トルビキアに送り出したはずのシュヴァーンがまた戻ってきた。帰ってくるなよ。
ダングレストにはまだ入れないらしい。ドンの怒りは相当なもののようだ。そのせいで私の私邸で呆けた姿を晒す彼に心配になってきた。遠いところを見ている姿に、まるで数十年会社のために身をやつして来たサラリーマンが会社から突然リストラ勧告をされ露頭に迷うことになり「明日からどうしよう」と公園のベンチに座り黄昏ているような、そんな憐れな男の哀愁を感じてしまい涙を誘うものがあった。前も同じことを考えていた気がするが、可哀相にな。この男も。
大丈夫だ、君ならまだ騎士団という居場所があるだろう。彼自身は望まないだろうがな。
レイヴンの格好でそんな姿を見せられたものだから非常に憐れに思えてきた。
ほら、もうちょっと頑張れ。大丈夫だ、ドンの事だからいつか許してくれる。何を言ったかは知らないが、きっと大丈夫だ。というか大丈夫じゃないと私が困るからさっさと解決しろ。
酒でも呑ませてやるか。米で作られた酒を用意したんだが、喉越しが良いものと辛口どちらがいいだろうか。レイヴンは迷うことなく辛口を選んだ。好きだな、辛口。
トルビキアの方で作られているものがギルド経由でこちらに流れてきているので、レイヴンは酒の味にちょっと懐かしむ素振りをしてさらに目が死んだ。だからやめろって。
本当に何を言ったのだか。
この前の絡み酒の兆候に愚痴を延々と聞かされるのではないかと思っていたが、レイヴンは何も言わなかった。この男が大人しくしているのも気持ちが悪いな。
まぁいい。それなら私の方から何か話すか。話題、話題か……。
私が今やっていることや、やろうとしていること、仕事の話なんかは彼にとってはどうでもいいしつまらないだろうな。気落ちしている彼に評議会の愚痴をこぼすのも気が引ける。魔導器の話をされても嫌がるだろうし、そうすると部下たちの何気ない話をするしかない。あの部下が任務でああいうことがあって結果が出たことに嬉しそうにしていただとか、あの部下が私に面白い話を聞かせてくれてな、だとか。あぁそうだシュヴァーン隊のルブランが最近君が帝都にいたから妙に張り切っていたぞ、だとか。
ルブランの話にうんざりしたような、疲れた顔をするレイヴン。好かれているみたいでいいじゃないか。大事にしたらいい。
それと最近交流するようになった貴族との話で魔物の肉の調理法を聞いたのだがそれも。食に興味のある貴族が道楽にレシピを開発しているらしい。なかなか良さそうだったぞ。ギルドにでも売り込んでやろうかと言っていたので、そちらにも行くんじゃないか。ダングレストに確かそういった料理の採点を行うような場所があっただろう。
今まで食べられたものじゃないと思われていた魔物の肉もその貴族が食べられるよう開発していたから、材料の一つとして並ぶ日が来るかもしれないな。
他愛無い話をし続けていると、執事の妻である使用人が肴にとちょっとしたものを持ってきてくれた。
豚バラのかたまり肉を醤油ベースに砂糖と一緒に煮込んだものだ。豚の角煮とほぼ一緒だが、これには今レイヴンが呑んでいるような米から作られた度数の高い酒が使われている。それと甘みのある長ネギに鰹節をまぶし、醤油を垂らしただけのもの。
私はその二つをレイヴンに薦める。
見てみろ、これは鰹節だ。あの鰹節だ。
この世界には醤油はあったが鰹節の製法は確立していなかった。
それを私が、あやふやな知識ながらも帝都の職人に頼んで作ってもらったのだ。
時間のかかる製法であり必要な機材がなければ安定して作れないこれは最高の贅沢品と言っていいだろう。
レイヴンはサバ味噌等の和食系を好んでいると知っている。存分に和を楽しんでもらおうじゃないか。
レイヴンは薦められるままそれらを口にした。酒の匂いがする豚の角煮に目を細め、甘味のある長ネギに表情を緩める。
私はそんなレイヴンの表情に勝利を確信した。ふふん、どうだ。美味いだろう。
アレクセイになる前の私の知識と、私に長年仕えている夫婦たちの力作だ。美味くないはずがない。
彼の口からも「美味い」という言葉を聞き、私はふんぞり返る気持ちだった。
使用人もその言葉を聞いて私と似た表情をしていた。そうだろうそうだろう、美味いだろう。
気を良くした使用人はあれもこれもと、次々と肴を持ってきた。どれもこれも酒に良く合う。執事夫婦は殊更レイヴンのことが気に入っているようだったので、熱の入れ方が違った。酒も色々と用意しているらしくそちらも追加だ。
どうでもいい、他愛のない話をしながら呑み続け、そして見事に出来上がった、
「で、そいつが足を滑らせて、慌てたのかこう、くるーっと、分かります? 前に転がって大開脚! んでそのまま尻から着地なんかしやがって、俺思わず笑っちゃいましてねぇ!」
「ふっ、くくっ、そいつは大道芸人か何かか?」
「その時のあいつは周りのスターでしたね。輝いてやがって、しかも痛いのか立ち上がれなくて呻いてるところを他の奴らが助けるんですけど、そいつの両腕を一人一人ずつが掴むっていう、なんだ? 捕獲された未知の生物的な? 引き上げられる際に「うぅぅおぉん!」って、それがもう! 分かります? 俺のその時の気持ちが!」
「ふっ、ふふっ、ふくく、ぐっ、げほっ! ごほっ! うぇほっ! 見ていると飽きないだろうな。見世物小屋にでも放り込んでおけ」
「噎せてんじゃねぇですよ! で、こっからがまたすごいんですけど」
「まだあるのか。輝いているな!」
「ぴっかぴっかででだすねぇ!!」
「ん゛っ! ゲホッ! ごほっ!」
駄目だもうこいつはダメだ。
赤ら顔で上機嫌に話を続けるレイヴンの呂律が崩壊し始めている。
アレクセイのイメージを崩さないようにと今まで踏ん張っていたが、もう駄目だった。酒が入って笑いの沸点が著しく低下した私には耐えられなかった。私は笑いを抑える手の下で盛大に噎せた。そのまま流れ作業のように酒を呷り荒い動作でグラスをテーブルに置く。そのグラスにレイヴンが酒を注ぐものだから、私も注ぎ返してやった。
いつの間にか執事も参戦して呑んでいる。無理に座らせたのだが、彼もなかなか上機嫌で話を聞いていた。
笑い上戸になってしまったレイヴンは酒の入ったグラスを打楽器のように箸で叩いている。私はそれを一応止めたが、なんだか色々とどうでもよくなってきていた。
「なら私も面白い話をしないとな。この前私は書類を食べたのだがな」
「ふぁい!? しょ、うぇっぷ、しょるい!? えっ!? またなんでっ!?」
「ストレスが溜まってて」
「美味しかったですか」
「あぁ! クロームが用意してくれたからな!」
「美女から優しくされるとか羨ましすぎるんだけど! でも紙を食べんのはわっかんねぇですわ!」
「楽しいぞ、是非ともやってみたまえ!」
「やらりませんばってば! うわなにこれネギうっま!」
さっきから食べている物を初めて食べたように驚くレイヴンにもうダメだった。私は笑った。厳格なアレクセイのイメージなぞ放り捨ててしまえ。
その後もほとんどダメな会話が繰り広げられ、よく分からないが楽しかった。
執事におやすみになってくださいと言われて私は従った。困らせたいわけではないからな。
まだ呑みたいと渋るレイヴンの背中を押して、へべれけなまま部屋を目指す。背中を押されている状況に込み上げるものがあったのか、レイヴンはふらつきながらも始終笑っていた。私も釣られた。何回かふらついて壁にレイヴンの顔面を押し付けてしまったが無礼講だ。ここは私の家だ。私が法律なのだから当たり前だな。
私の部屋の前に辿り着くと思わず部屋に入りそうになり、レイヴンの存在を一瞬忘れてしまった。
レイヴンがふわふわとした足取りで釣られて入ってこようとしたので、私は仕方が無いと再度レイヴンの背中を押して彼にと充てた部屋へと向かった。
「君の部屋は、そっちだ」
「え〜? 俺の部屋ですか〜?」
「そーだ、……そうだ、そっちが君のだ」
「俺の……? 俺のですか〜?」
「そうだ。無料の宿屋だ。私に感謝するがいい!」
「ありがとうございまーす!」
意味の分からないやり取りだった。だがどうしようもなく楽しくなり、二人して大きな笑い声をあげる。
レイヴンはもう思考放棄している様子で、口の中でもごもごと呟いている。ようやく聞き取れたのは「ねむい」という言葉だ。私も眠い。早く寝たい。
部屋の扉を開けて背中を押して笑いながら閉める。部屋の中から「ここどこだ!?」という声が聴こえてそれにも笑ってしまった。ダメだ。今日はもう本当にダメだな。
私の部屋の前に執事がいた。水差しを持っている。私はその場で一杯水を貰い、上機嫌で部屋に入った。追いかけてきた執事に薬を貰い、面倒だったがそれも飲んだ。
明日、そうだ。明日も仕事だ。早く寝ないと。
着替えることもせずにベッドにへと落ちていった。
***
魔導器の警告音で意識が浮上した。
人の恐怖を煽るような不快な音が耳元で鳴っている。
私は枕元に置かれたそれを手に取り音を消した。
この魔導器は邸宅に張り巡らされた警戒網に引っ掛かったものがあれば知らせる装置だ。侵入者を知らせる魔導器、と言えばいいのか。
どこに侵入者がいるのかと画面を開けば、少し離れたところの廊下かららしいことが分かった。
真っ暗な部屋の中。傍に置かれたカンテラに火を灯し、立て掛けてあった剣を手に取って部屋を出る。
侵入経路は少ない方が良いと、外の光を損なわない程度に数を抑えられた窓が並ぶ廊下。
今夜は月の光が弱々しい。淡く照らされた廊下の先に、何かが転がっていた。
近付いてみると、それは死体だった。
胸をばっさりと斬られたそれは自身の流した血の中に沈んでいる。
半開きの口から血が流れ、ぴくりとも動かない。顔の上半分を覆う赤いレンズの嵌った暗視装置。黒い衣装に身を包むその人間の所属はすぐに分かった。
血溜まりの中に沈む人間を足で仰向けに転がす。
簡単にではあるが調べてみれば事切れていることが分かった。
廊下を歩く。
魔導器が示していたのはもっと先だったはずだ。
カンテラに灯る赤い光源が薄っすらとした暗闇を照らしている。
抜き身の剣を携えて、足音を殺すことなく進んでいく。
死体が転がっていた。
こちらも同じ服装で、同じ外傷だった。
こちらはなかなか奮戦したのか傷が多かった。
だが、死んでいることは確かだった。
それを一瞥して、私の中に澱のように淀むものを感じる。
彼らは死んでいた。
それは、死体があることから確実だった。
【死んでいる】という確証。その者の命が途絶えていると、その身で証明している証拠。
……私は、思う。
【死体が無ければ彼らは死んでいなかっただろうに】。
私に死んでいると認識されてしまったがために、彼らの死は確実となった。
私が彼らの死体を見つけなければ、【彼らは死ななかっただろうに】。
……馬鹿らしい。酷く、馬鹿らしい考えだった。
カンテラに灯る火が廊下を照らし、私は歩く。
誰かが交戦していた。先から剣戟の音が聞こえる。
執事や使用人は、戦闘経験が無い。
騎士団に所属する私の邸宅を守ることから世間体として少しは嗜んでいるが、それは魔物に対して発揮されるものだ。暗殺者と奮戦できるかというときっと無理だろう。
なら交戦しているのは誰か。
廊下の角を曲がり、視線の先に彼らを見る。
開いた窓。十分な明かりを持たない二人は刃を交えていた。
どちらも見たことがある。
廊下に転がっていた死体と、私の手で甦った死体だ。
足音を立てて近付くと、暗殺者は私に気が付きその場から離脱しようとする。
それを彼が逃すはずがなく、半身になって逃げの姿勢になった暗殺者の脚を狙って斬り付けた。たまらず横転する暗殺者の腹に容赦の無い蹴りが入れられた。背中から壁に叩きつけられた暗殺者は、口から空気の抜ける音を漏らし沈黙した。
肩で息をしつつ他に敵がいないかと周囲の警戒をしていた彼は、ようやく私に顔を向けた。
髪の毛が降ろされ、顔半分が覆われた顔。据わった目がこちらを見ていた。芸が細かいな。ギルドの人間である彼ではなく、騎士団にいる彼であると固辞する姿。人を殺すのは、騎士団の彼なのだろう。
私は彼に近付いた。
「……アレクセイ、様」
「怪我はないか?」
「無防備に、すぎるんじゃないですか?」
カンテラの赤々しい灯りを受け、影を落とす彼。
私は彼に目立った外傷が無いか確認する。
腕や腹部分の服が破けているな。
派手な出血はしていないのが流石、といったところか。
彼に治癒術をかけて、怪我が治ることに感慨深く感じた。
「侵入者は海凶の爪か」
「……恐らくは」
「誰から依頼されたのか調べないとならないな」
「……アレクセイ様」
「なんだ」
意識を手放している暗殺者から、彼に意識を移す。
彼は眉間に皺を寄せ、私に対して抗議の目を向けていた。
「恐れ入ります。前々から思っていましたが、ここは少し身を護るための魔導器が少ないのでは?」
「そうだろうか」
「えぇ。こう易々と侵入されるようでは、この邸宅に住まう老人たちにも危険が及びます」
「……そうだな。私がいない間にここを調べたのか?」
「…………はい」
「そうか」
確かにこの家に設置した魔導器の数は絞られている。
貴族や評議会の連中たちの邸宅に設置されたものと比べたら、ここは驚くほど少ないのだろう。
彼はそのことを言っているのだろう。表面的ではその数を知ることはできないが、内にいる者は簡単に調べることができる。
私は彼から顔を背け、暗殺者の傍に屈み込んだ。暗殺者は自身から情報が漏れないように自害する手段を持っている。口の中を確認し、奥歯に埋め込まれた不自然な物体を見つけた。本物の歯では無かったようで案外簡単に取り外せてしまった。縛り上げて身動きできないようにし口も塞いでおく。
この暗殺者は生きていた。
私にそう認識されたのだ。【彼は生きている】。
……死体じゃなければ、生きている。
死体が無ければ、生きている。
不思議な話だった。
傍にいる彼は私に一度死体であると認識されたというのに、彼は動いていた。
おかしな話だった。
カンテラを床に置いたまま立ち上がり、彼と相対する。
彼は先程までの表情を無くし、何を考えているか分からない顔で私を見ていた。
「それを知るのはここに住まう者や君ぐらいだ。心配せずとも、ここにはこういった輩はそう多くは来ない」
「少なからず来るんでしょう。なら防備は増やすべきでは」
「いらん。だが、おかしなものだな。君は何故彼らの侵入をいち早く察知できたのかね」
「……俺が引き込んだわけではありません」
「そこは信用しているとも」
久しぶりに思い出してしまった。
身の内から侵す、冷たい血の感覚を。
ぞろりと、手を伸ばすように広がるそれらは、恐怖と諦観だった。
死体が点々と落ちる廊下を歩き、行きつく先にも死体があった。
その状況を、私は一度味わったことがある。
私が「これはあったことだから」と、軽率に判断して彼女たちを見送った時の。
生きている者が皆無の殺戮場で、四肢が揃っている死体を求めて歩いた時の。
死体があれば【死んでいる】。
死体がなければ【生きているかもしれない】。
千切れた腕が転がっていようが、中身が曝け出されたものが転がっていようが、血が飛び散っていようが、魔物たちが食い漁っていようが、【死体がなければ彼らが死んでいる証拠足り得ない】。
どこかに逃げて、身を潜めている可能性もあった。今ここに出てこないのは何かしらの理由があるからだった。
一度死んでいると認識した者が、生きて動いているのだ。
そうおかしな話でもないだろう。
……そう、馬鹿げた話を信じ込もうとしている弱さを、思い出してしまった。
「まぁ、いい。後は私がやろう。ご苦労だった」
「……はい」
「もう一度言うが、君のことは信用している。疑っているわけではない。……ただ、そうだな」
彼がここのことを調べて不安に思ったのなら、彼が念のためにと設置したものもあるのだろう。
そのことを責めるつもりは毛頭無い。ただの私の我儘なのだから。
彼らを命の危機に晒しても良いという、先の見えない馬鹿の戯言だ。
「君の好きにしたらいい。私はそれを許そう」
彼の顔が微かに歪む。
何を思っているのかは私には分からない。
だが、彼は私のことを無能だと思ったことだろう。
尋問をするため縛り上げた暗殺者を移動させようと再度屈み込んでいると、横に置かれたカンテラを彼が拾い上げた。
「分かりました。これからは俺の好きなようにします」
その言葉に少なからず驚いた。
見上げると、灯りに照らされた彼の横顔が見えた。
こちらを睥睨する目は、今の彼の姿には相応しくない意思があるように思われた。
……そうか。彼には、いつの間にか。
「……シュヴァーン、そちらの部屋に移動させる。灯りを持っているなら先導してくれ」
「分かりました」
意識を失っている重い身体を引き摺りつつ、私は未練がまた一つ潰れた事に安堵していた。
私はこの目で見て、認識した。
彼は【生きている】のだと。
死体ではなく、人形でもなく。
良かった。それは良かった。安心した。
あぁ、それはそれは、本当に、
…………。
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