※豆鳩さんからのネタ提供です。
前半1000字ほどは豆鳩さんが。後は藤宮が書いています。
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僕たちの本丸には一本の欠落品がある。
それがあるのは僕たち刀剣男子が寝泊まりする部屋と同じ、ごく普通の部屋だ。ただ少し違うのは、内から外に出られないように結界が張られていることだけ。一日に三回、朝昼晩と食事を運ぶ時くらいしか襖を開けることがないから、室内の空気は澱んでいる。けれど換気されることはない。欠陥品に時間を割く変わり者など誰一人としていないからだ。
欠陥品は僕がこの本丸に来た当初はへし切長谷部と呼ばれていた。長年近侍を務めていたようだから、昔は優秀だったのだろう。接点が少なくあまり話す機会はなかったけれど、鍛錬に付き合ってくれたのはよく覚えている。彼は本丸の中でも一二を争う精鋭だったから、彼との鍛錬は為になった。元は精鋭だった彼が閉じ込められた部屋でなにをしているのかというと、事務仕事だ。仕事といっても、視界を失った彼ができる仕事などない。適当に与えられた紙と筆を使って、文字を綴っているだけ。近侍時代にしていた予算整理でもしているつもりなのだろうが、墨に浸されることのない筆先は文字を形にすることはなく、なにを書いているのかは誰にもわからない。
欠陥品がこのような生活を送るようになったのは、敵によって目と脚を奪われてからだ。白濁がまじる瞳は布で塞がれ、光を通すことはない。死んだ魚を思い出して気持ち悪いからと布をかぶせたのは誰だっただろう。脚の膝から下が存在していないのは、ズボンの余った布地部分を見ればはっきりとわかる。
共に遠征していた仲間を守るために目も脚も失ったというのに、このような扱いを受けるなんて神には慈悲がないらしい、なんて、一応神である僕が思ってしまうくらいには今の彼は惨めだ。そんな思いがあるからか、本丸内の誰もが彼を気にかけない中、僕だけが自主的に御飯を配給している。
そうして、今、僕は彼の部屋の前に立っている。襖の向こう側はしいんとしていた。いつものことだ。彼は全く音を立てない。まるで完全に壊れてしまったかのように。
廊下にしゃがみ、手に持っていた料理を乗せた盆を一旦床に置き、空いた手で襖を開く。外気がはいり、畳に積もっていた僅かな埃が宙を舞う。敷かれた布団の上に彼はいた。目が見えないはずなのに布団は綺麗に敷かれていて、彼の身に染み付いた所作の美しさが分かる。
僕が来ることを分かっていたみたいに、彼の顔は真っ直ぐ此方を向いていた。布の奥から二つの鋭い視線を感じた気がして、思わず肩に力が入る。彼との思い出がほとんど鍛錬時のものだからか、頭の中にいる彼は射殺さんばかりに鋭い視線で僕を睨めつけ、ゾッとするほどに隙がない。だからだろうか、目の前にいる欠陥品が頭の中にいる彼と重ならず、何重にもブレて見えた。
「食事を持ってきたよ」
「そうか。いらん」
「まぁそう言わずに」
「俺に構う暇があるなら任務に戻れ」
「んー。はせ」
「呼ぶな」
「……君、暇だろう? 両目が使えないんじゃ書物も読めないし、どうだろう。僕を暇つぶしに使ってみては」
「くどい。持ち場に戻れ」
「相変わらずだなぁ」
着流しに身を包む彼は床に敷かれた布団に下半身を入れ、まるで病人のようだった。それが彼をさらに弱く見せていて、どうにも落ち着かない。
膳を彼の近くに寄せ、居住まいを正す。彼との会話はいつもこんな風に始まる。毎日繰り返される会話はにべもなく切り捨てられるだけだったが、これでも前と比べれば随分と良くなったものだ。僕がこの部屋に食事を持ち込み始めた頃は、彼の身体機能は奪われたばかりだった。苛立っていた彼に邪険に扱われ、鋭い言葉をぶつけられていたものだ。この頃はそういったことも無く、ただ淡々と言葉を投げかけられる。その音に怒りは無い。感情の乗っていない彼の言葉を、僕は恐ろしく思う。
己の怯懦を恥じ、誤魔化すように笑みを形作る。僕のそんな表情は彼には見えないのだけれど、こんな人形のような彼の前に居座り続けるのにはそれなりのものが必要だった。
「ここはいつも埃っぽいね。換気していいかな」
「無駄なことを」
「無駄じゃないよ。料理はやっぱり美味しくいただいてもらった方がいいし、それにこんな部屋だと病気になるよ」
「……そうだな。これ以上の厄介者になるのは御免だ」
もぞりと身動ぎ、彼の目線(その包帯の下の目は何も映さ無いが)は部屋の床間に向けられる。床間には彼自身である刀が刀掛けの上にあり、その近くに窓がある。彼の目線を追うことができない僕はどちらを見たのかなど分かりはしなかった。和紙の貼られた障子窓を開き、その向こうに現れるガラス窓の鍵を外して陽の光を呼び込んだ。この部屋は日当たりが良い。良すぎるぐらいだ。正午の眩しい陽に目を細めて、部屋に入り込む春の風を肺に取り込む。振り返り、こちらに顔を向ける彼に声をかける。
「良い天気だよ。風もあって気持ち良いし、春も終わりに近いけど、夏が来るだなんて思えない気候だね」
「この本丸の四季は主の裁量で決まる。当たり前なことをわざわざ言うな」
「手厳しいなぁ。……あっ。ねぇ、遅咲きの桜がここからも見えるよ。昨日までは五分咲きだったのに、もう八分まで咲いてる。名前は何だったけかな。関山(カンザン)だったっけ」
「八重桜だ」
「へぇ。よく知ってるね。他の桜はもう散ってるのにあれだけ綺麗に咲いてるよ。他の葉ばかりの木の緑と、八重桜の華やかな色彩で絵みたいに綺麗だ」
「そんなもの、見えない」
「想像してみたらいいじゃないか。ほら、君からの位置だと窓枠が額縁に見える。その中に生きた絵がある。見惚れるだろう?」
「……おまえは、そんなことを言う刀だったか」
「君に楽しんでもらいたいんだ」
「馬鹿なことを」
感情の乗っていない声は淡々としている。僕は苦笑し、彼の刀に目を向けた。鞘に収まっているそれは刀身は見えない。僕はその刀身の凄惨さを知っていた。刃毀れをし、一部は欠けて破片はここに無い。破片部分が彼の目や脚だったのではないか。手入れされることなく安置された刀は、僕らの恐怖の対象だ。いつかお前もこうなるぞと言われているようで、胸に暗い色が滲む。窓枠に軽く腰掛けて彼に向き直った。
「ねぇ君。いい加減こんなところに引きこもっていないで手入れを受けなよ。欠けた部分は連結でもして補えばいい。主に進言すればやってくれるよ」
「またその話か。俺はこれでいいんだ。放っておけ」
「放っておけないよ。君自身は良いだろうけど、僕らの気持ちも考えてくれないか? 主に放棄された刀がいるだなんて、許されない」
「許されない? 何を言うのかと思えば、許されないだと? 笑わせるな。そうなるのはおまえだけだ。他のやつらは俺のことなど忘れているだろう」
「忘れてなんかいない。見ないようにしているだけだ」
「なら忘れるようにすればいい。へし切長谷部を鍛刀して呼べばいいだろう。そうすれば否が応でも日常に戻っていく」
彼の言葉に、苦しさで顔が歪む。何かを言おうとしたけど、その言葉は喉を通ることは無かった。押し黙った僕に、彼は小首を傾げて口の端を吊り上げた。
「あぁ、そうだった。へし切長谷部はもういるんだったな?」
皮肉であったとしても、表情の変化は人形然とした彼に生の色を落とす。声の調子は単調だったが、感情を表す行動を一切示さない今までの事を思うと微かに安堵する。それを塗り潰す彼の言葉を、僕は否定せずに包帯の下の眼光を見返す。
「…………」
「どうして知ってるか、を聞きたいのだろう」
「…………」
「声が聞こえた。聞き間違えようもない、俺の声だ。ここは風通しが良いのは知っているな? 風に運ばれて、昔の俺を思い起こさせてくれたよ」
「それで、窓を閉め切っているのかい」
「どうだかな。おまえは俺の復帰を望んでいるようだが、俺が今それを望んだとしてももう手遅れだ。一つの本丸に同じ刀はいらない。俺たちは付喪神だ。自らの存在を確信することで顕現することができる。俺のような廃刀が復帰したとして、それでどうなる? 同じ存在は微々としたところが違っているだけでは違う存在とは認められない。同じものが二つあれば、確実にどちらも揺らぐ。己を確信できなくなる。目の前に同じものがあるんだからな。それに、後に顕現した俺は、俺を見てどう思うだろうなぁ? おまえは俺をみじめだと蔑みたいのか? 痛ましい刀だと、そう言い」
「やめてくれ!!」
嘲ることもなく、淡々と紡がれる言葉に聞くも耐えがたく叫ぶ。少しでも感情があれば僕はまだ救われたかもしれない。彼から発せられる言葉はそれがおまえの真理だと、事実を言葉にしているだけだと言わんばかりで、無性に腹立たしく、虚脱に似たもどかしさを感じた。ともすればその場でみっともなく地団駄を踏み、頭を掻き毟り狂乱したくなる。
ここまで僕を駆り立てるのは、昔の彼の姿が彼に重ならないからだ。床に身を置き、布団の下に隠れる肢体は欠損している。戦場を駆けるための機能は失われ、獲物を見つける器官は白濁とにごりきっている。どこに彼がいるというのか。彼の形をした人形が包帯越しに何を見ているか僕には想像ができない。僕の目にはいつだってあの射殺さんばかりの眼光が、不敵な笑みが、彼として存在している。戦場を駆ける背を知っている。敵を屠り、血の飛沫の中で獰猛な獣が吼えている。荒々しく、暴力に満ちた瞳は目の前の肉袋を刻み、命の象徴を抉り、知能と存在を示す御首級を掲げて立つ。命を動かす赤い血が彼を讃えて周囲を華やかに彩り、胴体から離された首は持つ者の強さを物語る。凄惨な場を作り上げた刀は、横たわる地面から生えるように突き出された腕たちの中で拍手を、賞賛を受けて笑って勝利を叫ぶのだ。
僕はその背を知っている。知っているからこそ、目の前の欠陥品に耐えられない。
「僕は君がいい。今の長谷部くんには申し訳ないが、僕は君にまた戦場に立って欲しいんだ。君の雄姿をまたこの目で見たい。同じ部隊で共に駆けようじゃないか。こんなところで腐るなよ。君はこんな場所で終わる刀じゃない。どうせ折れるなら戦場で、だろう? どうして今の状況に甘んじるんだ。僕は耐えられない。君と戦場に立ちたいんだ!」
「告白染みてるな。何度でも言おう、俺はここでいい。主から賜ったこの命を、この部屋で主にお返しするんだ。それ以外は無い」
「どうしてそんなことを言うんだ! 君はそんな刀じゃないだろう!」
「おまえの中の俺を押し付けるな。いい迷惑だ」
「ねぇ、そこまで言うのならさぞ立派な理由があるんだろうね? 教えてくれよ、僕が納得できるように。そうしたらもう君の迷惑になるようなことは言わないよ」
「……何故おまえを納得させなくてはならんのだ」
「迷惑なんだろう? 僕の言葉がうっとおしいんだったら、それぐらいの手間は惜しむなよ」
言葉の応酬が止まり、部屋に薄ら寒い沈黙が落ちる。鬱積していた感情を吐き出して、幾分か冷静になった僕は乱れた呼気を整える。欠陥品は動じず、元のように無表情でこちらを見ている。衝動のままそのうっとおしい白を引き剥がしたくなるが、彼の顔に巻かれた包帯は僕を守る城壁でもある。それが無くなってしまえば、僕は目の当たりにしなくてはならない。そこに見惚れた輝きが無いことを、彼を象徴する鋭さが無いことを。
じりじりと焦がすような沈黙に、やがて耐えられなくなった僕は彼を睨みつける。
「何か、喋りなよ」
「話すことは何も無い」
「それなら僕は納得しない」
「そうすればいい。俺はおまえに分かってもらおうなどとは露ほども思っていない」
「……信頼、していないということか。僕は君の心に微塵もいないというわけだ。少しも、その心を話してくれない。君にとって、僕は取るに足らない存在なのかな」
「女々しいな。給仕の真似事は俺に媚を売るためか? そうやって俺の信頼を勝ち取ろうと? 馬鹿馬鹿しい。今日からそれもやめろ。俺の心は決まっている」
「媚を売ってる、だって……? 君よくもそんな口利けるね。弱者の立場になってなんでも言っていいと思っているのか? どうせ強くは言えまいと、高をくくっているのかな。思い上がるなよ! 僕は君がいつか復帰してくれると、そう願って、祈って、毎日毎日……!」
「思い上がっているのはどっちだ。おまえは、おまえが勝手にする行動がいつか実を結び自らの願いが成就されると思っているようだ。その行動が俺を動かし、思い直してくれると。もう一度言うが、馬鹿馬鹿しいな。思い上がりも甚だしい。俺が健常の時にでさえ肩を並ばすことも無く、俺の背しか見ることができなかったおまえが、俺の背で守られるばかりだった弱いおまえ如きがたかが食膳を用意しただけで俺を動かせると? おまえは俺を低く見ているようだ。逆転して強者になった者の優越か? 俺を指して弱者と言うのなら、おまえはこう思っているんだろうなぁ。“みじめなはせべくん”ってな!」
目の前がカッと赤くなる。窓枠から腰を浮かし、衝動のまま大股に彼に近づいた。胸倉を掴み引き上げる。がちゃん、とせっかく用意した食膳が倒され、座った状態でわずかに浮く欠陥品は抵抗をしなかった。両腕を垂らし、されるがままに吊るされる。首が絞まりか細く喘ぐ彼の身体は恐ろしく軽い。この部屋に彼が居座るようになってから、僕は彼が食事を口にしている姿を見たことがなかった。膳を下げる時に少しは減っているが、その量からして彼の身体に不十分であることも分かっていた。はくはくと苦しさに微かに身悶える欠陥品が、戦場での姿と重ならない。重ならず、何重にもブレて掻き消えてしまう。誇らしく御首級を掲げる彼がいない!
「みじめなのは僕の方だ! 僕の気持ちなんて知らず、君はこんなところで無為に日々を過ごしている! あぁそうさ僕は弱い! 強い君がこんな姿でいるのが耐えられない! まだ追いついていないんだ! 弱い君なんて見たくない! 見たくないんだ……っ!」
「……ハッ、結局……自分の、ためか……」
「君の復帰を望んでいる刀は少なからず一振りはいるんだ。どうしてそんなに頑ななんだ……理由を教えてくれよ……。僕は納得なんてできない。どうしてだ、教えてくれよ、長谷部くん……」
小さく喘ぐ欠陥品は嘲笑する。口元だけが彼を表現する。僕の弱さを笑う彼は、人形なんかじゃない。彼は人形ではなく刀だ。誇り高い名刀であるはずだ。なのにどうして彼は刀を捨てるのだろうか。主に放棄されたからか。だけど僕にはどうしてもあの主が彼を捨てたとは思えなかった。刀である僕らが傷を拵えて帰還しようものなら痛ましそうに手入れ部屋に案内するような主が、欠損した彼を放っておくなんてできそうもない。理由は彼が抱えているはずだ。それを知ることができず、自らの不甲斐なさに、信頼の無さに怒りや悲しみが綯い交ぜになる。感情に翻弄され、彼の首を絞める力が抜ける。彼がようやく床に腰を落ち着けた際、容赦の無い拳が僕の左頬を襲った。十分に栄養を摂っていない彼の拳に鋭さは無く、不意を突かれたとはいえ毎日戦場に身を置く僕の身体は倒れるほど傾ぐことは無かった。床に手をついて咳き込む彼を呆然と眺める。先ほどまでの激情は毒気が抜かれたように忽然と消えていた。
「は、ぁ、げほっ……。駄目、だなぁ……もうこんなに……俺は、……ハハ……」
「はせべくん?」
「呼ぶな。呼ぶんじゃない、俺は、違う……。あぁもうやめてくれ……」
「あの、僕は」
「これで十分だろう。理由なんて、今の俺を見て理解しろ。うるさいんだ、おまえは」
「君の今の状態は直るだろう。連結したらいいじゃないか。欠けた部分は補えばいい。僕らは人じゃないんだ。いくらだって」
「換えは利く。それでいいだろう」
「よくないよ。僕はあの長谷部くんじゃなくて、君がいいんだよ」
「……おまえを納得させることが言えたなら、おまえは俺に何も言わなくなるのか?」
「え?」
包帯に覆われた顔が僕を見上げ、そう問いかける。僕は困惑して彼を見返す。息も絶え絶えな彼の着流しがはだけて、そこから見える青白く薄い身体に不安になる。左頬に残る痛みの残滓は、骨張った拳のそれだ。僕は途端に不安のどん底に突き落とされた。聞いてはいけないような気がして、けど聞かなかったとしたら後悔するだろう。僕は居住まいを正して彼に向き直った。
「……話して、くれるの」
「なんのことは無い。俺は悪魔の像だ。在るだけで効力を発揮する。おまえも最初に言っていただろう。主に放棄された刀なんて許されない、とな。俺が主に放棄された理由はなんだ? この目と脚だ。主はこの怪我を負った俺を使えないと判断してここに置いていると、おまえはそう思っているのだろう。違う。俺がそう進言したんだ。手入れを施さずにここに置いてくれと」
「意味が分からない。どうしてそんなことを……」
「うるさい。貴様らは知らんのだ。刀は換えが利く。……いや、傷を負っても手入れで直る。だから慢心して敵陣に斬り込み、結果折れる。そうやって主の傍に一番長くいた刀は折れた。慢心からだ!」
「折れた? ……誰か、折れたの?」
「貴様らは知らんだろうな。知る必要なんて無い。俺がここにいることでどうなった? 手入れをされず、ただ在ることだけを許された俺の姿はどう見える? おまえは不安になっただろう? 『次にこうなるのは自分かもしれない』ってなぁ。ハハハ」
「……君がそうすることで、他の刀たちが無駄に怪我を負わないように、折れないようにって? …………それじゃあもういいじゃないか。もう終わりにしていいだろう。十分だ。十分、君はその役目を果たした」
「うるさい。俺はこのままで居続ける」
「どうして?」
「理由は話した。これ以上話すことはない。さぁ約束だ。俺に必要以上に話しかけるな」
「僕はまだ納得していないよ」
「納得しなくていい。知らなくていい。うるさいんだよ、おまえは。給仕の真似事もやめて、俺に平穏に過ごさせろ」
「君のそれは平穏じゃなくて自虐じゃないか」
「話すことは無い。おまえが倒した膳を持って戻れ」
彼はそう言って着流しの前を正し、捲れた毛布を整える。包帯の結びが甘くなっているのか、片手で両目を押さえるようにして後頭部の結び目を調節する彼を眺めていると、「腐るだろう、早くしろ」と言われて僕は無心で膳を片付けた。せっかく丹精込めて作った料理は無駄になってしまった。あぁ、そうだ。食事を駄目にしてしまったんだ。あとで代わりのものを持ってこないと。
「あとで代わりのものを持ってくるよ」
「いらん。どうせ食べない」
「そう言わずに、ちゃんと食べてよ」
「おまえの料理はまずい。食欲など沸くわけがない」
「……手酷いなぁ。他の刀たちからは僕の料理は美味いって絶賛されてるんだからね」
「そうか。俺の口には合わんな」
「……そう、……そうかぁ」
心が追いつかなかった。何かに衝撃を受けている心は、反応をすることさえ放棄した。何に衝撃を受けたのだろうか。彼は自らを悪魔の像だと言った。その役目は十分なほどに果たされているはずなのに、彼はこのままで居続けると言った。……あぁ、そうか。僕は残念だったんだ。彼が役目を終えたのなら、手入れを受けて元に戻ってくれると期待した。その期待は彼によって閉ざされ、上げて落とされた僕は呆然としている。それに、それに……。
元に戻ったとしても、彼の言うように本丸に同じ刀は二振りもいらない。どちらかが刀解されることになる。彼が役目を終えて復帰するかもしれないという一瞬の現実に、僕は二振り目を思い浮かべてしまった。僕より強くはないが、彼と同じ性質を持つ二振り目を。僕はどっちつかずだった。その状態で彼を苦しめて、何がしたいのだろう。
ちがう。僕は選んでいるはずだ。僕は一振り目の彼に戻って欲しい。そう、願っている。
「……また、くるね」
「来なくていい」
にべも無く切り捨てられ、僕はいつもの日常が戻ってきたことを実感する。
今日の晩はまだ引き摺るだろうが、明日はいつもと同じようにこの部屋に訪れることができるだろう。彼をなんとか説得して、いつかの日を取り戻したかった。
欠陥品の部屋を出て、横目に挨拶をする。
「じゃあね」
そうして襖を閉める。彼との境目は隔絶され、僕はふらりと歩みを進めた。
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閉じられた襖の向こう。足音が遠ざかっていくのを聴きながら、彼は嘆息した。久しぶりに多く喋り、急な運動に疲労が身体を苛む。今は無い脚が痛むような気がして何度も摩る。自慢の脚を敵に切断された時の痛みを、屈辱を思い出して無性に苛立った。
「……なにが悪魔の像だ。そう言い聞かせているだけだろうが……」
開け放たれたままの窓から風の入る微かな音だけが聞こえる。両目を無くし、それを補うように聴力が発達した彼にはどんなに小さな音でも聞こえる。遠くの声も、風に乗って彼にささやくのだ。
彼は思い起こす。己の前で泣いて詫びる主の姿を。嘆き悲しみ、おまえだけは置いていかないでくれと懇願する姿を。脚を摩る力を強めて、その姿に耐える。失ってしまった両目の包帯の裏。いつも、時間の概念を狂わせるほど何度もその姿が再生される。その光景は実際には見てはいないが、彼の想像上のもので十分だった。主は彼に縋る。
『おいていかないでくれ』
主が初めて所有した刀。かの刀はそれはよく主に仕えた。主の信を得て、後から来た彼が羨む程のそれはそれは理想の主従であった。それが脆く崩れ去ることなど夢にも思わず、主の傍にいつも立つかの刀の背を羨望していた。
突然足元を崩される心境とはまさにあの時のことを言うのだろう。主の隣に立つ刀の姿が無くなり、絶望に身を置く主を彼は傍で見ていた。かの刀ほどにはなれないかもしれない。それでも彼は主の絶望を少しでも拭おうと誠心誠意主に仕えた。そうして少しずつではあったが、主はなんとか立ち直って、再びこの本丸の主君として在ろうと決意した。彼は、へし切長谷部はそんな主の忠臣であることを誇りに思い、刀を振るった。身に受ける傷をものともせず、ただ突き進み敵の首級を挙げる。それを誉に思い、やみくもに突き進んだ。それによって磨耗していく己の刀のことに気づかぬまま、……そうしてその時が訪れた。
手入れをしても、へし切長谷部の刀は元には戻らなかった。
呆然とする主がこんのすけに説明を求めると、狐はこう言った。
『誠に申し上げにくいのですが……審神者様。刀は消耗品でございます。削りあげてしまえば、その分刀身は薄く、短くなるものです。連結等で補うことは確かに出来ますが、それも限界がございます。……審神者様、申し訳ございません。こんのすけには、どうすることもできません……』
耳をへたらせて告げられた言葉に、主もへし切長谷部もただ聞くことしかできなかった。主は静かに狂乱し、嘆き、へし切長谷部に縋りついた。
『おいていかないでくれ』
へし切長谷部は何も言えずに、ただ主の背を撫でるしかできなかった。突然の死刑宣告だった。刀であるはずの自分が、刀として生きられない。失ってしまった脚ではどうしようもない。戦場を駆けることもできず、果ては両目すらも無い自分は何ができるのだろう。雑務を行おうにも目が無くては、紙の上に落書きをするようなものだ。
へし切長谷部は考えた。自らに何ができるのかと。絶望の中考えて、彼は言い訳を思いついた。へし切長谷部は主に願い出た。廃刀である己を一室に閉じ込めてくれ、と。今の己を価値あるものにするためにはどうしたらいいか。在るだけで効力を発揮するものになればいい。主はそれを了承した。苦しく、長い、話し合いの末だった。
主は彼に日当たりが良く、風の心地よい一室をあてがった。静かな離れ部屋。ここは主と近しい者、近侍だけが主と共に茶会に与れる部屋だった。床の間に一振りだけ飾られ、人見知りのある主とひっそりと話すことができる場所。そこは廃刀の座敷牢になり、中のものが外に出られぬように結界が張られた。
彼は顔を上げて窓のある方角を見た。今にも思い浮かべることができる、その窓の外のことを彼はよく知っている。その窓からは桜なぞ見えない。見えるのは生き物のいない池と、笠をさすように枝葉を広げる一本の木だけだ。窓から入り込む春のうららかな風が埃を舞い上げる。へし切長谷部はたまらずに這いずって己の刀のところに向かった。
「俺は」
刀掛けの前で座り込み、しばし無駄な時間を過ごす。やがて刀掛けから危なげに自身を取り上げ、彼は思った。これをへし折ってしまえば、この屈辱的な日々から抜け出すことができると。
『おいていかないでくれ』
『また、くるね』
煩わしい声を振り払う。光が一切無い暗闇の中では恐怖が倍増される。その場に身を置く彼の不安は反響し、時間と共に精神を蝕んでいく。記憶の中の黒がこちらを鋭く見つめ、模造刀を振り上げる。それを自らの形をした模造刀で受ける。経験も少なく、荒削りの太刀筋は力があろうが今の己には造作も無いこと。流して咽元を抉り、相手を打ち倒せ。想像通りに事を運べ。そうして模造刀を受け、流し、咽元を狙う。記憶の中の黒は間一髪でそれを避けてこちらを狙う。彼はその動きに感嘆した。互いの急所を狙い合う仕合は刀の本分を奮い立たせる。その仕合は蝕まれていく。恐怖が塗り潰す。記憶の中の黒との仕合はそこで終わり、暗闇の中に戻される。光を認識しない両目が痛む。歯を食いしばり、恐怖に耐えた。
「……元より」
食事の時間が終われば、茶会が始まる。窓辺に背を預けて己に語りかけてくる主が、主が来る前に、刀掛けに刀を戻して、刀を捨てて像にならなければならない。記憶の中の黒が刀を振り上げる。光を跳ね返して艶かしく輝くそれは、美しい太刀だ。戦意を宿し、片目だけで己を見据える黒は、己よりも弱い。灯篭の火の目は相手を打ち負かすことだけを考えている。ゆるく微笑みさえしているそれを、己も応える。すらりと鞘から抜いた刀身は思い描く在りし日の輝きを持つ。弱い者いじめは好みじゃない。早く、早くここまで上がって来い。そして殺し合いをしよう。それが刀の本分だろう。周りが己を指して称した残忍な笑みを意識する。
「……おまえのために生きているわけではない」
わずかに抜いた刀身をしまい、へし切長谷部は沈黙した。
主の履く草履の音が聴こえて、刀掛けに刀を置く。どうか、二振り目があの人の心に気付いて救ってくれることを願う。主に掛ける心も無い言葉を考えつつ、背筋を伸ばして待った。ざりっと土を踏む音が窓辺に迫り、こちらから声をかける。
「あぁ、主ですか。いい加減、俺のところに来るのをやめたらどうです?」
意識して淡々と紡ぐ言葉に、あの人が傷つくのを知っている。
早く己のことなど忘れて今を生きろと、己の足で歩ける人型を妬ましく思った。
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