現実と倒錯するほど鮮明で知覚を伴った悪夢。一体どれほど経ったのだろうか。俺が最初にこの部屋の天井を見た時から、日にちの感覚なんて無い。悪夢を見たくなくて眠れない日々が続いていた。
身体に刻まれた傷がずきずきと痛みを主張しているので、そちらに意識を置いておけば多少睡魔を誤魔化すことができるが、いい加減目眩が酷くなってきた。
食事もあまり摂りたくない。自分の身体ではない身体で食事をするのに手間取り、睡眠不足も相まって食事をする気が起きなかった。本来の自分の指よりも長い指は邪魔だった。馴染んだ指の感覚通りに何かをしようとすると、その都度この身体の指の長さに違和感を覚える。毎回それだとストレスが溜まり、手を使う作業をしたくなくなった。
俺はただぼんやりと天井を見上げていた。
睡眠もとっていない、食事もしていない、怪我も癒えていない、だるい身体で何かをしたいとは思えなかった。
何も考えず時を過ごし、無為な日を送る。
睡眠不足からくる頭痛と吐き気にくらくらしていると、部屋の扉が開く音がした。緩慢な動作でそちらに顔を向けると、紫色が見えた。
傍に寄ってきた紫色を見上げる。顔を見ているはずなのに輪郭を捉えられず、顔だと認識しているはずなのにぼやけて理解できない。何かを言っている。言葉だとは分かるが、頭が意味を理解する前に解けて溶けてしまい、理解できなかった。
低く落ち着いた声色が耳を心地良く刺激する。俺は顔のない紫色の声に聞き入った。
時折何かを確認するように語尾が上がり、それが気になって仕方がない。
俺の手ではない手が温かい何かに包まれ、紫色の語尾が上がった。感じる温かさに安心して息が漏れた。紫色が何かを言っている。気になって仕方がない。
頭痛と吐き気、目眩で何がなんだか分からない。平坦な音の長い羅列の後ろが上がり、俺は途端に申し訳ない気持ちになった。
手を包む何かを確認するように何度も握り締め、俺は目を閉じた。
「×××××、×××××××?」
睡魔が一気に押し寄せてくる。また悪夢を見てしまう。見たくない見たくないと頭の中で俺の声がループする。だけど一瞬だけ、俺の声が途絶えて何かを考えていた。
俺はその感情に肯定を感じた。「あぁ」と頷いて、俺は夢の中に落ちていった。
***
赤い世界。退廃的な空間。滞り淀んだ空気。
死んだはずの愛猫が俺を見つけ、追いかけてくる。ビニール袋に入れられた愛猫はガサガサと音を立てて、いつの間に俺の足元にいた。俺はそのことに怖気を感じた。
怖気の原因を蹴るわけにもいかず、直視もしたくない俺は悲鳴を上げて逃げた。逃げても逃げてもビニール袋の音が俺を追いかけ、許してくれなかった。死が詰まった袋を開けろと催促される。俺はもう、大切なものの死を見たくなかった。
目が覚めて、赤い世界とは対照的に白い天井が視界に入った。
焦点の定まらない目でぼんやりと見上げ、夢の内容に嫌悪をしてえづく。明かりが網膜を殴り、目に涙が溜まる。
「あっ、大将起きちゃいました?」
人がいるとは思っていなかった俺は、驚きに目を向ける。ベッドの脇、思ったよりも近くに紫色の羽織りを着た男が立っていた。へらへらと笑っている男は「ちょーどいいわ」と言って、ベッドのシーツに隠れた俺の腕を取り出す。何をするのだろうかと見ていると、男は俺の腕に刺さった点滴のチューブを抜いて、丁寧に止血をした。
「それじゃあ大将、これ着て」
シーツの上に放り投げられたのは、服と黒のローブだった。俺は男の意図が分からずに困惑の目で見る。男はへらへら笑って「さぁさぁ」と勧めてくるだけで、説明は一切しないようだった。男の強引な手に少しの恐怖が芽生える。もし、俺がこいつの言うことを聞かなかったらどうなるんだ?
再度男を伺うと、男は笑っているだけだ。だがその笑い顔が他人に真意を見せない類のものであると気付いて、俺は抵抗することを諦めた。
のそのそとベッドから降りて、男から渡された服に腕を通していく。男の手伝いもあってすぐに着替え終わり、ローブについたフードを目深にかぶせられ、男は俺の腕を取って歩き出した。
「……どこに、行くんだ?」
「そーねー……。口うるさい老人達の声が届かない、静かな所?」
真夜中なのか、明かりの点いてない暗闇の廊下を歩き、城らしき場所から外に出た。俺がアレクセイになってから初めて見た空は、驚く程綺麗だった。環状の輪が放つ光が邪魔をしているが、その向こうには都会では見られない星空が広がっている。
夜を含んだ空気が肺を満たし、俺はその匂いの懐かしさに安堵した。
男に腕を引かれて街の路地をぐねぐね歩き、高い壁を伝い門にたどり着く。暗闇の中、門の前に誰かが立っているのが見えて目を凝らした。近付くにつれ、その人影が簡易的な甲冑を身に纏った兵士だということが分かった。俺達に気付いた兵士が身体をこちらに向ける。
「よっ。お勤めごくろーさん」
「シュヴァーン隊長、お待ちしておりました!」
「んじゃ、通してちょーだい」
「ハッ! どうかお元気で!」
「おたくらもねー」
見上げる程の門の前に立っていた見張りの兵が、ひらひらと手を振る男に敬礼をした。男は敬礼する兵を置いて門の横にある通用口を通り、暖かい光に照らされた部屋を横切り、真正面にある外への扉を開く。立ち止まって外を確認し、終えると俺に手招きをして外に出た。
門の向こうは真っ暗だった。石造りの橋の向こうは遮蔽物が無く、夜に沈んだ森が遠くにかすかに見える。植物の匂いが一気に増し、俺は不安になって門を振り返った。
男が俺の横を通り抜け様に腕を取り、俺はそれに引っ張られて歩き始める。
「……どこに、行くんだ?」
「ちょっと遠いけど、静かなとこよ。俺が昔使ってたんだけど、今も多分残ってると思うわ」
「なぜ、そこに行くんだ?」
「まーまー。そこらへんは着いてから追々説明するって」
「……」
「橋を渡ってあっこらへんの森にね、馬車を用意してるから」
男が指差す方向を見るが、月明かりも弱い夜の帳の中、それらしきものを見つけられなかった。橋を渡りきり、舗装された道から逸れて森へと向かう、男の迷いのない足取りに不安がまた顔を出す。
「……どこに、行くのか、教えてくれないか」
「あれ? もしかして大将、俺が怖かったりします?」
「私は、君のことをよく知らない」
「……あー、そうねぇ……。少なくとも危害は加えないから安心してくれていいぜ」
「……名前、は……」
「え、ちょっと、マジで? 俺の名前知らない? シュヴァーンだけど……、あ、いやでもやっぱレイヴンで。レイヴンって呼んでちょーだい」
「…………レイヴン」
「んー、大将からそう呼ばれるなんてなんだか感慨深いわ。とりあえず道中とこれから、末永くよろしくお願いします、……ってね」
「…………」
俺の腕を引き、にっこりと笑顔を向ける男に不安感を掻き立てられる。「魔物が出たら
俺が対処するんで、いきなり出てきても怖がらないでね」とレイヴンが言ったが、俺は目の前の男にこそ恐怖を感じていた。俺はどこに連れて行かれるんだ?
俺が口を閉じると男も沈黙した。思考に耽っている間に森に着いたらしく、レイヴンが立ち止まり指を口にくわえて音を鳴らした。森の中から馬のいななきが応える。そちらに足を進め、馬車とそれに繋がった馬を見つけ傍に寄った。
「よしよし、いい子にしてたわね。それじゃあ大将、馬車に乗って」
「…………あぁ」
馬の鼻先を撫でるレイヴンの言葉に従っていいものかと逡巡し、結局指示通りに馬車に乗り込んだ。馬車は人を乗せるというよりも荷物を運ぶためのものらしく座席が無かった。積まれた荷の間に腰を落ち着け、初めて見る馬車を覆う幌を見上げる。荷物にも揺れないよう幌がかぶせられロープで固定されている。幌に覆われた荷に背中を預け、御者台に座ったレイヴンの背に視線を戻した。
「大分揺れるけど、我慢してね」
振り返ったレイヴンがそう告げ、前を向いて手綱を振った。初動の揺れに背で荷がゴトンと音を立てる。ゆっくりと動き出す馬車。俺は目的の分からない旅路にフードを引き下ろした。
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