いつも通りの朝。庭で殺し合いをしていた二人のうち片割れが芝生の上に沈み、それを遠くから眺めていると沈んだ方が走り去って行った。スバルはそれを見届けた後に残った一人の方に近づいていく。
「なぁラインハルト。お前にちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「やぁ、スバル。おはよう。いきなりどうしたんだい」
「ん、あぁすまん。おはようさん。いやさぁ、お前って弱点とかあったりする?」
「弱点か。……それは剣に限ったことかな」
「いやいやいや、剣聖様にそんな馬鹿なことは聞かないって。剣以外でのことだよ。ほら、嫌いな食べ物とか苦手な生き物とかさ、そういうのあったりする?」
「どうだろう。特にこれといった苦手なものは無いけど……。どうしてそんなことを訊くのか、尋ねても?」
「うん。もしお前にそういうのがあるんだったら、俺はそれをなるべく遠ざけてやりたいなぁと思ってさ」
「ふっ、僕がもし嫌いな食べ物を答えていたら、君はそうしていたんだね?」
「いや違うってそれは言葉の綾というか、俺はお前の母ちゃんみたいなことはしねぇよ! っていうかそんな過保護すぎる母ちゃん嫌だっつーの!」
スバルがそう言うと、ラインハルトは笑みを模ったまま目を細めてどこか遠くのものを見るような素振りをした。それは一瞬のことだったが、強欲の魔女はそれを見逃さない。
『彼の弱点は家族関係かもしれないね。プリステラの時も父であるハインケルのことを気にしていたようだし、祖父のヴィルヘルムとも和解できていない。そこを攻めてみてはどうだろう』
スバルに語りかける言葉は彼にしか聞こえない。彼の前にいるラインハルトでさえそれを聞くことはできない。スバルは嫌な顔をしそうになる己の表情筋を酷使してなんでもない風を装った。
「まぁいいか。悪かったな、変なことを訊いてさ」
「いいよ、スバルの心遣いは素直に嬉しいしね。けど、そうだな。これは僕からのちょっとしたお願いなんだけど、スバルはもっと肩の力を抜いて他愛の無い話を増やしたらどうかな」
「ん? なんのことだ?」
「スバルはそうやって周りの人間のことに尽力しているのは分かる。けれど、そんなことばっかりしているといつか潰れてしまうんじゃないかと僕は心配しているんだ」
「べべべべべ別に無理してねーし! お前の勘違いなんじゃねぇの?」
「そうかな。そうだといいけど」
誰にも弱みを見せず英雄としての姿を体現した赤毛の男は穏やかに微笑んでいる。彼には欠点などない。彼には弱点などない。民衆はラインハルトの姿形と振る舞いを見てそう決めるだろう。その決定は彼にとっての決定でもありうるのかもしれない。スバルは逃げるように「無駄な時間を取らせて悪かったな、じゃあな」と別れを告げる。
「スバルとの会話は無駄じゃないよ。それじゃあね、スバル」
「うわこいつ天然タラシだ。俺はギャルゲーの攻略対象じゃないっての」
「うん? ぎゃるげー?」
「なんでもないです。お前の口からギャルゲーの単語を聞くのはぞっとしねぇな」
そうかな、と穏やかに微笑むラインハルトに苦い顔をして今度こそ背を向ける。
自室に戻ってエルザに首を刈ってもらった。
***
いつも通りの朝。庭で殺し合いをしていた二人のうち片割れが芝生の上に沈み、それを遠くから眺めていると沈んだ方が走り去って行った。スバルはそれを見届けた後に残った一人の方に近づいていく。
「よ、ラインハルト。おはようさん」
「スバルか。おはよう。今日も良い天気だね」
「さっきまで殺し合いをしてた奴の態度とは思えねぇな。悪いな、あいつの相手を押し付けちまって」
「そんなことないよ。強くなりたいという彼の志は――それに日に日に彼は強く――」
その話はもう聞いた。
「ところで、僕に何か用でもあるのかな」
「あ、そうそう。訊きたいことがあってさ」
「訊きたいこと?」
「その……ちょっと訊きづらいんだけど、……ヴィルヘルムさんとは、どうなったんだ……?」
「う……ん。そうだね。僕は一の騎士としての役割を果たせなかったから、祖父も失望したんだと思う。関係の修復は望めないだろうね」
「そっか……。ごめん、嫌なことを訊いちまって」
「いや、いいよ。でもどうしたんだい、いきなりそんなことを訊いてきて」
「……言ったら怒ると思うから伏せさせてくれないか」
「概ね僕の弱点探しかな」
「なんでバレんの!? なに、それも加護の一部だったりする!?」
「違うよ。ただ君は周りの人間を守ろうと尽力する人だと知っているからね。エミリア様の剣である僕が不慮の事態に陥って折れてしまわないよう、早々に把握したがるだろうと思って」
「なんだよそれ。それだと俺がお前のことを全然信用してないみたいじゃねぇか」
「スバルは僕のことを信頼してくれているのは分かるよ」
「……信用もしてるって」
「君の期待に応えられるよう、日々精進するよ」
「お前がそれ以上強くなるとか、世界を壊しかねないんじゃないか」
「僕は常に正しいことを選び続けるから、そこは安心してくれて良い」
「疑ってねぇよ」
スバルは「悪かったな、変なこと訊いて」と言って別れを告げる。
ラインハルトはなんの翳りも見せない表情で穏やかに微笑んでいる。彼は剣だった。剣に表情なんていらないし、もしあったとしても常に一定の表情だけしていれば良い。人を不愉快にせず、誰からの期待にも応えて、その圧倒的な力を持って悪を打ち倒す。英雄譚の英雄然とした彼はそれだけあればいい。
『上手く丸め込まれてしまったようだね。けど家族関係のことはそう間違ってはいないよ。彼は答える前に言い淀んだ。それは訊かれたくないものを訊かれた人間の生理反応だ。相手が君だったから素直に応じただけで、もし違う相手だったら答えてはくれなかっただろうね』
強欲の魔女はラインハルトを観察し続ける。スバルの目を通して見る世界だ。ふいっとラインハルトが視界から消える。スバルが目をそらしたからだ。もうちょっと観察させてくれたっていいじゃないか、と不平を述べると(黙れ)と返答がある。スバルは強欲の魔女に対して手厳しい。
「いいよ。そうだ、スバル。もう少ししたら僕は巡回をしに行くんだけど、君も一緒にどうだい?」
「野郎二人でか? んー……ごめん、俺はちょっとエミリアたんの様子を見に行かなくちゃだから、一緒に行けねぇわ」
「そうか。それは悪いことを言った」
今度こそラインハルトに背を向けて自室に向かう。
エルザに首を刈ってもらった。
***
『彼の言葉を復唱するようだけど、どうしていきなりラインハルトの弱点を探りに行こうと思ったのかな。今までその機会はいくらでもあったはずだけど、思いつきにしては唐突だね』
「唐突だから思いつきなんだろ」
『そうだけどね。別に彼の心の弱点を探らなくても彼はちゃんと最強の武器としての役割を果たすよ』
「お前のあのくっそ悪趣味な試練が無かったら俺もそこまで深く探ろうとはしなかったぜ」
『言葉も無い。君はボクの課した試練のようなものがこの先発生しうると、そう考えているのかな』
「その可能性はゼロじゃないだろ。お前のような思考回路を持った奴が他にいるとは思いたくはねぇけど、集めれる情報は掻き集めておく方がいい。ゲームでもよくあるだろ、何気ない会話でサラッと流される情報が実は終盤で多いに役立つ、だなんてことはさ」
『そうだね。僕のような思考回路を持っている知的生命体がいたら、是非とも会ってみたい。……いや、やっぱりいいかな』
「強欲の魔女の弱点は同じ思考回路のやつか。ふーん。良いこと知った」
『え、ちょっと! やめてよ!?』
「ほらな。何気ない会話で重要な話が聞けただろ。というわけでもうそろそろ黙れ。お前と話をしてたから、朝の日課を終わらせたラインハルトが巡回に行きそうになってるじゃねぇか」
『巡回か。それも彼との何気ない会話から拾われたものだね』
「そうだよ。話しかけてくんな」
スバルは強欲の魔女との会話を無理やり打ち切って、何気ない風を装いながらラインハルトの方へと足を進める。スバルが来た方とは真逆の方に足を進めようとしていたラインハルトは、スバルに気がつくと口元を緩やかに綻ばせた。
「よっ、ラインハルト。おはようさん」
「スバルか。おはよう。見ていたのかい?」
「まぁな。朝から精が出るな」
「彼からしたら僕は良い練習台だろうね」
「うっへ。お前みたいな練習台、無理ゲーすぎて配置主に苦情が行くレベルだろ」
「無理げー? うぅん、それだと君に苦情が行くことになるんだろうね」
「苦情で収まらないことをやらかしたから、今更か」
眉を下げて笑うスバルは、自らを自嘲して肩を竦める。それに笑みを崩したラインハルトが「あまりそういうことは言うもんじゃないよ」と彼らしからぬ、困ったような、少し厳しい口調で言った。
「君の頑張りを、僕は理解しているつもりだ。全てをとは言わないけどね。君がやったことは僕でも出来ないことで、君はそれを誇りに思うべきだ」
「う……あ、あぁ。まぁ、うん、そうだな。誇りかぁ。誇りねぇ……」
スバルは顎を手でなぞる。予想外のことを、この完璧な男に言われて動揺していた。だがスバルはその動揺をすぐさま切り替えて、彼に向かって穏やかに笑う。
「ラインハルト。お前、俺がこれまでのことを誇りに思ってないと思ってんのか? そうだったとしたら、そりゃ勘違いだ。俺は自分がやってきたことは後悔してないし、これ以上の良い結果なんて無いと思ってるぜ」
「だったらどうしてそんな自分を卑下するような物の言い方をするんだい。言葉じゃない、その声から滲み出る自虐のことを言ってるんだ。スバル、君は本当はそう思ってないんだろう。それは後悔してるからじゃないのか。もっと良い方法があったと思っているからじゃないのか。……あまり自分を責めてはいけないよ、スバル。君は君の思うようにすればいい。後の処理は僕たちに任せてくれ」
「ラインハルト、お前なぁ……。あぁもう分かった。気遣いありがとよ。べっつに本当にそんなことは思ってないけど、俺の態度がそういう風に見えるんだったら俺もまだまだ子供ってことだな」
「スバル……」
完全に笑みを消して悲しいものを見る目で見てくるラインハルトに耐えられなくなった。スバルは「無駄な時間を使わせて悪かったな、じゃあな」と背を向けた。
「君がいつか誰かを頼ってくれることを願うよ」
エルザに首を刈ってもらった。
***
いつも通りの朝は崩れることは無い。一日が何度も繰り返されるたびに、スバルは不思議に思う。一つの命も取りこぼさないためにスバルは同じ日を、同じ時間を何百と繰り返したが、その中のどれもが寸分の狂いも無く同じものを再現していく。
これが電子世界ならバグが発生したりするんだろうか。けどこれは現実世界だ。何かに管理されているわけではない、自然なものだから狂いが生じないのだろうか。
そうだったとしたら死ぬたびにこの世界で繰り返すよう管理されているスバルは何なのだろうか。
「よっ、ラインハルト。おはようさん」
「スバルか。おはよう。今日も良い天気だね」
「さっきまで殺し合いをしてた奴がよく言うぜ。お前にちょっと訊きたいことがあるんだけどさ」
「どうしたんだい、いきなり」
「……あぁ〜、すっごく訊きづらいっていうか、できたらあんまり訊きたくないっていうか……」
「僕が不愉快に思うかもしれない、という懸念だったら心配しなくていいよ」
「う、半分はそれなんだけど、半分は俺があんまり乗り気じゃないっていうか……。いやうじうじしてても仕方ねぇな。なぁ、ラインハルト。その、……ハインケル、……さん。とは、どうなったんだ……?」
「あぁ……」
ラインハルトは笑みを模ったまま目を細めて遠くを見るようにした。
それは一瞬のことで、すぐに彼はスバルに応えてくれた。
「それは訊きづらかっただろうね。そうだね、副団長は……、いや、ハインケルは騎士団を自ら辞して、それからアストレア家を出て行方を暗ませたんだ」
「へ……?」
意外な情報に目を丸くする。
それはスバルの工作外の出来事だ。あまりのことに二の句を告げれずにいると、ラインハルトは苦笑して言葉を続けた。
「父は、ハインケルはプリステラの出来事で思うところがあったんだと僕は考えてるよ」
「あ、えと、それは」
「ハインケルは僕の存在を疎ましく思っていたからね。プリステラでエミリア様の剣として、君の采配の下完璧としか言いようが無い手際で僕は活躍してしまった。街の人たちに希望を捨てさせないための演説も、強欲のことも、……剣士のことも」
プリステラの中枢機能五つが魔女教に占拠されたが、スバルの機転ですぐさま奪い返した都市庁舎で、街の皆の不安をすぐに緩和したのはラインハルトの言葉だった。放送された彼の言葉は街の隅々にまで行き渡り、圧倒的な力を持つ英雄の声に人々は安堵した。それは憤怒の力を抑えた要因にもなっている。
彼は活躍した。物語の中の英雄のように都合良く、上手く、完璧なまでに、活躍した。
それを見たハインケルが何を思うかなど、言わずとも分かる。
「そう……そう、だな。そっか。ごめん、悪いことを訊いちまった」
「いいよ。彼にとってはこの方が良かったかもしれないしね。家にも僕にも縛られずに、どこかで息災でいてくれることを願うよ」
「……お前さぁ、いっつも他人のことばっかり気にかけてるよな」
「え?」
相手の無事を願うラインハルトの言葉にスバルは嫌な気持ちになった。
スバルはハインケルに対して良い感情を持っていないというのもあったが、ラインハルトも今まで不当な扱いを実の父から受けていたはずなのだ。その時まで攻撃してきた奴が自らの劣等感に負けて逃げ出したことに対して、そんな穏やかに息災を願うだなんて、こいつはどれだけお人よしなのだろうか。
「スバルは、嫌だったのかい」
「お前のその、家の複雑な事情っていうのは知らねぇけどさ。あいつはずっとお前のことを攻撃してたじゃねぇか。そんな奴の心配をするなんて……。俺はあいつのこと……好きじゃない。好きじゃないどころか嫌いだ。いなくなって清々するぜ。お前もそう思っとけばいいのに、なんでそう穏やかに笑うんだよ」
「ふっ……。スバル、ありがとう。僕を気にかけてくれて」
「今の話からどうしてそーなったー? 俺の話聞いてくれてたー?」
「うん。聞いてたよ。君の言葉を取りこぼすことは無いから安心してくれ」
「どこに安心する要素あるよ!? しかもそれ下手したらヤンデレの発言だからやめような! 爽やかな顔して実は闇な部分がありましたーとか、そちらの方々が大いに喜んじまうからな!?」
「スバルが言っていることは時々よく分からないね。喜ぶ人がいるのなら、いいんじゃないかな」
「はーいアウトー! 天然も入りましたー! 色んな要素ぶっこんでくるイケメンマジ最悪ー! やめような?」
「スバルがそう言うのならやめとくよ」
「アッハイそうですね」
あーこれはダメですわー手遅れだわーと内心嘆くスバル。
穏やかに微笑みながら見ていたラインハルトは「そうだ」と口を開いた。
「訊きたいことはそれだけかな」
「うん? あぁ、まぁそうだけど」
「それじゃあ僕からも尋ねたいことがあるんだけど、いいかな」
「え、なによなによ早く言いなさいよ」
「スバルは苦手なものとか、忌避したいものとかあるのかな」
「えぇ? うーん、怖いものとか、嫌いかもな?」
「怖いもの? 具体的にどういったものだろうか」
「未知のものとか怖かったりするよな。知らないってことほど怖いものは無いぜ」
「そうか。それは、僕もそう思うよ」
スバルは同意を示した赤毛の男を注視する。ラインハルトにも怖いものがあるということが、彼に酷く不釣合いに見えた。けどこいつだって人間だ。怖いものがあって当然だし、それが未知のものに対してならほとんどの人間が持つ感情だろう。
ラインハルトなら未知のものに対しても速やかに解決してしまいそうだが。
「なんていうか……お前にも怖いものってあるんだな」
「そうだね。意外だったかな」
「いや、なんつーか……。お前なら未知のものに対しても勇敢に立ち向かうだろ。で、大体は打ち倒すことができる。それでも怖いのかよ?」
「スバルが言っているのは物理的に対処ができる物事に対してだね。目の前に対処すべき敵がいて、それをどう処理するか。そういったものなら僕は確かに強いんだろうけど、さすがにこれから起こりうることとか、未来のことは分からない。僕は時間が進むにつれて何が起こるか分からないことを常に警戒しているんだよ」
「あー……、そっか。魔女教とかその良い例だもんな。いつどこで現れるか分からないし、目の前に来てくれるのならまだ対処の仕様があるけど、どこで発生するかってなったら、今の俺たちじゃあ分からないもんな」
「うん。君はそうでもないだろうけどね」
「へっ?」
ラインハルトはそこで言葉を区切ってスバルから目をそらす。それも、彼にしては珍しい所作だった。いつもならどんな時だって相手をまっすぐに見る彼が、物悲しそうな表情で自嘲にも似た色で目をそらす。それはあまりにも人間らしい仕草だ。剣にはあるまじき表情だ。
それは自分の不甲斐なさにほとほと嫌気が差している人間の表情ではないか。
バツの悪いことを言って申し訳なさから逃げている人間の仕草ではないか。
何かに対して憂慮をしている不完全な人間がよくする動作ではないか。
どれも剣としては相応しくない所作だ。
「僕は時々思うんだよ。君はもしかしたら未来のことを知っているんじゃないかって」
「あー、まぁそりゃプリステラの時とかそう思っちまうよな。あれは笑えたよな。俺の考えが見事に的中しまくって人的被害をゼロに抑えちまったもんな。けどあれはお前のおかげなんだぜ? お前がいなけりゃ俺は」
「僕だって君がいなかったらあんなに上手く立ち回ることはできなかったよ。君の指示があったから、人々の不安を抑制できたし、魔女教のところにも行けたし、過去の決別も出来た」
「ちょっと待てって。考えすぎだって。なぁ、お前、俺のことをちゃんと見てみろよ。俺にそんなすごいオーラがあるか? 明らかにそこらのモブだろ。一般人Aだって。あんまり俺のことを持ち上げるなって」
「君はそう言うけどね。僕はスバルのことを真の英雄だと思っているよ。その生き様も、その心根も。……弱い僕には到達できない高みなんだろうね」
「お、お前が弱いって!? 冗談きついって! お前が弱かったら俺なんて紙くず同然だろ! ラインハルト、お前俺に夢見すぎ!」
「君はそうやっていつも……」
ラインハルトはスバルに目を向けた。その顔は笑みの形を模っていない。悲しみと苦しみでできた表情だ。スバルは直感する。これはなんかやばいな、と身体が逃げようとする。聞きたくないことを聞かされるような気がする。恥を突きつけられる予感がする。
過剰な期待をかけられそうな悪寒がする。やめてくれよ、俺はそんな大層な人間じゃない。父のような、ラインハルトのような立派な人間ではない。
今ならきっとスバルも分かるだろう。ハインケルの気持ちを、欠片だけでも。
「君がいたから助かった命がある」
「それはお前にも言えたことだろ」
「君がいたから僕はここにいることができる」
「そ、れは……それはお前」
「失われたものなんて無いよ。確かにこれは君が本当に望んだ形では無いのかもしれない。君はそれを後悔しているんだろうけど、けどそれは仕方の無いことだったんじゃないか?」
「仕方の無い、こと……?」
「誰も欠けてない。救われている人間が確かにいる。……それ以上を望むのは確かに君らしいのかもね。けど、自分を責めるのは違うんじゃないかな」
「何言ってんだよ」
「スバル。君は苦しそうだ。いつも無理に笑っているね。笑っていなければ、周りに安心を与えなければ死んでしまいそうな生き方をしている。僕はそれがとても心配なんだよ。いつか君の……君の死体を見ることになりそうで、毎日、毎秒不安に思っている」
「いやいや、死ぬなんて、そんな」
「何が起こるか分からない不安は言ったよね。僕は毎秒ごとに恐怖を覚えている。フェルト様の一の騎士になれなかった僕は、失うことに対して臆病になってるんだ。祖父のことも、父のことも。僕はもうこれ以上何も失いたくない。だからスバル。あまり自分のことを疎かにしてはいけないよ。蔑ろにしては駄目だ。君は、僕にとって大切な……そう、友人なんだからね……」
「…………」
それからどう部屋に戻ったかは覚えていない。
エルザに泣きついて首を刈ってもらった。
***
『君にとってのは怖いものはきっと彼のような善人だろうね。彼は君のことを気にかけている。君のやっていることを完全に把握しているわけじゃないけど、その芯を理解している。君とボクの検証を知ったらどうなるだろうね。君の死体の山から築かれた土壌を理解した時、彼はどう思うんだろう。彼の今の立っている場所は、君が画策したものだと知れたらどうなるんだろう。あんなにまっすぐな生き方をしている彼は、きっと嘆くだろうね』
「うるせぇよ」
『それでも君は進み続けなければならない。ここまで来たんだ。戻ることは不可能。進むしか道は無い。後悔なんてしてない。君とボクの検証は君の思い描いたものを忠実になぞっている。心を鈍らせてはいけないよ。大丈夫だ、なんせ彼には君とボクのことを知ることはできない。知るには君の口から語られなければならない。そんなことは絶対にできないんだ。なら悩む必要は無い』
「うるせぇって言ってんだろ」
『君は彼に目を向けすぎた。彼の弱さは十分理解できたよ。彼の弱さは今は君のことで、人々のことだ。彼はもう誰も失いたくないと願っている。その弱さは強さと表裏一体だ。良かったね、彼にとってそれが弱みであり続ける限り彼は人々のために尽力してくれるだろう』
「うるせぇ!!! 黙れ!!! お前の言葉なんて聞きたくねぇよ!!!」
『ボクは事実を言ったまでだ。けど、そうだね。これ以上契約者様の機嫌を損なうことはしないよ。じゃあね、……』
自室で叫び、ソファーを蹴り倒す。内側を暴れまわる激情を上手く処理することができない。頭を掻き毟りながら、意味の無い言葉を垂れ流し続ける。感情を上手く処理できない。精神の痛みを身体が勝手に涙に変換して目から流れていく。鼻をすすり、自分が一体何を感じているのかも分からないぐらいに荒れ乱れている。
どうしたんだよ、ナツキ・スバル。ラインハルトは俺のことを友人だと言ってくれただけじゃないか。なのにどうしてそんなに荒れてるんだよ。心を掻き乱されてるんだよ。
違うだろ、本当は分かってるんだろう。スバル、お前はラインハルトの居場所を奪った。ラインハルトのあの輝かしい称号の陰で扱われる彼としての人格の不遇さを、彼がようやく自分の居場所を見つけたと捧げた一の騎士の誓いを、奪ったのは間違いなくお前だ。
それを知らずにスバルに感謝の気持ちを伝えてくる彼の真っ直ぐさに罪悪感を覚えて、お前は激情に駆られている。そうじゃないのか。そうだろう。
自分への問いかけに答えてくれる者はいない。
スバルは久しぶりに感じるものの対処を完全に忘れていた。
あのときは、あのときはどうだった? 何が起きてるか分からない状況で、そうだ、一番最初にロズワール邸に来たとき。いつの間にか繰り返されてしまったあの時のような激情を、あの時はどう処理した?
あの時はエミリアたんが俺を慰めてくれた。
母のように慈愛に満ちた手で、ぬくもりの中で、涙をこれでもかと流しながら、みっともなく泣き縋った。
でもそのエミリアも今ではスバルに依存している。
そうだ、あの時は? 王選の時の、あの人生最大の恥であるあの後の、クルシュの屋敷でのことだ。何回も無様な姿を晒しながら、一人で足掻き、皆から失望されてそれでも俺はなんとか皆の信頼を勝ち取って突破した。あのときは?
あの時はレムが俺のことを認めてくれた。
認めているが手厳しい彼女は俺の弱さを受け入れず、立ち続けろ、進み続けろと言ってくれた。
でもそのレムは今は眠りの中だ。
ぐるぐると考える。
どうしたらいい。俺はこの激情を、どうしたらいいか分からないこの感情をどう処理したらいい。一人でどうしたらいいんだ。今までのは参考にならない。それは他者の力があってこそのものだから。今の俺は一人で立ち続けなければならない。
今のスバルは誰も頼れない。誰も頼ってはいけない。
そもそも頼るとしたって、誰に? 誰に頼ったとして、何を言えばいい? 何を言ったとして、それがどうしたっていうんだ?
考えて、煮詰まって、激情に呼吸が苦しくなってきたところで、ストンと憑き物が落ちたようにスバルの中から激情が欠落した。
「……あれ? 俺、なんでこんなに悩んでたんだ?」
考えてみる。激情の原因だったらラインハルトの言葉を反芻してみる。
ラインハルトはただスバルの心配をしているだけだった。友人の危うさを見咎めて、それを慎むように言っただけだった。……これのどこに心を掻き乱す必要があったのだろうか。
それは友人に対しては至極当たり前の感情だった。
スバルだって、今はもういないオットーが危ないことをしたら心配するだろう。
必死に止めようとするだろう。……それのどこに、激情を感じた?
「あー、俺、馬鹿みてぇだな。うんうん、よし、大丈夫だ。笑え、ナツキ・スバル。でなきゃ死ね」
鏡の前に立って涙を拭い、赤みが差している目元を揉む。温かい濡れタオルでも用意した方がいいか。いや、この分だとすぐに引くだろう。幸い、泣いた時間も短時間だった。
「よし、よし。……よし」
鏡の前で何度も頷いて、自分は大丈夫だと思い込む。
何十年も付き合ってる自分の極悪顔は見慣れたものだ。
鏡の中のスバルは、そんな極悪顔を物ともせずに快活に笑った。
***
いつも通りの朝だ。無駄なことに時間を食ってしまったせいで、庭には誰もいなかった。殺し合いをしていたはずの二人は、もうとっくにどこかに行ってしまっている。
スバルはあちゃーと頭を掻きつつ、ラインハルトの居場所がどこか考えた。
ラインハルトは巡回をすると言っていた。彼の言う巡回は範囲が広い。この屋敷の中と周辺の警戒、問題が無ければ村まで足を伸ばしているはずだ。
今はどの辺りだろうと頭を捻っていると、後ろから「スバル?」という声がかかった。振り返ると、まさに今スバルが探していたラインハルト本人が、屋敷から出てきたところだった。
「よっ、おはようさん」
「うん、おはよう。今日は少し遅かったんだね」
「あ〜……ちょっと夢見が悪くってな」
「そうみたいだね。目元が赤いよ」
「ええ!? マジで!? 嘘だろぉ……もう治ったと思ってたのに」
「大丈夫だよ。僕以外には分からない些細なことだからね。……あ、いや。ぺトラさんなら分かるかな」
「あー、ぺトラは俺の不調にすぐに気付いてくれるからなぁ。気遣いのできる良い子だろ」
「そうだね。彼女はとても優秀だ。君に関しては心を砕いているし、好ましい人だよ」
「やりぃ。お前にそこまで言われるんだから、ぺトラはマジで有能でかわいいってお墨付きが付いたも同然じゃん。……言っておくけど嫁にはやらんからな」
「娘を持つ父親のような発言だね。そうだな、スバルの怒りを買いたいわけでもないし、そうさせてもらうよ」
「おいおいそれは俺のぺトラが魅力的じゃないってことか? もっと情熱的になれよ、俺を殴り倒して奪うぐらいには、ってごめんお前に殴り倒されたら死ぬ。確実に死ぬから穏便に殴ってくれ」
「ふふ、僕はどう言ったら良かったのかな。娘を持つ男心は難しいね。それに僕は殴るだなんて野蛮なことはしないよ。もし本当に交際を申し出る時は、ちゃんと相手の気持ちを汲み取って真摯に頼み込むからね」
「ザ・正道を通る野郎の馬鹿真面目な言葉だな。眩しすぎてそれだけで俺はノックアウトだよ。ケッケッ」
「そうやさぐれないで欲しいな」
「っていうかお前が頼み込むってなーんか似合わないよな。誰かと付き合ったこととかあんの?」
「無いよ」
「ナカーマ」
「スバルもなんだ?」
「うるせぇ俺はお前と違って告白もされやしねぇんだよ」
「それは変だね。君なら付き合いたいという女性は多いだろうに」
「あーあー聞こえマセーン。そんな慰めいりマセーン」
「事実なんだけどね」
困ったように笑うラインハルトは、今の会話が楽しかったのか少しの間微かに肩を震わせて笑っていた。スバルはそれを見て、ふと思いついたことがあり「なあ」と声をかける。
「唐突で悪ぃんだけどさ」
「ん? なにかな」
「手、貸してくんねぇ?」
「いいよ。何か問題事でも?」
「……いや、違う違う。何か手伝って欲しいとかじゃなくて、お前の手を触らせてくんねぇか?」
「え? いい、けど。いきなりどうしたんだい」
「だから言ったろ。唐突で悪いけどって」
「う……ん、そうだね。いいよ」
いつもの彼にしては珍しくおずおずと手を差し出し、スバルはそれを何の衒いも無く取る。黒い手袋に覆われた手は剣を持つ人間らしく硬かった。片手でラインハルトの手を下から包み、上に向けられた彼の手の平を指先で確認するように突いていく。表面の皮膚が摩擦に負けないよう硬質化し、剣ダコらしきものも見つけた。そのまま手の平中を満遍なく突いていると、「その、スバル」とか細い声が彼を止めた。
ラインハルトは戸惑った顔で口元を笑みに保ちつつ、スバルの奇行をどう捉えたら良いのか迷っている風だった。
「これは、なんの意味が?」
「んー? 意味なんてねぇよ」
「そうなんだ? ……うぅん、そうか。意味が無いことか。それは、良いことだね」
「へ? ちょっと待て。意味が無いことの何が良いことなんだよ。お前の中でどう決着が付いたのか気になるから教えろよ」
「いや、はは。そうだね。うん」
「何が「うん」だよ、ちょ、ちょちょちょ待てもしかしてお前照れてる? 照れちゃってる? うぎゃー! やっちまった! 俺はそちらの方々がうっかり微笑むようなことをー!」
「あはは」
「あはは、じゃねぇって!!」
慌てて手を離すスバルに、ラインハルトは心無しか残念そうに眉を下げた。その反応にスバルはどうしたらいいか分からずに、腕を組んで顔を大きく真横に向けた。分かりやすいそっぽの向き方に、ラインハルトはゆるく握られた手を口元に置いて、おかしそうに笑った。
「あ、あははは、ご、ごめんスバル。面白くって」
「謝りつつ面白いとかディスってんじゃねぇよ。なんだよ、まぁ確かに俺の軽率な行動がこれを引き起こしたのは間違い無いんだけど、これなんかむかつくな!」
「ふっ、ふふふ……。うん、スバルはそのままでいいよ」
「はぁ〜〜〜? お前これ以上俺を怒らせるとやばいぞ。具体的に言うと、そうだな、……うぅーん。お前に対して何かペナルティになることが思い付かないな。飯抜きとかか?」
「それは怖いね。ラムさんの食事が食べられないのは痛手だ。分かった、笑うのをやめ、ふっ」
「やっぱお前飯抜きな」
「ふっ、ふふっ。うん、ごめん、ふふっ、ふ」
「何がお前のツボにハマったのかわっかんねぇなコレ」
笑いの発作が止まったラインハルトはその後スバルを巡回に誘った。スバルはそれを断った。スバルは自室に戻って今回のことも首と一緒に軽率に投げ捨てた。
***
いつも通りの朝。庭で殺し合いをしていた二人のうち片割れが芝生の上に沈み、それを遠くから眺めていると沈んだ方が走り去って行った。スバルはそれを見届けた後に残った一人の方に近づいていく。
「なぁラインハルト。お前にちょっと言いたいことがあるんだけど」
「やぁ、スバル。おはよう。いきなりどうしたんだい。何か問題事でも?」
「ん、あぁすまん。おはようさん。いやさぁ、ちょっと手を貸してくんねぇか。勿論何かを手伝ってってことじゃなくて、お前の手を触らせて欲しいんだけど」
「え? いい、けど」
いつもの彼にしては珍しくおずおずと手を差し出し、スバルはそれを何の衒いも無く取る。スバルはラインハルトの手が剣士の手らしく硬いことも知っていたし、剣ダコの位置も、彼の手がスバルよりも大きいことも知っていた。その手が多くの命を救うことも、その手を欲したがために彼から大事な物を奪ったことも。
スバルは全部心得ていた。
だから、とスバルは彼の手を握り、握手の形を取った。両手で包み込ように彼の手の甲にも手を添えて、スバルはラインハルトを真正面から見返した。目の前の赤毛の男は、スバルのただならぬ雰囲気に真剣な顔を返す。
「なぁ、ラインハルト。俺はお前のことを信頼している。お前に助けられたことは何度だってあるし、これからもそうなると思う」
「うん」
「俺がやりたいことは、お前の存在無しじゃきっと成し遂げられない。エミリアたんが王座に座るまでの間、魔女教は黙ってないだろうし、それにあいつらはそんなことが無くても根絶やしにしなくちゃいけない奴らだ」
「そうだね。彼らの存在は放置しておけない」
「あぁ。俺は、レムの名前と記憶を奪ったあいつらを許せない。俺は全部成してみせる。俺はそのために足掻き続ける。ラインハルト、あいつらをぶっ潰すためにお前の力を最大限に使わせてもらうぜ」
「勿論だとも。僕はそのためにここにいる」
「違ぇよ。それだけじゃない。お前は俺の友達でもあるだろ。俺の勝手な勘違い、自惚れじゃなければな」
「そうだね。スバルは僕の友人だ。放っておけない大事な友だ。君の力になれるんだったら、こんな嬉しいことは無いだろうね」
「お、おう。お前俺のこと好きだな? さすがの俺もちょっとびびったわ。いやそれで、それでだ。俺もお前の力になりたい」
「僕の?」
ラインハルトは不可思議なことを聞いたというように首を傾げる。スバルは言葉を選ぶ。ラインハルトにとって、どれが一番の言葉であるかを検証する。
「あぁ。お前が足りないと思ってるところを俺は補う。全力でな」
「……プリステラの時と、同じようなことを言うんだね」
「そうだな。けどそれは俺が」
「もういいよ」
「……は?」
「いい。スバル、僕は今から巡回に行く。すまないね、時間を取らせてしまって」
「え、ちょ、オイ」
「それじゃあね、夕刻また会おう」
するりと手が離れていく。何が起こったのか分からなかった。スバルは知らず知らずのうちに地雷を踏んでしまったのか。いや、そんなことは無いはずだ。だったら何が悪かったのか。スバルに背を向けて歩き去っていく姿を見送り、スバルも自室へと戻った。検証失敗。
***
いつも通りの朝。段階を焦り過ぎたのだろうと検討を付けて、前々回のあのラインハルトが笑ったところまで踏襲してみた。
「やっぱお前飯抜きな」
「ふっ、ふふっ。うん、ごめん、ふふっ、ふ」
「何がお前のツボにハマったのかわっかんねぇなコレ」
笑いの発作が止まるのを待って、スバルは大きくため息を吐いてラインハルトに向き直った。ようやく落ち着いたラインハルトは柔らかな顔でスバルを巡回に誘う。スバルはそれを了承した。良い天気だし、たまにはいいかといった体で彼の横を歩き、屋敷周辺を散策する。
「なぁ、ラインハルト。訊きたいことがあるんだけど、いいか?」
「今日のスバルは僕を構う日なのかな。珍しいね」
「それだと俺がいつも誰かを構い倒してるみたいだな」
「そうだね。エミリア様とかね」
「そりゃエミリアたんは別枠だし。というかエブリデイ毎日エミリアたんデーだし」
「えぶりでい、とは?」
「毎日ってこと」
「同じ言葉を復唱したということか」
「そうそう。そうすることで言葉が強調されて良い感じになるだろ」
「うぅん、そう、だね……?」
「そう反応に困るみたいな反応をされるのが一番困るからやめて」
「そうだね」
「イエッス」
「いえっす、とは」
「それでいいです、ってこと」
雑談をしながら屋敷周辺を歩き、起伏の激しいところも念入りに調べて行く。本来ならスバルがいない方が、ラインハルトもこの作業を早く終わらせることができるのだろう。それをおくびに出さずに、ただ穏やかに笑ってスバルに付き合ってくれている。
ラインハルトの巡回ルートをまったく知らなかったスバルはこの距離を一人で、しかも毎日行っているラインハルトに頭が上がらなかった。加えてここから村にも行っているらしいし、さらに頭が下がる。
「そういえば、スバル。僕に訊きたいことがあったんじゃないか」
「あ、そうだった。なぁお前ってさ、なんか弱点あったりする? 剣以外のことで」
「弱点? そうだな、特には無いと思うんだけど」
「じゃあ気になってることとかは」
「うん? そうだね、それも……いや、……。スバルに言っていいか分からないけど、最近は、その、父のことが気懸かりかな」
「……あいつ、騎士団抜けたんだってな」
「知ってたんだね。さすがだ。そう、それからアストレア家からも姿を消した。どこかで無事に暮らしているといいんだけど」
「あいつならしぶとく生きんだろ」
「そうだといいね」
「……ヴィルヘルムさんは?」
「あぁ、祖父はいつも通りだよ。プリステラの折から会ってはいないけど、今も変わらずクルシュ様のところにいる」
「本当にいつも通りなのか」
「……さぁ。今の僕にはもう分からないかな」
「そっか」
さっきまでの和やかな雰囲気が鳴りを潜め、二人は無言で足を進めていく。ロズワール邸の背後を森が覆い、そこも注意深く確認していく。森の半ばに差し掛かったところで、スバルは先行するラインハルトを呼び止めた。
「何かあったのか」
「いや悪ぃ。何も無いんだけど」
「そう。……どうかしたのかい?」
「いや、まぁ、うん。あぁ〜、その」
歯切れの悪いスバルにラインハルトは首を傾げる。
スバルは頬を掻いて目をあっちこっちにそらした挙句、何回か意味の無い唸り声を上げて、どうでもよくなったのか吹っ切れた顔でニッと笑った。
握った拳をラインハルトの胸に軽く当て、「俺は」と言う。
「俺じゃあ力不足かもしんねぇけど、俺はお前の味方だからな」
「え?」
「まぁ、あれだ。何か困ったことがあったら言えよ。俺も一緒に考えてやるし、一人で抱えるよりかはマシだろ」
「……それは、君にも送りたい言葉だね」
「そっか。……それもそうだな。俺もお前を頼ることにするか」
「僕の剣が必要だろうしね」
「違うっつーの。何か困ったことがあったらお前に言う」
「それは……」
スバルの言葉に困惑している彼に気を良くしたのか、スバルは口の端をさらに引き上げた。悪党顔がさらに凶相に染まる。ラインハルトの横をすり抜け、してやったと肩を笑いに上下させて進んで行く。その背をラインハルトは追従した。
「これからもよろしく頼むぜ。ラインハルト」
「……あぁ、君の期待に応えられるよう努めるよ、スバル」
「そんな固いことを考えずに行こーって」
「僕はこういう生き方しか出来ないからね。諦めてくれ」
「まぁお前がいきなり砕けてきたらそれはそれで衝撃的だから嫌だけど。いやいいんだけど、ちょっと段階を踏んで欲しいっていうか」
「ふふ、それは心配しなくていいよ。僕はずっと変わらないから」
「そう言われると変えたくなっちゃうのが繊細な乙女心よ」
「そうか。それじゃあいつか僕を変えてみせてくれ」
「うげぇ〜、無理難題を突きつけられた気分〜」
ま、頑張ってみるけど。とスバルは小さく零し、ラインハルトは困ったように笑った。彼らしからぬ、目線を地面に落とし、本当にどうしようもないといった風に笑う。それは安堵か、呆れか、はたまた他の何かか。柔らかく崩されたその表情は、きっと悪いものではないだろう。
『検証終わり。君はラインハルトの心をさらにこの陣営に縛り付けることに成功したんじゃないかな。君がどういった意図でそうしたのかは、まぁボクも深くは追求しないよ。彼の力は必要不可欠なものだからね。君の判断は間違っちゃいない。……けど、そうだね。困ったことがあれば言う、か。……君も存外甘い顔をできるようになったじゃないか。喜ばしいことだね。嘘で全てを覆い、虚構で飾られたものを見せて心を得る。素晴らしい』
スバルは強欲の魔女の言葉に怒りを覚えながらも、ラインハルトが傍にいる今何も言えずに押し黙る。
『君も強欲だ。求めるものは違うだろうけど、ボクと同じだ』
お前とは違う。強く念じながら失せろと命令する。
エキドナはそれで黙った。それだけでよかった。
スバル、君は何かを見落としてはいないか? この検証の間に何か拾い損ねたものはないか?
それはスバルに関係があればあるほど、彼は見落としていく。拾えるものは何も無い。今の彼はそれに一生気付くことは無い。
スバルの後ろを歩くラインハルトは、顔を上げて礼服に身を包んだ背を見る。
次いで自身の黒い手袋に覆われた手を見下ろし、その手を前にいる人間の背に伸ばした。肩に触れる直前、思いとどまって手を下ろす。
ラインハルトは友人であるユリウスのことを思い出す。……友人とは、どういったものだったか。
黒い手袋を見下ろし、ラインハルトは首を振ってスバルの横に並んだ。
「おっ、わ。なんだよいきなり並ぶんじゃねぇよ」
「この先は段差が多くてね、転ばないように気を付けないと」
「あ、そうなんだ? サンキュ」
検証終わり。
←