もう一つの未来 | ナノ




サッカーが好きで好きで仕方なかった。夢中になってボールを追いかけて、ボールを蹴って、走り回って。少人数での練習、大人数での試合、サッカーが出来るだけで嬉しかった。サッカーをしている時間が本当に好きでたまらなかった。


俺の家はサッカーボールが買えるほど裕福な家庭ではなかった。それを分かっていたら親にもサッカーボールが欲しいなんて言えなかった。それにそんなこと言ったとしても、俺の願いが叶うことなんてない。

だから俺はゴミ捨て場に置いてあったサッカーボールを拾って使っていた。ぼろぼろまで使い古されたボールから、まだまだ新しいものだろうに捨てられたボール。それでも俺は満足していた。どんな形であってもサッカーボールはサッカーボールだ。サッカーが出来るだけでも幸せだと感じていたし、満たされていた。


だけどそんな日は長く続かなかった。ある日、一人でボールを蹴っていると、見知らぬ男が現れた。そして男はいきなり俺からボールを奪った。何をするんだと俺が声を荒げれば、男は俺を見下しながら、勝手に人の家の捨てたものを使うなと言い放った。

確かにそれは俺がゴミ捨て場から拾ったものだった。でも捨ててあったものだから、とやかく言われるものじゃない。そう反論すれば、そいつは捨てたものでもこれは私が息子のために買ってやったものであり、お前のものではないと忌々しげに吐き捨てた。

それでも今そのボールは俺のものだとそいつを睨みつけ、ボールを奪い返そうと腕を伸ばせば、蹴りが飛んできた。突然の蹴りに受身を取ることも出来ず、俺は腹に思いっきり蹴りを食らった。視界が揺れ、吐き気さえ催すほどの痛みが俺を襲う。

汚い手で私に触れるな。上から聞こえてくる無機質な声が俺の朦朧とした意識の中に届く。顔を上げることさえ出来ない痛みの中、男がどんな顔をしているのか見ないでも分かった。その目はゴミを見るような目をしているんだろう。

お前のような奴が私の家の捨てたものを使っているなんて虫唾が走る、気味が悪いと言いながら、男は俺の頭を踏みつけた。今後一切この街でゴミ漁りをしてみろ、すぐに捕まえて牢屋にぶち込んでやる。その言葉と共に俺の頭に乗っている足の重みが増す。

朦朧とした意識が痛みによって引き摺りだされる。鈍く音を立てながら、俺の頭が地面に強く押さえ込まれる。あまりの痛みに声を出すことすら出来ない。男は最後に分かったなと言って俺の頭から足を離し、去っていった。

少しずつ遠くなる足音を追いながらぼやけた視界で男を見れば、その手には捨てられたはずのサッカーボールが抱えられていた。

俺はサッカーがしたいだけなのに、それだけなのにそれすら許されないと言うのか。俺から唯一の楽しみであるサッカーさえ奪うと言うのか。そんな思いを最後に俺は意識を手放した。


あれから数日が経ち、あの時食らった蹴りの痛みはほぼなくなった。そしてあの日から俺はサッカーをしていない。正確に言えば出来なくなった。ボールがなければサッカーをすることなんて不可能だった。サッカーがしたい、でも出来ない。せめてサッカーを見るだけでもとも思ったが、自分がもっと惨めになる気がしてそれもやめた。

ある日、街の中心から少し離れたスポーツショップに置いてあるサッカーボールを見つけた。新品のサッカーボールは薄い一枚のガラス越しに綺麗に飾られている。それを知って以来、俺は店の前を見る度にいつも足を止めてそのサッカーボールを見つめた。

見る度に欲しいと思った。自分のサッカーボールがあれば好きなだけサッカーをすることが出来るのに。

気付けば俺は毎日そのスポーツショップの前に来ていた。店の表に飾ってあるサッカーボールがいつもの定位置に置いてあるのを見ては、ボールを買えもしないのに安堵した。

そして今日もサッカーボールは薄いガラスを一枚隔てた先の定位置にある。最初の頃は見るだけでよかったそれが、最近欲しくてしょうがない。そろそろサッカーが出来ないことに我慢が出来なくなっていた。

欲しい、だけど買う金なんて何処にもない。ならば残された手段は一つしかない。しかしそれをしてしまったらもう元には戻れない。一時的な感情に流されて何もかも失ってしまうかもしれない。それでも。

黒い感情が湧き出しては止まらない。止める術も知らない。

ぐっと手のひらを握り締め、計画とも呼べない自分の欲を満たすためだけの行動を実行しようと覚悟を決めたその時だった。

ガラス越しに置かれていたサッカーボールが誰かの手によって持ち上げられた。はっと我に返ってボールを目で追えば、ボールはこちらに背を向けた見知らぬ誰かの手に渡り、今まさに買われようとしていた。

目の前で起こった予想外の展開に、先程までの俺の決意が嘘のように沈みこむ。今まさに自分のものにようとしていたものが目の前で誰かのものになってしまうなんて思いもしなかった。

やはり悪いことはするなと言うことだろうか。それとも俺の心を見透かした神が俺に悪への道を踏みとどまらせる為にあのボールを買ったであろう見知らぬ誰かを遣わしたのだろうか。

カランと音を立ててスポーツショップのドアが開く音がした。きっと先程ボールを買った見知らぬ誰かが店から出てきたのだろうと思ったところで、俺はもう何もかもどうでもいい気がして考えることをやめた。


「なぁ」

店の前で茫然と立ち尽くす俺にかけられた声。なんとなく声のした方へと振り向けば、見知らぬ男が立っており、その手にはサッカーボールが持たれていた。それは先程まで俺が見つめていたもので、今は目の前の男のものとなってしまったサッカーボール。

「サッカー好きか?」

ボールをただじっと見つめる俺を気にする風でもなく問いかけられた言葉に俺は顔を上げ、ここで漸くボールではなく男の顔を見た。オレンジのバンダナが目を惹くその男は、人のよさそうな笑みを浮かべながらも俺の返事を待つかのように真っ直ぐ俺の目を見つめていた。

ちらりと視線をずらせば、オレンジのバンダナをした男の隣にはきっとこの男の知り合いなのであろう赤いスーツを着た男が立っていた。こちらの男はオレンジのバンダナの男とは違い、俺に声をかけることもなく、ただじっと俺を見ているだけだった。

視線を赤いスーツの男からオレンジのバンダナをした男へと戻し、俺も目の前のオレンジのバンダナの男と同じように相手の目を真っ直ぐ見つめた。

「サッカーが好きだ、好きで好きでたまらないくらい好きだ」

先程の質問への答え、正直な俺の気持ち。今まで誰かにこんなことを言う機会もなければ、言おうとも思っていなかった俺の本心。その思いを質問してきただけの見ず知らずの男へとぶつけた。

俺の答えを聞いたオレンジのバンダナの男はそっかと言って嬉しそうに笑った。その横では先程からただ俺を見つめているだけだった赤いスーツの男がふっと声をだして小さく笑っていた。

何故目の前の男たちが嬉しそうに笑って俺を見ているのかが分からない。でも馬鹿にされているという感じはしない。男たちはただ本当に嬉しそうに笑っているだけだった。

「これ、君に」

その言葉と共に俺の前へと差し出されたサッカーボール。オレンジのバンダナの男の突然の行動に俺は困惑した。男の突然の行動に困惑する反面、頭の中で男の言葉に喜んでいる自分がいる。しかし男の言葉を素直には受け入れられない自分もいる。

俺がもっと幼い子供だったなら、迷うことなく男の手からサッカーボールを受け取っただろう。でもそう考えられないのは、俺がもう汚い大人の好意の中に隠された悪意や企みを知ってしまっているからだ。

素直に受け取るべきか、それとも受け取らないべきか。サッカーボールに向けていた顔をオレンジのバンダナの男へと向ければ、男は俺へともう一度笑いかけ、持っていたサッカーボールを更に俺の前へと差し出した。

悪意なんてこれっぽっちも感じられない笑顔。哀れむわけでも同情しているわけでもなく、ただ俺にサッカーボールを渡したい、そう言わんばかりの男の顔。だからだろうか、気がつけば俺は差し出されたサッカーボールへと手を伸ばしていた。

俺の手がサッカーボールを掴むと、オレンジのバンダナの男はそっとサッカーボールから手を離し、満足そうに笑い、隣にいた赤いスーツの男に笑いかけていた。

ほとんど無意識に伸ばして掴んでしまったサッカーボール。嬉しさが込み上げる中、本当に受け取ってしまってよかったのだろうかとも思うが、今俺の手の中にあるサッカーボールをもう手離す気なんてなかった。

「俺、金なんて持ってないけど・・・」

サッカーボールを掴む手にぎゅうっと力を入れ、目の前の男たちを見上げれば、男たちは俺へと視線を向けて微笑んだ。

「いいんだ、俺たちが君に渡したかっただけだから」

ただそれだけだと紡がれた言葉に俺は漸く強張らせていた肩の力を抜いた。やっと正面からサッカーボールと向き合える喜びに、自然と顔が綻ぶ。それと同時に暫くサッカーをしていなかったせいもあり、早くサッカーがしたいと心も体も全身が叫んでいるような感覚に見舞われた。

「早くサッカーしたいってうずうずしてるな」

声に反応して顔を上げれば、オレンジのバンダナの男はにっと笑みを深くした。何故ばれたのだろうと表情にこそださず不思議に思っていれば、分かるさとオレンジのバンダナの男の優しげな声が耳に届いた。オレンジのバンダナの男は隣にいる赤いスーツの男になぁと声をかければ、赤いスーツの男もあぁと言って口元に笑みを浮かべていた。

「思いっきり大好きなサッカーをしてこい」

自由に好きなだけサッカーを楽しめ。そう言われているような気がした。

「・・・ありがとう」

俺の口からは自然と感謝の言葉がでていた。ぶっきらぼうで可愛げも何もない感謝の言葉。そんな俺の言葉に、男たちは気を悪くすることもなく、まるで見守るような優しげな瞳で俺を見ていた。

「これからもサッカーを好きでいてくれたらそれでいいんだ」

オレンジのバンダナの男のその言葉に軽く頭を下げ、俺は二人の男に背を向け走り出す。サッカーがしたい、サッカーが出来る。早く早くと逸る気持ちと連動し、走る速度がぐんぐん上がって風を切る音が心地いい。サッカーへの思いで胸がいっぱいに満たされながら、俺は街の中を走り抜けた。





「無理言ってごめんな」

くるりと後ろに振り返った円堂の視線の先にいたのは赤いバンダナをした少年、円堂カノン。カノンは走り去る少年の背中を見送りながらゆっくりと首をふってみせた。

「ううん、ひいじいちゃんから過去に行きたいって言われた時は驚いたけどね」

それに豪炎寺さんからも、と付け加えてカノンが豪炎寺へと視線を移せば、豪炎寺すまなかったなと言いながらもふっと笑みをみせた。

「来る前にも言ったけど、この世界のあの人が罪を犯さなかったからって、ひいじいちゃんたちの世界に何の影響も起きないよ」

カノンが述べたようにこの世界の過去を変えたところで、円堂たちが生きる世界へ影響が出ることはない。確かに存在した過去、そして今自分たちが介入している過去、そしてそこから繋がる新しい未来。今いる過去の世界は枝分かれのように存在する世界の一つ。そして枝分かれした世界での一つの出来事。

「あぁ、だからこれでいいんだ。俺たちの世界であったことが全部なくなるなんて俺も豪炎寺も、それに天馬たちだって望んでないさ」

苦難を乗り越えながら築かれた友情、自分たちの手で起こした革命の風が強く、そして大きくなり掴んだ勝利。それらが全てなかったことになるなんて誰も望みはしない。

「だが一人の少年の人生が一つのサッカーボールによって救われた」

サッカーがどうしてもしたいと望み、罪を犯してしまった少年の歩んだかもしれないもう一つの人生。

「あぁ、あんなにサッカーが好きなんだ。きっといい選手になる」

いつか勝負してみたいと言う円堂に、豪炎寺もそうだなと口元を緩めた。それを見て、豪炎寺にも曾祖父のサッカー馬鹿が移っているなとカノンは二人に気付かれないように小さく笑ってみせた。

さぁ帰ろう、カノンのその言葉を最後に三人は青い光に包まれ、街の中から静かに姿を消した。



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