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「苗字」

お昼休みに休憩室の自販機で飲み物を買おうとしたら、後ろから声をかけられた。

聞き覚えのあるその声にビクッとして振り返ると、それはやはり私が職場で一番苦手だと感じている尾形係長で、私の真後ろに立って、何を考えているかさっぱりわからない無表情のままジッと私に視線を注いでいた。

「な…なんでしょう?」

「お前、鯉登係長とメシ食いに行ったんだってな」

「えっ、なんで知ってるんですか?」

「お前のことなら何でも知ってる」

「尾形係長、その言い方怖いです…」

鯉登係長はグループ会社の社長のご子息で、現在の肩書きこそ係長だが、行く行くは社長室付きになるということもあり、実際には遥か目上の存在なのである。
そんな人に直々に食事に誘われて、ただの平社員である私が断れるはずもない。
これも円滑な人間関係構築のためと割りきった、あくまで仕事の延長上のお付き合いである。

「で、どうだった。お坊ちゃんとのディナーは」

「食事は最高に美味しかったです」

「そこじゃねえ。どんな話をしたのか聞いてんだよ」

「どうもこうも、殆ど会話はなかったです」

緊張していたのか、鯉登係長は時々私の話にぶっきらぼうに相づちを打つくらいで、あとは黙々と食事をしていた。
モテそうなのに意外だ。
いや、でも、私がメイクを直しに化粧室に立った間にお会計を済ませてしまうなど、スマートな気遣いが出来ることから、女性慣れしていないわけではなさそうだった。

「お前…俺からのメシの誘いは断り続けてるくせに、なんで他の男に誘われたらホイホイついて行くんだ」

「それは、その…尾形係長は怖いから…」

いまこうして話している時でさえビクビクしているのに、一緒に食事なんてとんでもない。

「…チッ」

「ひぇっ」

「そう怖がるな。まだ何もしてねえだろ」

まだ、ということは何かするつもりはあるんですね。
そういうところが怖いんですよ。
とは思うものの、もちろん口に出しては言えない。

「一緒にメシにも行けなかったら、抱くのはもちろん、口説くことすら出来ねえだろうが」

「ふえぇ…!」

セクハラどころか完全にアウトな言葉の数々に、私は竦みあがった。

「し、失礼しますッ!」

「おっと」

ダン!と目の前の壁に手を突いて進路を塞がれる。

「そう簡単に逃がすかよ。今日という今日は絶対にメシに連れて行くからな」

「パ、パワハラ!」

「何とでも言え。いいか、今日仕事が終わったらお前のデスクまで迎えに行くからな。もし逃げたりしたら……わかってるよなあ?苗字?」

私は涙目でぶんぶん首を横に振った。
わかりませんッ!
わかりたくありませんッ!

「諦めて、大人しく口説かれろ。俺ほど一途な男はいねえぜ」

尾形係長は自慢のツーブロックのオールバックという特徴的な髪を片手で撫で付けて、口の端を吊り上げて笑った。

その姿は女子社員から堪らなくセクシーだとかオトナの色気がだだ漏れだとか、雄みに溢れているだとか大変評判だけれども、私にとっては恐怖でしかない。

「苗字?」

その時、私に救いの神が現れた。
鯉登係長だ。
いかにも高級そうなオーダーメイドのスーツを着こなしたその姿は相変わらず男前でいらっしゃる。

「どうした?」

「あの…」

「もしかして、こいつに困らされてるのか?」

鯉登係長がずいと私の前に出て尾形係長を睨み付ける。
大抵の社員なら竦み上がるような強い眼光だったが、尾形係長は全く動じた風もなく、薄笑いすら浮かべている。

「これはこれは、鯉登係長殿。わざわざこちらのフロアまで、どのような用事でおいでになられたのですかな?」

「お前には関係ない。それより、苗字と何を話していた?」

「さて、なんのことでしょうか」

二人の間にバチバチと火花が散っている幻が見える。

私は二人がお互いに気をとられている隙に、そうっとその場から逃げ出した。

「危なかった…」

鯉登係長には後で謝っておこう。

しかし、この時は難を逃れたと安心していた私だったが、業務が終了した途端、デスクまで迎えに来た尾形係長がにっこりと胡散臭い笑顔を向けて来ることを、この時はまだ知らずにいたのだった。


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