目をそらさずに
自分の弱さを正直に認めるのは難しいのだと知った。
私の場合、自分のすること為すことすべてに悪い影響を与えていたのが、
“人の目ばかり気にしてしまう”
ということだった。
例えば、成績があまり良くなかったとき。
私は何を恐れていたのか。
この次も、また悪い点数を取ってしまいそうな自分が怖かったのか。
それは違う。
私はそういうとき、むしろどうにかしようと気合いが入る方が多いから。
それでは点数そのものが怖かったのか。
いや、それも違う。
点数の低さには、頑張れなかった自分とその結果がほとんどそのまま表わされる。それを見直すことで次にどうすればいいかということはたくさん分かってくる。振り返るいいチャンスなのだ。
私は……そう、人の目を一番怖がっていた。
先生の目、家族の目、「どうせ悪いと言って点良かったんでしょ」という友達の目、「あの人今回成績下がったらしいね」、という周囲の目、そんなものが怖かった。怖くて、勉強していた。
確かに長年自分で思ってきた通り、自分にできる限りのことをしていかないと後ですごく悔しくなるからという理由もうそではない。うそではないが、それ以上に私は人の目を怖がってきたんだと思う。
結局私は人に悪く言われるのが嫌で、いつでもみんなにすごいと思われていたかったところがあったのだろう。
そんな考え方になってしまったのは、過去の私に原因があると思う。
それは小学生の頃。
私は、よく考えてみたらそんなことをされるのは自分だって嫌だということをして、友達を困らせてしまった。その結果、休み時間も一人で過ごすことがほとんどになったのだ。
何事もないように普通に普通に、と過ごしてはいた。それなりに楽しいこともあった。けれども、その当時はなぜ一人になってしまったのか見当もつかず、実は相当傷ついていた。
そして心のどこかでささやいていたのだ。
ひとりでいるのは嫌だ。
みんなと一緒にいたい。
みんなにもっと見てほしい、と。
中学、高校とあがるうちに、あの頃の自分がやってきてしまったことがだんだん分かってきて、それをもとに自分を持ち直すこともできてきた。
しかし、ひとりでいたときに無意識に感じていたことはそのまま私の中にくすぶり続けていたのだ。
『少なくとも成績が良ければみんなに見捨てられることはない。すごいと言ってもらえる。』
そう思う自分がきっとどこかにいたのだろう。そのために勉強していた、さみしい自分がどこかにいたのだろう。
だからこそ、成績が良くなかったときは怖かった。
一度「底」を経験してしまったから、少し悪く言われたり、誰かに厳しい顔をされたりするともうそれだけでびくっとして悲しくなってしまう。
しかもそれは勉強だけではなく人間関係から普段の生活まで密かに影を落としていた。
私があまり話をしたこともない人にほとんど自分から話しかけないということもこういった理由からだ。お互いをよく知らない故に自分の言ったことで嫌われてしまったり、相手を傷つけてしまったりして、まわりにそのことをうわさされるのではないかとびくびくしてしまうのだ。
どうしても勇気が出ない。
そういう態度であるからこそ反対にとっつきにくい人だと思われてしまうこともあるのに。
考えれば考えるほど、人の目を気にして生きてきた。
そこまで気にする必要はあったのか……。
あの頃のまま、何も変えられず私の中にうずくまっていた小さな私がそこにはいた。自分でも受け入れられていなかった存在。
本当は、ずっと前から私は彼女を知っていたんだと思う。
でも、自分を変えたくなくて気がつかないふりをしていた。もう小学生の自分とは違うと思いたかったのだ。
ちっぽけなその自分の姿を認めてしまえば、何もかもが音を立てて崩れていきそうだった。しかし、見てみぬふりはもう限界だった。私は認めるしかなかった。
そこで高校生活のある日、とうとうごまかし続けてきた自分の内側を正視したのである。
悲しかったし、つらかった。泣けてきた、そして……その後、不思議なことに……。
妙にすっきりしてしまったのだ……。
長い間心に引っかかっていた何かが、やっとはずれた、そんな感じであった。
気づいたから、いや認めることができたからといって、すぐには本当の意味ですべて変えてしまうことはできないだろう。だが自分の弱さを認めることで確実に目の前の世界が広がった。長い間ためらって踏み出せなかった一歩を、やっと踏み出せた。
弱い自分からも、強い自分からも目をそらさずに生きようと思った。
そうすることで、私は私の中の孤独な私をまず自分から受け入れてあげることができる、そんな気がする。