センチメンタル小室マイケル坂本ダダ先生、センチメンタル小室マイケル坂本ダダ先生じゃないか!
だがすまない。センチメンタリズムを刻む先生にはお引き取り願おう。
私には落ち込んでいる暇なんてない。
ゲーム本編で彼がやったことを再現する。そうすればユーリ達一行が本編通りに動いて、世界の危機にいがみ合っている場合ではないと帝国とギルドが初めて手を組み、そして権力の象徴になってしまった魔導器を動かす魔核が全て精霊化し、人々は一からやり直すことになる。
その後の世界がどうなるかは知らないが、魔物もいることだ。協力していかないと生きていけないだろう。
やらなければ。
彼が思っていたものとは違ったかもしれない。が、彼が星喰みを呼び起こしたおかげで全ては良い方向に向かっていった。そうだ。彼のその役割は必要だ。ここまで来たんだ。今更怖くなったから止めますは無い。
それに止めたとして、私は彼として生きていくことなんてできない。できるわけがない。そんな、彼に対しての侮辱は私が許さない。彼の苦悩を、葛藤を、苦痛を踏み台にして、彼の存在を奪った私がのうのうと生きるだなんて許せるわけがない。
そうだ、そうなんだ。
やらないとな。
落ち込んでいる暇なんて無い。
アスピオの研究員たちがどうなってるか気になって覗きに行ったら、彼らは思ったよりも人らしい挙動をしていて心の底から安心した。私が新しく就けた監督が良かったのか雰囲気もそう悪くない。これならば大丈夫だろうと押収した兵装魔導器を与えたが、その時の彼らはなんというか……凄まじかった。
驚きに目を見開き、静かに集まってきた彼らはぶつぶつと何事かを呟きながら操作盤を叩きだす。兵装魔導器を中心に研究員が集まっているのでサバトの儀式に見えてきた。探求心、好奇心が特化している人間の静かな歓喜を目の当たりにして私は素直に怖いな、と思った。
まぁ……まぁそうだろうな。あの施設で作られていたものはほぼ全て破壊されてしまった。あるのは他の場所に置かれていた資料とも言えない走り書きや、実現不可能な無茶な理論、下地ばかりだ。
唯一増幅器がなんとか雛形として残っていたぐらいか。
この兵装魔導器は完全な形として残っているし、使おうと思えば使える。
私は集中しだしている彼らにヘラクレスの事を話す。結界魔導器のことも勿論大事だが、私としてはそちらの方を優先して欲しい。正直未だにヘラクレスのへの字も無いというのは心が休まらない。私の年齢からしてあと数年で原作なんだ。
最終的に始祖の隷長を圧倒しなければならないというのもあるが、ヘラクレスが必要な理由がもう一つある。エステルが城を抜け出して冒険をし、始祖の隷長に目を付けられて殺されるだなんて事はあって欲しくない。ヘラクレスが無ければダングレストでフェローを追い払うことができず、彼女が殺されてしまう可能性があった。
……どうしよう。
デュークといい感じの友好関係を築いていて、クロームとエルシフルともなんだかいい感じになっているというのに兵装魔導器を爆撃していいのだろうか。フェローを信じ、あの場でエステルを殺さないことを祈って静観するのが正しいのか。……悩ましい。
穏健派であるエルシフルが生きているから、フェローもそう無茶なことはしないんじゃないか。原作の方でもなんだかんだ言って人を滅ぼそうとするような過激な発言はしていなかった。……はずだ。おそらくだが。
それにあそこでヘラクレスを持ち出すとギルドの帝国への不信感が増してしまう。ヘラクレスを使いたくはないのだが、そうするとユーリがエステルを連れ出すことをしなくなってしまうかもしれない。エステルの旅は終わってしまうな。それは困る。非常に困る。
原作をきちんと再現してもらわないと。
……あの場所で、騎士団が姫様を連れ戻すということをしなければいい。
橋が壊れなかったとしても、始祖の隷長という未知の魔物を前にして混乱に乗じていなくなったと、そういった形になればいいか。騎士団の失態になるのだろうが……。また評議会に色々と言われるのか。嫌だな。……姫様自身が各地を視察している、という形でむしろのびのびと旅を続けてもらうのも手か……。
……ん、待て。親善大使としてギルドへ訪問している、という呈にすればいいのではないか?
そうすれば姫様の功績にもなるし、姫様を皇帝にと推している評議会も悪い気はしないのでは?
ギルドと仲良くする、という部分には反発が起きそうだが。
評議会の人間たちにとってギルドの者というのは文字通り「人ではない」。
帝国の人間に対しても家畜のように扱っているし、自らと同じ人間だなんて冗談や物の例えでも口にしないだろう。
ギルドは国でない。帝国がギルドに対して攻撃を行うのは当たり前の事であり、「人間ではない」ものを駆除するための行為でしかない。それは戦争でもなく、ただの作業だ。評議会の人間たちは、武力があれば自分たちの言うことを聞かない者共を根絶やしにできるのにと思っていそうだった。
騎士団を動かそうにも、私がいるので無理だな。断固拒否する。
だが、姫様をそういった位置に立たせるとなると騎士団の護衛を付けないとならなくなるし、それは彼女にとって不本意であるだろう。本当の旅とは言えない。私としてもできる限り原作に近い形で進んで欲しかった。そうじゃないとその後の行動が予測しづらくなってしまうからな。
今の時点で細々と変わってしまっているが、大丈夫なんだろうか。不安になってきた。
いや大丈夫だ。大丈夫だと思っておこう。
アスピオの研究員たちはヘラクレスの話にはまぁまぁ食いついてくれた。
興味が無いものだったとしても開発に専念してもらうが、興味があるものと興味がないものとでは力の入れ方も違うだろう。その点では少し安心した。
帝都の結界魔導器を調べた研究員が「変形させますか?」とか言ってきたが、お前のそのロボへの情熱はなんなんだ。分かるがな。非常に分かるが変形させるとなると複雑な構造になるからやめてくれ。無駄にコストを割きたくない。
予算はどうするか。評議会に隠れては難しそうだな。私財だ……私財を……いやだめだ……私がしょっ引いた評議会議員と同じ目に遭ってしまう……。
色々と考えながら城の中を歩く。
まだ準備ができてない状態だが、評議会の議員に魔導器開発をしてもらうため情報を流そうか、どうしようか。今の時期でいいのか? 原作の方でやらかしていた紅の絆傭兵団の情報を集めてからにするか。
「アレクセイ!」
クロームや補佐官を引き連れて歩いていると、前方からエステリーゼ姫が走ってきた。
護衛の騎士たちを振り切るように走ってきた幼い姫様は、私の前に来ると悲痛な顔でもう一度「アレクセイ」と言った。
な、なんだ?
「姫様、護衛を振り切るなどと……いかがなされましたか」
「アレクセイ、その……」
エステリーゼ姫は胸の前で手を組み、変わらず悲痛な顔でこちらを見上げつつも言葉を濁す。
遅れて追いついた護衛騎士たちは物凄く焦っていた。恐らく護衛対象者から距離を離されてしまったところを私に見られたことでお咎めがあるのではと思っているのだろう。
いやまぁ確かにそこは後でちゃんときつく締めるが、もごもごと何かを言おうとしている護衛たちを黙らせて姫様の声に耳を傾ける。
「ここでは話せません。それに……あまり多くの人に聞かれるのは……」
「……それは……」
「そ、そうです! アレクセイ、私の部屋で話しませんか?」
名案だ、とばかりに笑って言う彼女に眩暈がした。
何を言っているんだろうか。ちょっと待て。やめろ。この発言はまずい。やばい。
私が一体何をしたっていうのか。
あまりに言葉を濁すものだから護衛の騎士たちに何か言われたのかと勘繰ったが、その考えが綺麗に吹っ飛ぶような発言をされてしまった。
私は遠退きそうになる意識をなんとか引き寄せて一つ息を吐いた。
「姫様。私は貴女からの信用を得、頼っていただけていると存じます。先程のお言葉も、その信頼から発する一端であるのでしょう。ですが、御身は尊い身です。みだりに他の者を部屋に入れてはなりません。それに貴女に就いた護衛を振り切るのもおやめ下さい。この城の中は厳重に守られているとはいえ絶対とは言えません。彼らは姫様を守る為にいるのですから、彼らの事も信用してやってください」
ロリコンだと思われたくない。その一心で真面目な顔で長々と注意をすれば、姫様は目に見えて表情を曇らせた。
小さく謝りの声が聴こえたが、さてどうしたものか。
姫様はなにか私に話したいことがあるようだ。雰囲気的に私一人にだけ、といった風だが流石にそれを受けることはできない。それに仕事もある。いやだが次期皇帝候補を蔑ろにすることもできない。
仕方ないな。
「姫様。仕事が立て込んでおります故、今はご容赦願いたい。後ほど時間を作りますので、お話はその時にでも」
「……では、早めに。……今日にでも」
きょ、今日!? それはちょっと早すぎないか!? 仕事が立て込んでるって言ったよな!?
なんだろうか。彼女は随分と思い詰めているようだ。次期皇帝候補だから、というよりも幼子のそんな表情を見るのは嫌だった。……休憩時間を削ればいけるか。私は苦笑して了承の言葉を言った。
「分かりました。ではお昼時に」
「本当ですか! なら、美味しいお茶菓子を用意しておきます!」
「ですが姫様、あまり人の耳に入れたくないとお思いのようですが、せめて彼女は同席させていただきます。よろしいですね」
そう言ってクロームに顔を向ければ彼女は少し驚いた顔をしていた。
姫様は首を少し傾げ、クロームをじっと見つめる。少し間が空いたが「はい!」と元気に返事をした。なぜか妙に嬉しそうな声色だった。クロームの分のお茶菓子も用意しておくと言う姫様に、彼女は戸惑いながらも微笑む。それにさらに笑顔を深める姫様。なんだ……?
先程までの思い詰めた表情はどこかに行ってしまい、笑顔のまま「待っています」と言い道を引き返して行った。護衛の騎士たちは私に礼をとってから姫様の後に続く。
彼らを見送って考える。あの妙に嬉しそうな感じはなんだったのだろうか。
少し考えて、同性と話ができることに喜んだのかもしれないと思い至る。
……姫様の話の内容が何か分からないからなんとも言い難いが、なんとなく話が長くなりそうな予感がした。
「閣下。私も、ですか」
「あぁ。流石に姫様と二人きりは拙い。開けた場所を選ぼうにも、人に聞かれたくない内容のようだから姫様が許しはしないだろう。それに話がどういったものか分からないが、異性で年が離れている私よりも同性である君の方がなにかと親身になれるはずだ。頼りにしているぞ」
「……かしこまりました」
あの年頃の女性の扱い方というのは難しい。
多感な時期であるだろうし、何が彼女を傷つけるか分からなかった。
成人であれば扱い方も心得ているのだが子供はどうしてもな。子供の思考と大人の思考は全く違う。見え方も感じ方も違い、予想が付きづらかった。
その点で言えばクロームがいるというのは非常に心強い。男でも女でも、同性だと感情の機微に気付きやすい。私が何かまずいことを言ったとしても助け船を出してくれるはずだ。頼りにしているぞクローム。君だけが頼りだ。いや本当に。何かあったらタスケテ。
猛スピードで書類を片付けてクロームに予定の調整をしてもらい、午後からの仕事を少し遅らせることにした。補佐官たちにも手伝ってもらいなんとか問題ない程度には片付いた。評議会との喧嘩が無いのが救いか。ただ魔導器の開発情報を流す先と懇意になるために予定を入れていたので、そこは抜かすことはできない。クロームがその議員への話題リストを作ってくれるのがありがたかった。本当に……彼女は優秀だ。
日頃の感謝をしてもし切れない。今度ボーナスを上乗せしておこう。これは優秀さへの投資だ……。補佐官たちもありがとうな。君たちにもボーナスを上乗せだ。
正午になり姫様の下に向かう。
応接室で待っていた幼い姫様は嬉しそうに私とクロームを出迎え、お茶の用意をした。ま、待て。上の人間にそんなことをされたら私の胃が縮こまる。やめさせないと、やめ、やめさせ……くっ……なんて良い笑顔なのか。自分で用意をしたいという姫様に圧され席に座らされた。人払いをしているので誰にも見られてはいないとはいえ肩身が狭い。さらに無礼講ということでクロームも席に座らされた。……三者面談の様相になってきたな。いや圧迫面接か? 勿論圧迫されるのは私の方だ。
姫様の近くにクロームを座らせるのは怖いな。それとなく席を遠ざけようとしたが、クローム自身がこれでいいと言うので口を閉ざす。姫様が満月の子だと知っているのだろうか。どの程度で命に関わるか分からない以上、すぐに彼女を遠ざけることができるような位置にいて欲しいものなのだが。
クロームをここに連れて来たのは姫様と同性だというのもあるが、彼女が始祖の隷長からの監視だからだ。クロームが見て聞いたものは他の始祖の隷長に伝わる可能性がある。満月の子がまだ幼い子供であることを知れば少しは容赦してくれるんじゃないか、という打算があった。フェロー頼むから姫様を殺さないでくれよ。いや伝わるかは分からないが。それでも少しでもその可能性があるのなら試したい。だが、クローム自身に何かがあっても困るのだ。彼女は私の部下だからな。……不安だ。姫様と席を遠ざけたい。
淹れ方を教育係に教えてもらったと嬉々として言う姫様の紅茶は美味かった。
「あの、それで、話なのですが……」
「はい」
「その……、……アレクセイ、私を外に連れ出して下さい!」
え? 無理……。
エステリーゼ様は午前に見た時と同じような悲痛な面持ちで私に懇願してきた。
その必死さは今までに無い程で、ここで言葉少なに「無理」と言えば彼女からの信頼を失うだろうことが分かる。
あまりに突然の要求に驚いていると、姫様が落ち着きなく必死に私に訴えかけてきた。
曰く、城の中に篭っているばかりでは市井の事を知れず、民が真に求めているものが何か分からない。自分が皇帝になる、ならないを問わずそれでは駄目だろうと。本を読み多くを知ったつもりではあるが、それは生きた人間の声ではなく自分の想像でしかない。自分の目で見て彼らの現状を知る義務があります、だからお願いします私を外に連れ出してください。姫様はそう言うと口を噤み、真っ直ぐな目で私を見た。
……なるほど。確かに彼女の言う通りだ。
私自身、報告書として書面に上がってくる情報だけを頼りにしてはいけないと思っている。部下たちは非常に優秀だ。彼らが言うのならば信じる。だが、彼らが見たもの、聞いたもの、感じたものがその書類に全て収められているわけではなかった。簡潔に情報を纏められ、無駄が省かれたそれは確かに本当に必要な情報なのだろう。
私は思う。その「省かれた部分」というのは、感情だ。
必要な情報の前では私見、私情というのは邪魔でしかない。物事を見る際は主観ではなく客観的に見るべきだ。報告書という文字の羅列の中に、それらは必要以上にあるべきではない。
そう、書面の上ではそれが正解だ。
それが正しい。
だが、その書面には当然「無駄なもの」として省かれた感情や主観、私見、私情が無い。
事実だけを並べ立て、それを基に物事を動かしたとする。……それは本当に良い事なのだろうか。
例えそれが「人のため」と思いやったことでも、それは本当に求められていたものなのだろうか。
紙の上の文字だけを見て、判断して、決断をする。
……そこに、本当に「人」はいるのだろうか。
血の通った人間ではなく、私が想像している架空の者を想っているだけではないか。
部下たちが見た血の通った人間たちは、文字の上にいるわけではない。
私はその書類を読んで客観的に彼らのことを知れるが、私の目で彼らを見たわけではないのだ。
それらばかりを頼りに判断、決断をし続けたとする。……私は一体、何を相手に、何を想い、何のためにそうし続けるのか。……私はきっと、分からなくなってしまう。
自分の脚でその地を訪れ、自分の目で見て、考える。
それは確実に必要なことだ。
しかしそれは彼女の立場では問題がある。皇帝不在の今、次期皇帝候補として在る彼女は少しの危険も許されない。
評議会が彼女を推しているというのも問題だ。ヨーデル殿下は騎士団が推していることもあり、守りやすいのだ。周りを騎士団の人間に固められはするが、姫様よりかはほんの少しだけだが自由がある。ヨーデル殿下にするように、姫様にもそうしてしまえば評議会の妨害が酷い事になるのが予想された。彼らにとって彼女は無知でいてもらないと駄目だからな。迂闊に外に連れ出せば、騎士団の失態を嬉々として狙ってくるだろう。暗殺者を向かわせてくるかもしれないな。依頼される方も、次期皇帝候補ということもあり受ける者はあまりいないとは思うがザギみたいな頭のおかしい奴もいるから断言できない。
評議会が彼女を推すのは、無知な彼女が皇帝になれば操りやすいと踏んだからだろう。
人に触れていないからか、疑わずに額面通りに受け取ってしまうからな……原作のエステルは……。
評議会に目を付けられてしまったのが彼女の不幸だ。
騎士団長の立場からすれば彼女のその懇願は却下せざるを得ない。
いかに彼女を傷つけずに説得するかと悩んでいると、姫様は私の答えが分かっているのか涙を堪えるように表情を強張らせた。……胸が痛い。
「姫様、もう私の答えは分かってはおられるでしょうが」
「……きっと、戻ってきません」
「は……」
「皇帝の証は、きっと、もう戻ってきません」
絞り出すように発された言葉。
皇帝の証。宙の戒典。
……それはデュークが持っている。
もう戻ってこないという彼女の言葉に、私は内心首肯した。
私はデュークが持っていることを知っているが、もう積極的に取り戻そうとは考えていなかった。宙の戒典が始祖の隷長を殺し得る武器だと知られてしまっている。私は、私の友人が抱える不安の種を懐に仕舞う事を許容した。
結局原作通りに進めばいい、という考えがデュークから宙の戒典を返して貰うことを諦めさせた。
それはこの幼子の苦痛として還元されている。
「皇帝にと望まれて私はここにいます。ですが、私やヨーデルが皇帝になるために必要な証が無いのであれば、私たちは一体なんなのでしょうか。国を愛し、民を愛するのが努めと言われ、そう在りたいと思っても、私にはそれが分かりません。私が知っている人たちは、父や母、私に勉学を教えてくれる教師、私の身の周りを世話をしてくれる侍女たち、評議会や騎士団の方々、それだけです。私を私として扱ってくれるのはほんの一握り。……私は、好きです。私はその人たちのことが好きです。……ですが、……私は…………」
徐々に下を向いた幼子は、泣きはしなかった。
吐露された言葉は、解決しない問題を延々と考え抜いて絞り出されたものなのだろう。
誰にも求められず、何もできず、無力のままそこに在ることを望まれる。
彼女はその苦痛から逃れようと私に助けを求めたのだろうか。…………、それは……。
「皇帝の証が行方知れずになってからもう数年経っています。私はあとどれ程待てばいいのですか? あとどれ程、部屋の中で過ごせばいいのです? ……きっと、もう皇帝の証は戻ってきません。戻って来ないのなら、……私は一人の人間として、自由になってもいいのではないですか……?」
なんとも言えない。
宙の戒典が返ってくると力強く答えてもいい。嘘にはなるが、あと数年すればユーリが連れ出すはずだから、彼女の願いは叶う。願いは叶うのだろうが、……どうするか。
単純に「外に連れ出して欲しい」という要求かと思っていたが、彼女の言葉からそれ以上のものを要求されているのが分かる。自由にということは、ここから逃げ出して普通に暮らしてみたい、ということなのだろう。無理難題すぎる。無理、なんだよなぁ。
「姫様」
「…………はい」
「例え皇帝の証が戻って来ずとも、貴女が皇族の者であることは変わりません。もし貴女が全ての責を放棄し、全ての権利を捨てたとしても、周りはそうとは思わないでしょう」
「周りとは、誰のことですか。評議会ですか、……貴方、ですか」
「……評議会も、私も、です」
「どうして……? 私は、何もできません。今のままでは、何も……」
下を向いたまま膝の上で手を握りしめ、言葉尻が震える。
……不味いな。さらに追い詰めてしまったようだ。
だが少し不思議なところがある。彼女はどうしてここまで思い詰めているのだろうか。
彼女の言うこと自体も、今の時期で考えるには少しおかしい。外に出てみたい、だけなら分かるがその先を望んでいる節があった。皇族の身分を捨てて自由になりたいと望むのは、彼女がエステルとして各地を見聞きした末のものなら分からないでもない。原作の方では絵本作家になりたいと望み、ハルルの街に住むことを決めていたが身分を捨てたいとまではなっていなかったはずだ。
それに、自分のことを何もできないと卑下しているのも気になる。
……いや、何もおかしなところは無いか。
そうだ。私の目の前にいる幼子はれっきとした一人の人間だ。
ゲームの中の彼女とは違う。私が知っている数年後のエステルではない。
エステルを基準に考えているからおかしいと感じたのだろう。だが何もおかしなところは無い。
彼女がどれほど思い悩んだのかは、私が知れるはずがなかったのだから。
「……閣下」
「……分かっている」
追い詰めてしまったことを責めるクロームの声に、胃が締め付けられる。
何を言うかと迷っていると姫様が顔を上げた。
「……言われたんです」
「何をですか」
「私が皇帝になるに相応しい器ならば、皇帝の証を返そうと」
「……ん?」
「私はそう言われて、迷ってしまいました。評議会が私を皇帝にと推していますが、私は本当にその器に相応しいのかどうか……。恥ずかしいことではありますが、私は皇帝になることを漠然としか想像していませんでした。漠然と、私かヨーデルがいつかなるのであろうと。けど、あの人に問われて思ったんです。今の私のままではきっと、……皇帝の証は戻ってはきません」
「…………姫様、その者は」
「はい。……あ、あの、アレクセイ……すみません……その、私の部屋に誰も入れてはいけないと言いましたが……、あっ! もちろん部屋には入っていません! ですが、その……バルコニーで……少し話をしただけなので……」
「はい。姫様、その者の容姿は」
「幻想的な御仁でした。赤い衣に身を包み、白く長い髪を風に靡かせていて……月の光を纏って煌めいて見えました。大きな魔物の背に乗って私の前に降り立った時、私は夢だと思ったんです。ですがその御仁に声をかけられて、夢ではないのだと分かりました。その御仁が、皇帝の証……宙の戒典を携えている姿が、……その方の手に収まっているのが当然のように見えて……。そんな方から問われて、私は、……本当に自分が皇帝に相応しいのかと考えさせられました」
「……そう、ですか……」
デューーーク!!!! おまえか!!!!
確かに両殿下に会えとは言ったが、不安にさせろとは言ってないぞ!!
クロームに目を向けると僅かながら目を逸らされた。デュークと一緒に姫様と会ったのはクロームか……? くっ、謀られたか! 知っていたのなら教えてくれても……と思ったが、お互い正体を知らない者同士だったな。くそ……。
「それで、自信を失われて市井に降りようと?」
「……はい。私は多くのことをあまりにも知らずにいると、そう思います。皇帝になった時、私は一体何のために、誰のために在ればよいのか、それが分からずにいます。なら私は城に篭っているばかりではなく、人々が生きる中で同じように生き、学ぼうと。……それでも分からなければ。……未だに皇帝が決まらないのは候補が二人いるからです。……私が降りてしまえば、ヨーデルがなります、から……」
「……ご立派なお考えですな」
「…………はい」
彼女の良いところは、自分の考えが怒られると分かっていても包み隠さずに話をすることだろう。何を思い悩んでいるのか、相談される身としては非常にありがたい。
ヨーデル殿下は身動きが取れない中でも評議会に対して意見をして採用されていたりするから、発言のほとんどを悉く却下されている姫様の中で劣等感が芽生えているのだろうな。まぁ、理想論だけでは国は動かない。当たり前なんだろうが……。
「……そう思い悩まず、自分を強く持たれた方がよろしいかと。貴女が降りたとしたらヨーデル殿下は独りになってしまいます。同じ苦悩を分かち合える者がいないというのは、長い時間を歩んでいく上では苦痛となりましょう。歯痒く思うでしょうが、今は勉学に励み、姫様なりの」
「そ、そのために、です! 私は外に出て多くを見、学ばなければなりません! 私に足りていないのはその部分です。私を外に連れ出してください!」
「…………」
まぁ確かにそうなんだろうけども。
無理なものは無理だ。
「駄目です」
「だ、駄目じゃありません!」
「無理です」
「無理じゃないようにしてください!」
「今の状況ではどう理由を付けても無理です」
「なら私は、私は、……どう在ればいいのです……? 分かっています。私自身、考えが浅いのだということは分かっているんです……アレクセイ、お願いします……」
「心中お察しします。ですが私の立場からはどうにもな」
「アレクセイの、わ、分からず屋さん!!」
「わ、分からず屋さん?」
なんだその言葉は。初めて聞いたぞ?
あまりに突拍子もない言葉に思わず復唱してしまった。
分からず屋さん? なんだ? 分からず屋だけなら分かるが、さんってなんだ?
丁寧に言い直したということか? わか、わからずや……駄目だ、分かるという概念がゲシュタルト崩壊してきた。わからなくなってきた。
「姫様、そう我儘を」
「我儘では、……わ、わがまま……ですがっ! アレクセイ、お願いします!」
「私では」
「私も学ばなければなりません!」
「わ」
「お願いします!」
「……クローム、君からもなんとか言ってくれ!」
「閣下……」
クロームが生暖かい目でこちらを見てきた。
いやだって思っていたよりも押しが強いんだ。駄目な事は決まっているが、こう聞く耳もたない状態というのは苦手だ。議員相手ならあの手この手と考えを巡らせるが、相手は子供だ。どうやったら言うことを聞いてくれるか分かったものじゃない。クローム、頼む! 今こそ君の優秀さを解放してくれ!
「エステリーゼ殿下」
「は、はい……」
「貴女は、本当はどうしたいのですか」
「えっ……」
「貴女は勉学のためと仰いましたが、その真意は違うところにあるのでしょう?」
「…………」
「外に出たい。……それだけなのでしょう?」
「…………違います」
クロームに言われて姫様が先程までの勢いを失う。
まぁ……そうだな。結局のところはそれなのだろう。
クロームがさらに懇々と姫様に言い聞かせる。
閣下を煩わせてはなりません、お忙しい身なのですから。それに淑女としてそう取り乱してはいけません。淑女たるもの、いつ如何なる時も落ち着き払い、余裕を見せるのです。上に立つ者としてもそれは必要で欠かせないものです。市井に下りたいと仰りましたが生活面は誰が見るとお思いで? 貴女はここで護られている身……それを分かっておられると……ご自身でも無理だと思っていることを人に……、と、懇々と、……うん……クロームは……姫様に……非常に心を砕いてくれているみたいだ。
つよい。
……ヨーデル殿下相手なら、同じ男同士分かり合えるものがあるのだが、姫様相手だとどうしてもな。
クロームを連れてきて正解だったようだ。やはり同性同士、分かり合えるものがあるのだろう。……姫様の顔がどんどんと泣きそうになってきているのが気にかかるが。そ、それぐらいで……いいんじゃないか? 駄目か……そうか……すまない……。
クロームの話が一区切りついたのとを見計らって言葉を差し込む。
「姫様、貴女の願いを今この場で叶えることはできません。ですが、これだけは約束できます。将来貴女が外に出た時、我々は貴女の旅を全力でお守りしましょう」
「え? ほ、ほんとう、ですか……?」
「はい。外に出られると思ったら迷わず選ばれると良いでしょう。その時は必ず、騎士団がお守りします故」
「……アレクセイっ!」
「ですのでそれまでは勉学や鍛錬を精進なさるといい」
「はい!」
クロームの言葉に意気消沈していた姫様はパッと満面の笑顔を咲かせた。
横から「……閣下」という声が聴こえる。す、すまない……。これも原作のためなんだ……私が知っている未来を少しでも彼女に歩んでもらうために言わないといけないことなんだ……。正直、もう色々と変わってしまっている部分があるから不安だった。姫様が大人しく城に留まり続けてしまえば、どうにかして外に出さないといけなくなる。その理由をまたこねくり出すのが面倒で……。
話が一段落ついたと判断し、手を付けていなかったお茶菓子をいただく。
昼食を取っていないから、これから軽食でももらって午後の仕事をするか。
午後からの議員との話に頭を巡らせていると、姫様が何かを期待するように言った。
「アレクセイとクロームは、お付き合いしているのですか?」
「ヴゥッ!」
「……閣下」
「ン゛ッ!! ……姫様、コホッ、彼女は私の大事な部下です。決してそのようなものでは」
「そう……なのですか? 残念です……」
「…………ケホッ……」
天然爆弾は怖い。
口元を手で押さえて、器官に入りかけた菓子に小さく咽た。
……本当に、怖い……。
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