一つ、***の帰りを待っていた

「・・・なんで、」

ぽろりと、涙が一粒おちる

「勘右衛門。」

小さな子どもが叱りつける親を見上げるように、***は天を仰いだ

「あなたが最後。あなたで最後。あなたが真っ直ぐ私を見てくれたから、あなただから。」

私も、人みたいに泣けるのね。冷静な自分の嘲笑に、***は泣きながら救急車をよんだ




『大丈夫なんて嘘ついてごめん。どうしても一緒になりたかったし、大丈夫は一生だと思ってた。もし、もし次出逢いがあったらさ、名前くらいは、呼んであげなよ。他人行儀じゃなくってさ。それだけ。俺出掛けるから・・・その、元気で、ありがとう・・・俺***をまだ愛し』


勘右衛門の知る***の性格上二度と***はマンションには来ないはずだった。それを裏切った***がみつけた封筒には遺書の二文字が震える字で刻まれている



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