病室に入った瞬間、その静かな空気に安らぐ気持ちと堪え切れない塊を感じる。
シュヴァーンはベッドに座る兄の姿を見て口元を綻ばせた。傍に寄り近くの椅子に座って、俯く兄の顔を覗き見る。
「よぉ、調子どーよ?」
それに応える声は無い。
兄はただぼんやりとシーツを眺めていた。何も映すことのない瞳は空虚だ。生理反応での瞬きがあるたびにシュヴァーンは期待をする。その口が動いて自身の本当の名前を、弟の名前を呼んでくれるのではないかと期待する。
何度も期待して、次の瞬間にその期待は砕かれる。それを何度も繰り返している。
それでもシュヴァーンにとって良かった。胸が上下していることで兄が生きていることが分かる。最初の頃など目すら開かずにただ呼吸をしているだけだったのだ。今は目を開いて瞬いている。何も映さなかったとしても、言葉を発さなかったとしても、少しずつ良い方に向かっているはずだ。
そう信じていた。
誰が兄をベッドに座らせたのかは分からない。
もしかしたら兄は自分で身体を起こして座ったのではないか?
そう考えて「ありそうだわ」と笑った。そんなことは微塵も思っていなかった。ただ期待をしているだけだった。いつかちゃんと目を覚ましてくれるのだと信じていた。……信じないと狂いそうだった。
兄の心臓はもう無い。そこには冷たい無機物が埋め込まれている。
兄の片腕はもう無い。病衣から覗く空虚が物語っている。
兄の片目はもう無い。巻かれた白い包帯が顔の半分を覆っている。
鍛えていた身体は衰え、筋肉も肉も削げ落ちている。痩せ細った身体は双子である自分と違って恐怖を煽る。このまま死んでしまうのではないか。いや、元々兄も自分も死んでいる。死体が二つ、仮初の呼吸をしているだけだ。
兄が生き長らえているのはアレクセイの慈悲だった。
キャナリたちはもう何年も目を覚まさないシュヴァーンの兄に、シュヴァーンに対して苦言を呈していた。アレクセイ自身ももうそろそろ楽にしてやれと言った言葉をシュヴァーンに言った。
それにシュヴァーンは頭を下げて頼み込んだ。全てを放り捨てても懇願するしかなかった。
兄は、兄は素晴らしい人だった。
人魔戦争があった。後からそう名付けられたその地獄で、兄は少しでも皆が生き残れるようにと策を立てた。兄は何かを知っているようだった。それがなんだったのかは今では分からない。兄の口から語り聞かせてくれないと分からないものだ。
兄はあの怪物がなんなのかを知っているように思えた。
そのことは弟である自分にも教えて貰えなかったものだ。
怯える者たちを鼓舞してキャナリに指揮を任せて兄自身はどこかにへと行った。自分もそれについて行きたかったが兄が拒否したのだ。
シュヴァーンは兄に手を伸ばした。
食事の時間だった。
意識の無い兄は物を上手く食べることができない。
水分ばかりの粥を口に含んで噛む。十分に噛んだ後、口移しでそれを流し込んだ。
自身が狂っていっているのがよく分かった。
双子の兄は生まれた時から一緒にいる。お互いがお互いの存在を認め、欠落する日が来るだなんて考えたことすらなかった。言葉を交わし、自身を見る目が信頼に満ちているのを見てそれが当然だと思っていた。
言葉が無くなり自身を映さない目に、何かが無くなった。その何かを求めるように口を合わせる。少しの間だけ何かが取り戻せるような気がした。唇が離れればそれがただの錯覚だと何度も気付かされる。失ったものを得られていないことにもどかしく感じ、何度も繰り返す。
おかしいだろう、とシュヴァーンは分かっていた。
それでも止めることはできなかった。
器の中のものが無くなるまで繰り返し、今日も兄が目覚めないことに失望してベッドに顔を伏せる。
キャナリ達はシュヴァーンが狂っていっていることを分かっていた。
兄が目覚めた時のために腕を作ってくれとアレクセイに頼み込んだ。それで君の気が済むのならと開発してくれた。だが兄は未だに目覚めない。意識が戻らずにひと月を越えた頃、もう駄目だろうと医師に言われて殴った。意識が戻らずに一年を越えた頃兄が目を開いた。喜び泣いた後ただ絶望するだけだった。アレクセイがもうそろそろ楽にしてやらないかと言った。お願いしますと頭を下げて命乞いをした。キャナリ達が心配そうにしている。医者がただの生理反応だと言った。これから持ち直すことは、と言って口を噤んだ。それでも。
こんな姿で生き続けるのは苦痛だろうと、誰かが言った。
楽にしてやれと皆が言った。
そんなことは無い。
シュヴァーンは兄のことをよく分かっていた。
兄は弟がいない世界などいらないと本気で信じている人間だった。
小さな頃にそう言われ、それは成長しても同じことだった。シュヴァーンはそんな兄のことを少し気味悪く思っていた。それと同時に満足感があった。
兄ならきっと、弟が兄に生きて欲しいと、無様な姿を晒す事になったとしても生きて欲しいと願われたならば応じてくれる。兄ならきっと。
そう信じて、いつか意識を取り戻してくれることを信じて期待した。
何度も繰り返すだろう。
兄が目覚めるまで。シュヴァーンは色んな人間に懇願することができる。そう信じることができたから。兄ならきっといつの日にか。
シーツの上でもぞりと顔を横にずらす。片目で兄の顔を下から眺める。
今日は何を話そうかね。
昔のことはいい。今の話をしよう。起きた時に困らないように。少しでも兄の頭に今を覚えさせないと。シュヴァーンはゆっくりと身体を起こして兄を見た。
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