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はあ、と思わず溜め息が漏れる。
まだ梅雨も明けていないというのに、この暑さはどうにかならないものだろうか。
雨と雨の合間の貴重な晴れ間らしいが、これでもかと降り注ぐ陽射しが恨めしい。

ハンカチで汗を拭き、メイクが崩れていないことをガラス窓で瞬時にチェックしてから喫茶店ポアロのドアを開けた。
カラン、と音が鳴ると同時に「いらっしゃいませ」と声がかかる。

「暑かったでしょう。こちらへどうぞ」

安室さんが奥の席に案内してくれる。
冷房がちょうど良い感じに当たる席だ。

「ありがとうございます」

お礼を言って腰を降ろした。
すぐさま水の入ったグラスが置かれる。
さりげない気遣いの出来るイケメンってなんて素敵なんだろう。

「ご注文は、アイスレモンティーとサンドイッチでよろしいですか」

「はい、お願いします」

私が頼みたいと思っていたものをぴたりと当てられては、微笑んで頷くしかない。
これは他のお客さまにはしない、私と安室さんだけのお遊びみたいなものだ。

目と目が合って、アイコンタクト。
悪戯っぽく微笑んでみせた安室さんがカウンターの中に入っていく。
サンドイッチを作りながらアイスレモンティーを淹れるために。

手際良いその調理過程をずっと眺めていたい気もしたけれど、あんまり安室さんばかり見つめているのもアレなので、私は鞄からハードカバーの本を取り出した。
しおりを挟んであるところを開いて読み始める。

「お待たせしました」

いくらも読み進まない内にアイスレモンティーが到着した。

「なまえさんがシャーロック・ホームズがお好きとは知りませんでした」

「最近興味を持って読み始めたばかりなんです」

探偵とはどんなものなのか知りたかったのだ。
何しろ好きな人が私立探偵なので。

「推理小説と言えばこれでしょうと勧められて」

「いい趣味ですね。推理小説の入門編としては悪くない」

今サンドイッチを持って来ます、と言って安室さんは一度カウンターに戻っていった。

その間に、私はこのハードカバーを貸してくれた人のことを考える。
ふとしたきっかけで知り合った大学院生で、今は新一くんが留守にしている工藤家を守っているその人は、何故だか奇妙に惹かれるものがあった。
もちろん浮気ではない。
壁一面の本棚にびっしり並べられた蔵書の中から、この本を選んで渡してくれた。

「次の勉強会の時までの宿題です。是非感想を聞かせて下さい」

そう言って微笑んだ彼からもまた、秘密を抱える男の匂いがしたのだ。

「その本、勧められたと言っていましたね。どんな人ですか?」

安室さんがサンドイッチを持って来てくれた。
アイスレモンティーを飲んでいた私は急いで飲み込んで、口を開いた。

「物腰が柔らかくて知的で、シャーロック・ホームズが好きな人です」

「君にそんな顔をさせるなんて、少し妬けますね」

私はどんな顔をしていたんだろう。
いや、それよりも。

「安室さんに嫉妬してもらえるなんて」

「僕だって聖人君子ではありませんからね。嫉妬ぐらいしますよ」

「嬉しいです」

「今にそんなことを言っている余裕なんてなくなりますよ」

「余裕なんて全然ないですよ。いつも全力で安室さん一筋ですよ」

「まあ、そういうことにしておきましょう。今は、ね」

凄艶な流し目をくれて、安室さんはカウンターに戻っていった。
「後で詳しくその男のことを教えて下さい」ときっちり釘を刺してから。

嫉妬する安室さんも素敵だとのんきに思っていたのだが、まさか沖矢さんと安室さんがあんなことになるなんて。
この時は当然知るよしもなかった。


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