★舞台袖の幸福

 体温計が表示する温度は朝も昼も変わらない。38度なんて、いつ以来だろう。

 あれだけずぶ濡れになれば風邪を引くのも当たり前だった。一人暮らしで、冷蔵庫にもまともな食事は入ってなくて、病院にいく元気もない。おまけに風邪で学校を休むなんて、椚先生に怒られる未来しか見えなかった。いやだ、考えたくない。

 ピンポーーーン

 なんとも間抜けな音が部屋に響く。何か配達を頼んだ記憶もないし、来客の予定なんてあるわけない。全身だるくてモニターを確認しに行くこともなく布団をかぶると、今度はスマホが小さく震えていた。画面に並ぶ4文字に、なんで、とつぶやいた。

「もしもし、なまえ?」
「り、凛月くん」
「今家でしょ? インターホン鳴らしたの俺だから、開けて〜」
「へ……?」

 なんで、と本日二度目のつぶやきだった。よろよろとインターホンのモニターボタンを押すと、画面越しに凛月くんがひらひらと手を振っている。うまく働かない頭で、とりあえずエントランスを開けて、部屋の鍵を開けに行く。エレベーターがのぼってくるまでの時間差で、アイドルを風邪っぴきの部屋に招いてしまったことを後悔した。

「おい〜っす」
「あ、あの、なんで」

 言い切る前に、右手に持っていたスマホがまた震えている。画面に浮かんだ文字は、さっきとは違う4文字。その名前を凛月くんに見せると、出たら? と簡潔に言われてしまった。

「も、もしもし。衣更くん?」
「あ、なまえ? ごめん、忙しくて連絡遅れたんだけどさ。凛月がお前の家に向かったって知らせとこうと思って」
「……うん、目の前にもう、いる」

 どうやら、凛月くんは看病しに来てくれたらしい。呆気に取られていると凛月くんが私のスマホを奪って、衣更くんとひと言ふた言言葉を交わすと電話を切ってしまった。靴を脱いで、私の手を取って部屋の奥に入っていく。彼がベッドを認識すると、有無を言わさず寝かされた。

「熱、何度あるの?」
「さ、37度」
「……ねぇなまえ。俺に嘘なんてついてないよね?」
「……ごめんなさい、38度、です」

 がさがさと持っていた袋をあさって、そこから出てきた冷えピタをおでこに貼られる。冷えピタもそうだけど、かすかに触れた凛月くんの手が冷たくて心地よい。

「差し入れ。ま〜くんとかナッちゃんとかセッちゃんとか、とにかくいろんな人から」
「……ふふ、うれしいなぁ」

 転科してから周りに優しい人たちばかりあふれていて戸惑ってしまう。それに、いくら夜とはいえ、凛月くんが訪れてくれるなんて予想外だった。昨日怪我した肩も痛いし膝も痛い。けれどその痛みは同時に、昨日のことが夢じゃないと私に教えてくれていた。

「りつくん、ありがと」
「うん? なまえ、眠い?」
「うぅ、うん……」

 こんなやりとり、前にもしたなぁ。私の頭をなでる凛月くんは、すごく優しい顔をしている。この眠気は、きっと充足感と、安心感から。だけど、せっかく凛月くんがここにいるのならば。聞きたいことと、言いたいことがあって、昨日はそれが言えなかった。

「……りつくん、」
「ん?」
「聞かないの……? 昨日、私、変だったでしょ……」

 あの言葉がきらいだった。だけどそんなの人には分からないことで、正直、私が急におかしくなったと思われてもおかしくない(まあおかしくなってたと思うけれど)。

「んん、気になるけど。なまえが話したいと思ったときで良いよ」

 いつもは甘える側の凛月くんが、私をいたわって、慈しむように微笑んで、そっと手を握ってくれる。これ以上欲張りになりたくないのに。もっと話したい、触れたい、そばにいたい。そんな欲望ばかりあふれてしまう。上体だけ起こして、彼の白くてきれいな指を握り返す。

「ありがとう。私も、凛月くんが好きだよ」

 せめて、凛月くんが飽きるまではそばに居させてもらおう。そんな気持ちを込めてすべすべのほっぺにキスをすると、まんまるに開かれた瞳と視線がぶつかる。

「……え〜、こっちじゃないの?」
「う、あの」

 自分の唇を指差して、凛月くんは意地悪く笑う。その仕草に、風邪とは違う熱が顔に集まった。

「だって、風邪、うつっちゃうよ」
「ねぇ、だめ?」

 自分の唇に添えていた人差し指を、私の唇に添わす。楽しそうに笑いながらふにふにと遊ぶ様子は心臓に悪い。私が凛月くんのお願いに弱いって、分かってるはずだもの。おでこをこつんとくっつけて、鼻と鼻がぶつかる距離。熱に浮かされているからか、プロデューサーの「私」の意志はぐらりと揺れる。

「ちゅうしたいな〜」
「……ん」

 私を誘惑するためだろう、凛月くんが自分の唇をぺろりと舐める。吸い寄せられるようにそこに口づけると、想像以上に柔らかくて、唾液のせいでしっとりしていた。唇の感触だけで凛月くんの色っぽさが伝わって、なんだか変な気分になってしまいそう。
 眠い、熱い、くらくらする。唇を離そうとしたら、それを感じ取ったのか凛月くんの手が私の後頭部を引き寄せる。軽く触れていただけの唇がよりくっついて、食事するみたいに彼は私の上唇を食む。ただ唇を合わせるだけなのに、どうしてこんなに頭がぽーっとするんだろうか。一度離れたと思ったらまたくっついて、ちゅ、ちゅ、とかわいらしい音を立てて何度も何度もそれを繰り返す。ようやく凛月くんとの距離がまともに空いた頃には、正直、凄まじい眠気に襲われていた。

「んん、凛月くん、ごめ……」
「無理させたのは俺だしねぇ。あと、すごい今更だけど、具合どう?」
「なんか、ぼーっとする。あと、ちょっと寒い……」
「ふふ、一緒に寝てあげよっか?」
「……うん」

 ああ、だめだ。ごめんなさい、今日、プロデューサーの「私」は休んでいるみたい。実は泊まる気満々で着替えを持ってきたと自慢げに話すのを、遠のく意識の中でなんとか言葉の端をつかむ。ううん、もっと、話したいことがたくさんあるのに。香水か、柔軟剤か、シャンプーか分からない凛月くんの匂いに安心するのに、どこかドキドキしてしまう。凛月くんもこんな感じなのかなぁ、なんて。閉じていくまぶたをそのままに、頬に柔らかい感触を感じて眠りに落ちていった。

★戻る
HOME>TEXT(etc)>舞台女優は踊らない>舞台袖の幸福
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -