「『死』に関する一考察」
- ナノ -



「『死』に関する一考察」  (お題:「死」 かみーゆさんより)



 いつから考えるようになったのだろう?
 死ぬというのは、どういうことなのか。
 死んだら、どうなってしまうのかを。


 死を迎えた身体は、確実に「死ぬ」。
 冷たくなり、固くなり、それも超えれば腐敗して朽ちる。
 では、心はどうなるのか。
 今こうして「死」について考えている私は、死んだらどこへ行くのだろう。
 物語なんかによくあるように、魂だけの存在になるのだろうか。
 身体は死んでも、心は残るのだろうか。
 それとも、突然、意識も心も何もかも途絶えて、もうそれきりになってしまうのだろうか。
 そもそも、心とは何だろう。
 それは単なる脳の科学的反応にすぎないのだろうか。
 もしもそうならば、間違いない。身体が死ねば、心も確実に「死ぬ」。
 身体の死と共に、彼の意識はこの地球上から永遠に消えてなくなるだろう。
 だが心とは、本当にそんな単純なものなのだろうか。

 それなら、と自分に問う。
 生きるとはどういうことなのか。
 生きるとは、生きることだ。
 食べて、寝て、起きて、学校や仕事に行ったり、家のことをしたりなんかして、日々を送ることだ。
 まったくもって、私は今、ここに生きている。
 けれど、それは本当だろうか。本当に私は今、生きているのだろうか。
 夢のなかでは、夢のなかで起きたことを現実だと思って疑わないことがあるだろう。
 それと同じように、実はこの現実がすべて夢だということはないのだろうか。
 ここに「生きている」と自分で思い込んでいるだけで、本当は「死んでいる」ということはないのだろうか。
 そもそも、「死」とはどういう状態のことをさすのだろう。
 身体が死んだら、たとえ心がどこかに存在しても、「死」なのだろうか。
 身体が正常に動いていても、意識がずっと戻らなかったら、それは「死」なのだろうか。
 心も身体も失われ、この世界から消え去ることは、本当に「死」なのだろうか。

 「生きていても死んでいる」、ということはないのだろうか。
 あるいは「死んでいるが生きている」、というようなことは。
 何かをする力があるのに、ただ息をしてそこにいるだけということを、「生きている」と言うのだろうか。
 まったく何も感じず、考えもせず、まるで機械のように、食べて、寝て、起きて、学校や仕事に行ったり、家のことをしたりして、また食べて、寝て、起きて……と、ただ徒に毎日を繰り返すことを、「生きている」と言うのだろうか。
 ひとも自分も大切にせず、恣意的に誰かを傷つけ、誰からも、自分自身からも、忘れてしまいたいと思われたとしても、そのひとは「生きている」のだろうか。
 そのひとが残した何かが確かに誰かを支えているのだとしても、そのひとは「死んでいる」のだろうか。
 大勢でなくてもいい、そのひとがいたということを記憶し、大切に想い続ける誰かがいるのだとしても、そのひとは「死んでいる」のだろうか。
 存在すること。
 それは「かたち」としてそこに在ること、だけではない。
 誰かの心に、この世界自体に、そのひと自身の息吹を残すこと。何か前向きな、よい影響を及ぼし続けること。
 それはまぎれもなく、そのひとが存在し、「生きている」ということなのではないだろうか。
 なるべく存在しないようにして存在したり、誰かの心やこの世界自体から忘れられようとする行いをしたりすることは、「生きている」と言えるだろうか。

 死ぬのは怖い。
 なぜ、怖いのだろう。
 それはもしかすると、地位、名誉、富、立場、その他あらゆる利害関係や人間関係に基づくものもあるかもしれない。
 しかし今は、なるべく「死」そのものについての怖さを考えることにしよう。
 自分が死ぬことを想像してみる。
 老衰で眠るように死ぬことは、なぜだか上手に思い浮かべられない。
 病気で死ぬかもしれない。事故や事件にまきこまれて死ぬかもしれない。
 死は苦しいだろう、と思う。あるいはものすごい痛みを伴うだろう、と。
 だから、怖い。体に加わる、まさに想像も絶する負担と苦痛が、怖い。
 だが、それだけであろうか。
 死んだら、この自分の心がどうなってしまうのか。それがわからない故の恐怖はないか。
 「生きている」ときは、自分の意識から逃れることができない。
 目で見、耳で聞き、体で触れて、心で感じて、自分自身が認識した世界を、私たちはそれぞれ生きている。
 世界とは、私たちひとりひとりの「認識」の形でもあるのだ。
 それではもし、体の「死」が心の「死」でもあったら。
 自分の意識が消え、世界を認識することができなくなる。
 それはつまり、自己の死とともに、世界も失われるということだ。
 まるで、永遠に夢も見ず、醒めることもない眠りに落ちるように。
 「自分が消える」という状態を、生きている限り、私たちは決して想像することができない。
 ところが死ぬとそうなるかもしれない。それは、言いようもない恐怖ではないだろうか。

 誰かが死ぬ、ということについてはどうだろう。
 特に、自分と近しいひとの死。
 自分が死ぬのではない。だから、直接、自分の体には痛みも苦しみも生じない。
 だが、思いを巡らせてみる。
 たとえば、家族が死んだら? 友人が死んだら? 好きなひとが死んだら? 
 そのひととは二度と会えなくなり、共に何かをすることも、言葉を交わすことも、そばにいることもかなわず、永久に、そのひとを「失ってしまう」。
 それはやはり、恐ろしいことではないだろうか。身の引き裂かれるほどの苦しみではないだろうか。
 「失う」ことへの恐怖は自分の死にもつきまとう。
 「自己の死とともに、世界は失われる」のであった。
 それは、大切なひとたちとも、大事にしていたものとも、美しい自然、生き物、……「生きている」間にこの心を動かした、すべてのものに永遠の別れを告げるということでもあるのだ。

 しかし今一度、立ち止まって考える。
 「死んでいる」ものは、本当にすべて死んでいただろうか。
 「死んでいるが生きている」というものはなかっただろうか。
 自分が死ぬ。それは、世界が失われることだ。
 自分が消えるのに伴って、世界は姿を消してしまう。
 けれども、誰かの死を考えるとき、わかる。そのひとが死んでしまっても「世界は続いている」。
 決して、世界「そのもの」が消えてしまうわけではない。
 そのひとの「認識」する世界は途絶えてしまうかもしれないが、私の世界も、他の誰かの世界も、まだ、確かに続いている。
 そのそれぞれの世界のなかで、彼は、存在し続けることができる。
 私が彼を思うとき、彼は私のなかで「生きている」だろう。
 誰かが彼を思うとき、彼はその誰かのなかで「生きている」だろう。
 そして、彼が生きたことで世界「そのもの」に生まれた何かよきものは、彼自身の息吹をつなぎ続ける。
 そのよきものは彼を知らないひとにも、めぐりめぐって何かの影響を及ぼしていく。
それは世界「そのもの」の一部となって「生きていく」ということだ。たとえ彼の名を知るひとが、誰ひとりいなくなってしまっても。
 死ぬことは、そこにはじめからいなかったこととは全く違う。「死」を迎えたからといって、はじめからそのひとがいなかったことには、決して、ならない。
 彼自身が居た痕跡は、どこかに刻まれてゆく。

 そうであるならば、もし、身体の「死」が、同時に心の「死」であったとしても。
 私たちは、誰かのなかで、あるいは世界の一部として、どこかで生き続けることができる。
 消えてなくなったりしない。
 バトンを渡すように、心を継いでいく。
 受け取ってくれるひとがどこかに必ずいる。
 世界「そのもの」が受け止めてくれる何かは、必ずある。
 だからこそ、懸命に生きなければならない。
 この人生は、いろいろなひとの存在や、彼らから受け継いだ心で成り立っているのだ。
 その心に支えられ、守られ、ときには叱られながら、生きている。自分ひとりで生きているわけでは、決してない。
 自分のやり方でいい。表現方法でいい。自分にでき得る限りのことでいい。
 だが、心を継ぎ、自らもいつの日か、自身の心を誰かに繋げるために、懸命に生きなければならない。
 「死んでいるが生きている」ということがあったように、「生きていても死んでいる」ということがあるのだった。
 もし、そんなふうに生きてしまったり、自分や誰かの心身を疎かにして切り捨てたり、あるいは、継いだバトンを投げ出すようなことをしてしまったならば、自分自身も、誰かに心を継げなくなってしまう。
 それどころか、誰かに渡してはならないようなバトンを押し付けてしまうことになるかもしれない。
 そのときこそ、自分という存在が世界から消え去るときとは思わないか。
 そうして、ひとがみな、心を受け継ぎ、自分の心を誰かに継ぐことをやめてしまったら。
 そのときこそ、ひとにとっての世界「そのもの」が滅び去るときとは思わないか。
 漠然と、感じる。
 「死」は、全ての終着点。終わりなのだ、と。
 しかしおそらく、それまでとは世界での「在り方」が変わるだけで、全てが終わるわけでもなくなるわけでもない。
 それは希望の光であると同時に、大きな責任を伴うことでもある。
 全てを終わらせるため、安易に「死」という方法を選ぼうというのなら、今一度よくよく考えたほうがいい。
 私たちひとりひとりの「生」……そして、「死」は、想像以上に、自分自身を、ひとを、世界を、左右していくものなのだ。

 最初に考えた。
 実は、この現実がすべて夢だということはないのだろうか、と。
 ここに「生きている」と自分で思い込んでいるだけで、本当は「死んでいる」ということはないのだろうか、と。
 たとえこの、「現実」だと思っている世界が、すべて「夢」であったとしても。
 たとえここに「生きている」と思い込んでいるだけで、本当は「死んでいる」のであっても。
 それでも、今この場所、この時に、自分という存在が心を持ち、世界を認識し、そのなかで日々をすごしていることは確かだ。
 自分の認識する世界の枠を超えて、誰かの認識する世界で、自分もひとも存在し続けることができるのは確かだ。
 世界「そのもの」に、私たちはみな、存在し続ける。形を変え、生き続けることができる。
 ……そう、存在すること。
 自分のなかに、誰かのなかに、この世界に、何か前向きな力を持って、存在し続けること。
 それこそが、生きるということではないだろうか。
 自分にも、誰からも、この世界にも、その存在を決して顧みられなくなること。
 それこそが、死ぬということではないだろうか。


 みなさんは、どう考えるだろう。






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