食事を終え、各自勝手に動き出す。ソファーに座って休む者、他の部屋から持ってきた意味の分からない言語で書かれた本を読む者、仲間と談笑する者。ユーリは仲間を見渡して、床に座り込んで本を睨むリタの元に近付いた。
「どうだ、調子は」
「全然。一向に解読できないわ。何よこの言語は……」
「天才魔導士様もお手上げか」
「まだ解読できてないってだけよ!」
「そっか。んじゃ俺はちょっと散歩に行ってくる」
「せいねーん。俺様も行くー」
「野郎とデートなんて俺の趣味じゃねー」
「そう言わずに〜」
仲間に背を向けて扉に歩き出すユーリを、レイヴンが追いかける。リタの傍に座り込んだエステルがそれを見送り、不安そうに顔をくもらせた。
扉をくぐり、閉める。ユーリは振り返らずに「で?」と言った。
「俺に何か話があんだろ、なんだ?」
「いやいや話ってものでもないんだけどね、青年はどう思うよ、アレ」
「アレってシュヴァーンのことか? おっさんこそどうなんだよ」
「気味悪くてしかたないわ。できれば放っといてさっさとオサラバしてぇわ」
「ふーん」
「で、青年はどう思う?」
「納得いかねーって感じ?」
「納得いかない?」
「なんでアイツこんなところにいるんだ?」
「俺様だって知らねぇわ。案外意味なんて無いかもよー」
「そーだな。おっさんは意味無いことばっかりするもんな」
「いやアレは俺じゃないからね? 一緒にしないでくんない?」
レイヴンにしては珍しい、怒りを含んだ声色にユーリは意外そうな顔をした。横を見るとなんともいえない表情をした中年の顔がある。失敗をどう取り繕おうか考えてるとのか、頭を掻いて「あー」だの「うー」だの意味のない言葉を吐いていた。
部屋の真ん中で立ち止まり、ユーリは床に無造作に落ちている本を拾い上げてページをめくった。そこに自分の知る文字はない。リタに解読できないものを、自分が読んでも仕方がない。ぱたんっと音を立てて閉じた。
「ちょっと今から謎の一部を暴いてこようと思ってんだけど、おっさんも行くか?」
「危ないんじゃない?」
「おっさんだから大丈夫だろ」
「それどういうことよ。……あのねぇ青年、アレ、危ねぇって。アレは青年達でも平気で斬り捨てるわ。あんま刺激しないで放っておいたほうが……」
「何もせずここに置いていこうってか。リタが許さねぇよ、そんなこと」
「そーいやリタっち、えらい頑固になってるけど、どうかしたの」
ユーリは本を手放すと床に散らばった本達を見た。好き放題に散らかされた本は、無秩序でいてどこかルールに則った散らばり方をしているように思えた。風が吹き込まない停滞した空気もあいまって、同じ場所を見続けていると奇妙な感覚に陥りそうになる。目を煩わせる物はないというのに、目眩がしてきそうだ。ぐるりと白い正方形の部屋を見回して、横で眉を寄せているレイヴンを見る。
「ああやってムキになってるのは、ここにシュヴァーンがいるのが嫌だからだろ」
「そんなに嫌われてるのかね、アイツは」
「違ぇよ。シュヴァーンがここに閉じこめられてるのが嫌なんだよ」
ユーリの言葉にレイヴンはなんとも言いがたい渋い顔をした。
かつての自分を彼女達が気にかけてくれるのは嬉しいが、それを素直に喜べない。構うぐらいなら放っておいて欲しい。
レイヴンの心情を見て取ったユーリはそれ以上追求せずに、鉄製の扉がある部屋に目を向けた。
「おっさん、あの扉がある部屋の血の跡。何か分かるか」
「……おそらく、人を引きずった跡ね」
「明らかに致死量だよな」
「そうねぇ。生きてる人間の首を切ったんだと思うわ、あの血の飛び方は」
「首を、ねぇ……。とりあえず調べてみるか」
そう言ってユーリは歩き出した。レイヴンもそれに続く。
二人は部屋を横切り、唯一完全に調べきれていない鉄製の扉がある部屋に入った。ユーリは不可解に眉をしかめ、部屋の中を見回した。後ろからレイヴンの「どったの?」という声が聞こえる。いつもなら誰にも調べさせまいとこの部屋に居座っているシュヴァーンの姿が見当たらない。そのことにユーリはしめた、とにんまり笑った。
足早に血の引きずった跡の終着点である扉に向かう。他のところとは明らかに違う、古ぼけた木製の扉を前にしてユーリは迷い無くその取っ手に手をかけた。
少しだけ、違和感があった。この扉は遠くから見るかぎり簡素な扉に見えたのだが、近くで見るとどうにも年月を経ている。目は悪くないほうだ、と自負するユーリはそのちょっとした違和感に首を傾げつつも扉を開いた。
扉を開けると、生暖かい、湿っぽい空気が中から溢れ出した。淀んだ空気が逃げ場を見つけ、ユーリを通り過ぎる。部屋の中は他の部屋と同じ造りだったが、ただ明らかに違っているものがあった。目を引く物が一つしか置かれておらず、自然とそちらに目が行く。初めて入った部屋には、扉から真正面の壁に赤黒く錆びたダストボックスが設置されているだけだった。棺桶ほどの大きさに、深さがついたようなものだ。それ以外は何も無い。次に行く扉も無かった。
引きずられた血の跡がそのダストボックスまで続いている。棺桶という印象はあながち間違ってはいないかもしれないと、ユーリはうんざりした気持ちで歩を進めた。
近付くごとに吐き気を催す甘ったるい臭いがきつくなっていく。この臭いはなんだろうか。甘味の匂いとはまた違った、生理的に嫌悪を催す臭いだ。
「ちょちょ、ちょっと青年。待て待て」
「あんだよ」
「それ腐ってる。腐ってるから絶対!」
部屋にほとんど物が無いせいか、他の部屋よりも声が反響してそれが耳に煩わしい。ダストボックスの前に辿り着くと、その臭いは明らかにそこから漏れていることが分かった。レイヴンが青い顔をして首を振っている。ユーリは嫌な事実に顔をしかめ、ダストボックスの蓋に手をかけた。
「あぁ〜! 開けたらやばいってそれ確実に! 吐くから!」
「でもシュヴァーンが隠してるんだぜ。気になるだろ」
「中身何か分かってんでしょ! だからもう調べる必要無いって! 腐ってるからそれ!」
「いや、まだ分かってないことがある」
「死体が誰のかってこと!? 調べる必要ないでしょ!」
「調べられたくないのか?」
「いやいやなんで俺様が? あのね青年。腐臭ってのはね一度染み付いたら取れないのよ? 間近でそんなもん放ってるやつがあったら服とか一発で駄目になっちまうわよ。青年今日かっこいいしもうホント止めた方がいいんでない?」
「…………おいおっさん」
「青年もーマジでやめてーおっさんグロいの駄目なのよホントー。虫とか涌いてるって絶対ぃぃぃー!」
必死に懇願するレイヴンを横目に、ユーリはダストボックスの蓋を開いた。開けた瞬間今まで封じられていた臭気が外にあふれ出す。息を止めていたので臭いは感じなかったが、どれほど強烈なのか目に染みた。「うひゃー!」という中年の情けない声が後ろで聞こえる。ユーリは動きを止めた。元は鮮やかだったであろう色に目を奪われたからだ。
頭の中に疑問符が飛び交う。ダストボックスの中には死体なんて入っていなかった。ただ液体が箱いっぱいに満たされている。液状の茶色いドロドロした何か。それが酷い臭いを放ち、その上に見慣れた紫色と短刀が浮いているのを見て、ユーリは思わずそれを拾い上げた。
茶色い液体に浮かんでいた紫色は、今後ろで騒いでいる中年がよく着ている羽織りだった。短刀は、その中年がいつも腰に差している物だった。
ユーリが拾い上げた物を見て、レイヴンも固まる。「……は?」という声が虚しく部屋に反響した。
ぬちゃっと糸を引く茶色い液体。羽織りにへばりついている物を見て、レイヴンは顔をさらに青くして距離を取った。鼻を指で力強く摘み口で呼吸をするが、臭いから完全に逃れられるわけでもなく、戻さないように気を張るしかなかった。
「ぜ、ぜーねん、早く、仕舞っちゃいなさい」
「…………おっさん、これ」
「い、いいから、くせぇって」
「……あっ、ゴホッ! うぇっ」
ついうっかり息を止め忘れていたユーリが、腐臭にむせ返る。慌てて羽織りをダストボックスに放り投げ蓋を閉めた。距離を取りつつ二人で咳き込んだ。えづきながら、ユーリは自分の手に握られた短刀に気が付いた。顔をしかめ、舌打ちをする。これもあのダストボックスの中に入れなければ。こんなおぞましいもの、持っていられない。顔を上げ、踵を返そうとしたユーリは部屋の外へ続く扉を視界に収めた。
そこには、開かれた扉に背を預けこちらを見るシュヴァーンがいた。
腕を組んでこちらを睥睨する姿に、背筋が凍りついた。
←