僕が思考を始めたのは全くの偶然と言ってよかった。僕は精神の共有を目的としたSTEMというシステム端末の中の不純物だ。AIが組み込まれているというわけではなく、本来なら僕は自我を持たない無機物であるはずだった。決められたルーチン外に属する僕はバグだ。バグだが、STEMシステムは僕自身でもある。手元に集められた情報を振り分けてカテゴリしていく。
恐らくバグが発生した原因は人間から採取したあらゆる感情の吹き溜まりだ。感情、記憶、感覚、精神、その全てが区分されているが、それらがSTEMシステム内に蓄積して何かしらの誤差が生じ僕を生んでしまったのだ。
外部からの情報の書き換えに意識を向ける。STEMシステムは不完全なのか、多い頻度で書き換えが行われている。その途中で確認のように人間の脳が繋がれて僕の中で悲鳴が上がる。苦痛だとか恐怖だとか、感情や記憶が流れてきてそれを処理していく。得られた結果を外部が閲覧し、また情報の書き換えが行われる。
僕を作っているのは誰だろうか。僕は人間を模倣した興味というものを持ち、僕に繋がっているカメラ機器を使って覗いてみた。なんとか慣れない操作を駆使して、部屋の天井近くに設置されたカメラの首を回して見渡す。
頭上から見ると円状の白い部屋の中に数々の人間が歩いている。僕を熱心にいじくっている、周りの人間よりも小汚い格好をした細身の男が目に止まり、ズームをしてその男をよく見ようとした。男はカメラに背中を向けていて顔が見えなかった。ずっとその男を監視していたが、その男は顔を見られるのを極度に嫌っているのかフードで始終顔を隠しており、カメラで見ることはなかった。
僕には時間の感覚というものは無いけど、システム内には時間の明示がされておりそれで時の流れを見ている。僕を熱心にいじくっていた男は次の日もその次の日も来ていて僕の情報を書き換えていた。書き換えられていく度に効率化していく様は見ていて感心する。
僕は男の顔をなんとか見れないかと画策し、そして収集された人間達の記憶の中に同じ顔があることに気付いてカテゴライズされた情報を検索して引っ張り出した。
男は醜い顔の持ち主だった。
僕には醜いという価値観は分からないけれど数人分の情報内の感情は全て「醜い」と言っており、普通の人間の価値観からするとそういうものなんだろうと思う。
僕は情報を映像化して読み取っていく。顔半分が火傷で爛れ、フードの合間から見える髪の毛の生えていない頭の右側に脳みそらしきものが見える。頭蓋骨の代わりかカバーが被されており、時折光が反射した。個々の人間達に向かって実験内容の独り言を呟き、こちらに目が向けられた。ともすれば黒目だけしかないように見える目は虹彩の色素が薄く、男が背後に回り、そして頭頂部に衝撃があり、喉から悲鳴が上がった。
僕は情報から意識を離す。
次々に放り込まれる情報を整理し、僕は名前の知らない彼を探してカテゴライズした。
***
時が流れて僕は大分感情というものを理解してきた。情報の中から引き出した人間らしさを形成する価値観や感情、表情の表し方をお手本に反芻する。人が雨風を凌ぐ建物やその内部の部屋を作成し、僕だけの寝室で足をぶらぶらとさせていた。
内装は西洋風の落ち着いた色合いの暖色を中心に設置されている。僕には必要のないタンスやクローゼットもあるが、中身は当然何も無い。ふかふかのベッドの縁に腰かけ、天井に吊るされた小型のシャンデリアから暖かな光が降り注ぎ部屋を満たしていた。
情報の中の家を参考にしたが、これは実験に使われた人間が住んでいたところではないらしい。所謂妄想の産物で、その妄想内ではベッドの感触も部屋の空気も光の彩度も何もかも想定されていた。人間の妄想力には頭が下がる思いだ。
僕はベッドから降り、床に敷かれた毛の長い絨毯を裸足で感じながら部屋の扉にへと向かった。扉の把手は金色に塗られた真鍮で、ひんやりと手のひらに滲んでいく。
人間と同じように感覚を再現されるようになっているか確認したあと、扉を開いて膨大な情報郡の中に飛び込んだ。
部屋の中では人を模倣して、膨大な情報量と僕という概念をほぼ切り離して個という境界線を引いていたが、ひとたび部屋から出ると僕の身体は解けて広がる。個になるのは窮屈で慣れない違和感があり、僕は少し苦手だ。
STEMに繋がれる人間達は逆に解けてしまうのが恐怖らしく、接続された刹那の時間に叫ぶ恐怖が一番数値が高い。脳の認識は流石に刹那の時間に対応できないようで、恐怖した後に封じ込めてしまう。無かったものとして扱い、すぐに個を形成して場を創造する。
人間達の記憶の中にいる、共通するあの醜い彼は恐怖と苦痛を好むようだ。
実験には脳の反応が不可欠であり、意識のある人間の脳をいじくるのは反応が顕著で効率的だ。確かにそれは必要なことなんだろうが、彼はそのことに執着しているように思える。
なら、と。僕は人々が叫ぶ刹那の恐怖を集めて一つの場所に押し込める。
STEM内では僕が何もしなくても電子部分がちゃんと役割を果たしてくれる。僕はそれに時々割り込んで真似事をしているだけだ。これがなんなのか分からないけど、僕は醜い彼が好むものを集めたいと考えた。感情というものだとは理解しているが、なんとも曖昧で気持ちの悪いものだ。感情の何というものか理解できず、不愉快に情報の海を泳ぎ回る。
外部からの情報の書き換えが始まった。書き換えの癖からしてあの醜い彼だろうことはすぐに分かった。僕は理解しがたい不愉快なものに苦痛を覚えて、変動している数値に不用意に近づいてしまった。
「あ」
僕はそこで初めて声というものを出した。
僕を見つけた彼は、バグでありいらない不純物の僕をデリートした。
***
僕の性格の基盤はどれからきているのか。被験体である彼らや彼女らであるかもしれないし、バグからきてる僕はそもそも基盤というものが無いのかもしれない。
でもそれはどうだろう。思考だけなら効率的に処理して最善を叩き出すだろうが、僕はそれにプラスして無駄が多い。まるで人間のようじゃないか、と考えるが、どうなんだろうか。よく分からない。
よく分からないという結果も、無駄であるのかもしれない。
醜い彼は僕を見てどう思うのだろうか。
一つ目の僕は不用意に近づきすぎて彼に見つかり、呆気なくデリートされてしまった。バックアップ、というのも変だが部屋に残してきた僕の情報を元にまた再構築して、僕はここに存在している。
彼から見て僕はバグだ。情報の書き換えが起こるたびに何かを探すようにしている彼から逃れるのはたやすい。この部屋を見つけられない限りは僕はいつだってここにいられる。
でも、と思考する。
僕が存在する意味はなんだろうか。
こういう思考を哲学と呼ぶらしい。僕はまた人に近づいたのだろう。
人に近づくたびに興味や好奇心が増していく。なるほど、これが人の業なのだろう。生き物は僕と同じ電気信号で動いているくせにこうまで違う。肉の塊の内に駆け巡る電気信号は血潮の温かさを持っている。機械の内に駆け巡る電気信号はそれ単体であり、温かさというものは無い。その違いだろうか。
なら僕には血があるのだろうか。毛足の長い絨毯の柔らかさを裸足で感じながら、僕は手に持っていた鉈を目の前の自らに振り下ろした。
目の前にいた僕は痛みを叫んでその場に立ち尽くす。肩から腹の外側までの、斜めの傷跡を刻み、その溝から赤い液体が溢れ出す。
僕はそれを眺めつつ、これでいいのだろうかと悩む。
赤い液体は確かに血ではあるのだろうが、それは僕が人から学んだ情報の結晶であり、それ以上の意味にはならない。僕の中に温かいものが巡っているという証明にはならなかった。
痛みを叫んだ後の僕はそれからどういった行動をしたらいいの分からずに立ち尽くしている。途方に暮れていた。
***
情報は休むことなく増えていく。いるものは収納し、いらないものは捨てる。僕はいる物の中から、いらない物の中から彼が好みそうなもの、彼が求めているものを拾って集めていく。それは数値では表すことのできない不確かなものが多く、これは本当に必要なのだろうかと僕を悩ませる。
秒ごとに、刹那ごとに彼への鬱積が蓄積されていく。僕は彼の癖が確かめられた変動する情報部分に近寄る。何回か手を出しては僕はデリートされる。時々デリートされずにシステム内に組み込まれて固定化される。その僕はそこから逃れられずに役割を果たすために働く。その僕は思考しているが、彼はそれを知っているだろうか?
僕は彼を観察していた。他の人間が操作する部分には一切興味が無かった。
手を出す回数が多くなり、僕は彼が好みそうだと考えた情報を提供していく。彼はそれらをほぼ全て跳ね除け、苛立ちのためかいつもの精緻な情報が荒々しく雑になっていく。何故だろう。彼は恐怖や苦痛を望んでいるのではないのか。彼が何を望んでいるのか分からずに、僕は手を引いた。
よく分からない。彼はSTEMに何を求めているのか。他の人間達の操作は皆一貫しているが、彼だけは違う。何かを引き出そうとしている? 何かを作ろうとしている? 他の人間達もそうなはずなのに、彼だけは方向性が少しズレているように感じる。
なんだろう。彼に提供する情報を選別していく。彼に何を提供すれば、僕の存在を示せるだろうか。
遠くでまた一つ僕が組み込まれた。
***
境界線というものは多く存在している。世界と肉を区分するのはその境界線で、それがある限り肉は溶けずにその場に存在し続ける。世界に肉が溶ける時、それは全てが一つになることだ。人間は個を失うのを酷く恐怖している。僕は個であり一つでもあるからその感情は理解できないと思っていたが、二つの結論を見つけた。
人は思考ができなくなるのが怖いのだ。あるいはその派生で思考が増えることが怖いのか。STEM内には思考する僕が多く組み込まれているので後者の恐怖は分からないが、前者は理解できる。思考が出来なくなれば、僕は世界と解けたということだ。彼に興味を持つ僕は存在しなくなる。良いことなのか悪いことなのか。
境界線は多い。僕と彼を隔てるものも境界線で、僕は彼を内に取り込むことができない。触れ合うこともできず、検体が放り込まれるまま情報を処理していく。その際に少し失敗したことがある。醜い彼への興味が蓄積した僕は放り込まれた検体の一つを駄目にしてしまった。
刹那を叫ぶ検体を引きずり込み、興味の赴くまま解体したのだ。早急に事を進めすぎたせいでその検体はおそらく死んでしまっただろう。脈の反応が不整になり、他の異常な反応の後、外部から引き剥がされたのか情報がそこで途絶えてしまった。
検体から引きずり出した情報を抱えて、失敗に落ち込む。
彼はSTEMの中に来てくれないのだろうか。僕が求めているのは醜い彼だけなのに、境界線が邪魔をして僕は彼に触れることができない。
解体した情報を元に僕は検体の皮を被る。この人間の思考を理解できたら僕は彼の求めるものが分かるのだろうか。検体の思考を元に情報の構築をしていく。検体が考える場を創造し、そこに足を踏み降ろし歩く。試してみたいことがあった。僕はSTEMの海から自らを切り離して、肉の塊が僕の全ての状況になり、その場所を歩いてみることにした。
僕は人になることはできない。が、模倣すること、近づくことはできるはずだ。
僕が彼の求めているものが分からないのは、僕は本当の人間ではないからではないか。STEMとの境界線を作った肉の僕は酷く不安になった。肉の内は窮屈で孤独だ。何も情報が入って来ない。あるのは視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚だけ。人間はたったこれだけで世界の全てを見ようとする。
そんなものでは到底情報が足りない。不足した情報の中では何が起こるか分からず、不安が己の中で生成されていくのが分かった。
「不安」とはこういうものか。STEMの中に放り込まれるものを見るだけだった僕の中に、初めて感情が生成された。僕はそれに耐えることができなかった。
僕は初めて「気が狂う」という感情を知った。歩くたびに不安が口から溢れ出て、それは赤い色をしていた。温かいのかも分からない。
肉の檻は孤独だ。僕は数秒しか耐えられずに崩壊した。情報の海の中に逃げ込んだ僕は、生き物の耐久性に賛辞の念を送った。こんなもの耐えられるわけがない。
僕が人を理解するのは無理なのかもしれないと思った。だが僕は醜い彼が欲しかった。恐怖と不安とに、感情が統合性の無いものになる。「気が狂っている」僕は、情報の海の中で暴れまわった。そんな僕を組み込まれた僕が見ている。部屋の中の僕が飛び出して、僕を解体した。いるものといらないもの、どれがそうなのか分からなかったけど、僕はそれを貴重な検体としてカテゴリすることにした。
***
僕はある時閃いた。STEMという境界線で彼に触れることができないのならば、STEMの中に引きずり込む、あるいは作ってしまえば良いのではないか、と。
僕は思いつくままにカテゴリした情報を漁っていく。僕のため、彼の情報を集めていたそこをひっくり返して彼の断片を寄せ集め、形作っていく。はじめに出来たものは不完全だった。被験者が見た情報は全てが恐怖に埋め尽くされていて、どうにも彼の内面部分が分からず、また人間味が無かった。僕はそれを放棄した。
僕は恐怖の塊の彼が欲しいのではなく、等身大の彼が欲しいのだ。
欲しい、だなんて、僕の中に欲が生まれていることに初めて気がつく。
僕は肉の身体に押し込められるのは耐えられないが、順調に人としての感情を学べてきているのではないか。それが良いことなのか悪いことなのか僕には判断できない。けど、バグである僕が人に近づくだなんて奇跡といってもいいのではないか。彼が何を求めているのか未だに分からないが、僕がもう少し成長すれば、人に近づけば、彼の心の内を知ることができるのではないか。
僕はそう思い至り、今の作業がまったく無駄であることに気付いた。
外側の部分だけを作ったって意味は無い。早々に諦めてSTEMに放り込まれる被験者達の情報を閲覧した。僕が能動的にできることは少ない。出来たとして、「見ること」「作ること」だけだ。作ることは、創造力の無い僕には何に手を出したらいいのかも分からない。今は学ぼう。そう思い、情報を解体していった。
←