悲鳴を上げたい気持ちを抑えて、リンクは彼女を突き飛ばした。
今度はあっさりと離された。彼女は砂浜に尻餅をついて痛そうにしていた。リンクは後退る。彼女は、誰だ? ルト姫じゃない?
考えて、それが当たり前なことを思い出す。赤い海、赤い空。こんな非現実的な世界に、ルト姫がいるわけがない。なら目の前にいる彼女は幻影だ。リンクはそのことに怒りを感じた。ルト姫の姿を借りて、彼女の声であんな酷いことを言うなんて。
リンクはルト姫の姿をした何かを睨みつけた。彼女は先ほどの気迫はどこにいったのか、悲しそうな顔で立ち上がった。
「アリス……」
「僕はリンクだ!」
「あぁ、そうじゃったな。忘れておったわ……」
「お前は誰だ!」
「あ、アリス、……リンク? わらわを忘れたのかゾラ? わらわは、わらわは……」
「…………」
「わらわは……、わらわは……、誰じゃった?」
彼女は呆けたように首を傾げた。予想外の反応にリンクはいぶかしむ。てっきり自分のことをルト姫だと言うと思っていた。彼女は困惑したように頭を抱え、悩んでいる。自分の名前を思い出そうと苦悶に声を上げる。
「わらわは……誰じゃった? あぁ、アリス、アリス、助けてたもう。わらわの名前は、なにゾラ? ルトひめ? 何ゾラ? ルトとは誰じゃ? わらわは……わらわは……?」
「…………お前は、幻影だ」
「なに?」
「お前は、ルト姫と偽った幻影だ。……消えろ」
「消えろ? 消えろとな? あぁアリス、わらわのアリス。なんて酷いことを言うゾラ。わらわ達は夫婦であろう? 妻に向かって消えろなんて、酷いゾラ」
「違う。僕はリンクだ。それにお前はルト姫じゃない! 僕の前から消えろ!」
「アリス、アリス、リンク……酷い男ゾラ……わらわは……わらわは……」
「これ以上ルト姫の真似をするな! どっか行け!!」
怒りのまま叫ぶ。ひっくと肩を揺らす彼女の目からはボロボロと涙がこぼれている。何か大切な者を失ったように表情が抜け落ち、泣く彼女にリンクの心が痛む。悪趣味だった。キリキリと痛む心の臓を無視して、リンクは彼女を睨み続けた。
そして彼女は、何かを思い出したのか、途端に嬉しそうな顔をした。
「そうじゃった。わらわはパンだったゾラ」
「は?」
「パンは食べられるのが生きがいゾラよ? わらわはアリス以外に食べられたくないぞえ。さぁアリス、わらわを食べてたもう」
「ふ、ざけるなぁ!」
「ふざけてなんかないゾラ。さぁアリス、さぁリンク、食べにくかったかの? ならこうするゾラ」
彼女の手の中にいつの間にか握りこまれていたナイフが、彼女のもう片方の腕に振り下ろされる。あっと声を上げる暇もなかった。彼女は自分の二の腕に深々とナイフを突き刺し、ぐいぐいと動かした。赤い血が噴出した。彼女は笑っていた。痛みに顔を歪めながら、ぐらぐらとナイフを動かして自身の腕を切断しようとしていた。
リンクはそれを止めることも出来ず、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
彼女の柔らかそうな二の腕から血がだくだくと溢れ出し、砂浜を彩っていく。赤い海と同じ色。彼女は苦痛に身体を震わせていた。それでも手を止めず、ぐちぐちと傷口を広げていく。なかなか切れないことに苛立ってナイフが引き抜かれる。栓を失った傷から血が噴出す。今度は横に寝かされたナイフが、のこぎりのように動かされた。
リンクはそんな彼女の姿に、場違いにもヴァイオリン奏者のことを思い出した。横に寝かされた刃物が何度も何度も傷口を往復する。嘘のように溢れ出す血が、非現実的すぎた。リンクは息を吐いた。身体から力が抜けていく。呆けて、凶行に及ぶ彼女を見ていた。
やがて骨をも断ち、腕が皮一枚を残してナイフが砂浜の上に落ちた。
彼女は全身を小刻みに震わせ、皮一枚でぶら下がっている腕を引き千切った。その顔はなおも笑みを模っている。目を見開き、大きく息をしていた。彼女はリンクに向かって一歩を踏み出す。
「あ、あぁ、さぁ、アリス、アリス、わらわはパンぞえ。肉はパン、血はワイン、昔、幼き頃に読んだ本に、そう書かれていたゾラ。素敵な、素晴らしい考え方、ゾラね?」
「あ、……うあ」
「アリスの血となり肉となる。……素敵、ゾラね。さぁ食べてたもう、アリス。わらわはそなたを愛している。猫になんぞ、……やらん」
「う、ぅ……」
「アリス……、リンク。わらわを見て。わらわだけを、わらわ達のアリスではなく、わらわのアリスに、リンク、リンク、リンク、……愛しているゾラ」
「や、やめろおおおおおおおおお!!!」
ひたひたとリンクに近寄る彼女に、リンクは恐怖した。
親しい友人の鬼気迫る姿に取り乱した。いつもならまだ冷静でいられたかもしれない。それはただの仮定だが、リンクは平静を保つことが出来ず、苦痛に耐えて自身の腕を差し出す彼女を近づけまいと腕を振り乱した。
彼女はそんなリンクの態度に気分を害したのか、恨みがましい目つきでリンクを見た。そして何を思ったか、切断された自身の腕の肉を食んだ。ぶちぶちと肉を食いちぎり、咀嚼する彼女に、リンクは理解が追いつかず息ができなかった。
口元を赤く染める彼女は一気にリンクに顔を近づけると、口付けをした。リンクは目を見開いて、目の前いっぱいに広がる彼女を映した。
血の味がした。彼女の指が、口をこじ開ける。リンクの口の中に、血の味が広がった。何か、得体の知れない物が口の中に入ってきて、彼女の舌がそれを押し込んでくる。リンクは猛烈な吐き気に見舞われた。彼女から身を引こうとするが、彼女がそれを許さなかった。口をこじ開けた指が、手がリンクの頭に回され押さえつけられる。
口の中に血が。肉が。……喉を通って。
「ねぇ、何してるの?」
自分の声が聞こえた。目の前いっぱいに広がる彼女の顔が、色を失う。さっきまで目を閉じていた彼女が驚愕に目を見開き、そして、……消えた。
「ねぇ、僕らのアリスに、何してるの?」
「ちぇしゃ、猫ぉぉぉっ!!」
身体から力が抜けて、無様に砂浜に腰を落とした。見上げると、黒いローブの男が立っていた。その横には、投げ飛ばされたのか少々離れたところに彼女がいた。リンクは考えることを放棄した頭で、それでも考えようとした。あぁ、誰だっけ、コイツ。
「また、またわらわの邪魔をするのか!? あぁアリス! わらわのアリス!」
「うん。お前が邪魔。わらわのアリス? いつからお前だけのアリスになったの? おふざけが過ぎるよ、パン如きがさ。それにお前、パンはパンでも廃棄されちゃったんだろ? 廃棄されちゃった腐ったパン風情が、何アリスに食べられようとしてるの? 馬鹿だよね、馬鹿だよね、腐っちゃってるんだよね、うっとおしいね、うっとおしいね、ねぇ、アリスに何したの?」
「何をした? 何をしたとはなんぞや? わらわとアリスは夫婦ゾラ。これは契りじゃ。わらわとアリスが一生添い遂げると誓う、儀式ゾラ!」
「うるさい廃棄。首狂いも嫌いだけど、お前も嫌い。なんで生きてるの? そうだ、なんで生きてるんだろうね? いらないのに、お前いらないのに」
「わらわは、廃棄なんてされてない! あれは何かの間違いゾラ! わらわは、パンの中でも一番美しかった! なのに、なのになのにお前のせいで……! お前のせいゾラ!」
「僕のせい? なんで? 僕は何もしていない。お前が勝手に勝手なことをしたんだよ。僕のせいにしないで。ねぇ、お前なんで生きてるの? ……沈めよっか」
「!? や、やめるゾラ! やめ! やめて……!」
「沈めよう。海に帰れ」
「やめて! あぁアリス! アリスー!!」
理解ができなかった。黒いローブの男が彼女を引きずっていた。彼女は必死にリンクに助けを請い、赤い海の方に引きずられていった。リンクは止められなかった。彼女の助けに応えられなかった。黒いローブの男が彼女の頭を海に押し付け、彼女が必死に暴れる。顔面を掴まれ、仰向けのまま海に押し付けられ、彼女は黒いローブの男の腕を引っ掻いたり足で蹴ったりと暴れていた。リンクはただそれを見ていた。バシャバシャという音が、どこか遠くの世界で鳴っているように聞こえた。
やがて彼女の身体から力が抜けていき、最後には動かなくなった。黒いローブの男は彼女を海から引き上げる。彼女の顔を覗きこみ、何度か確認したあと、身体を海に放り投げた。粘度の高い液体なのか、彼女の身体は徐々に海に沈んでいった。
黒いローブの男が踵を返してリンクに近付く。砂浜に呆然と座り込むリンクの傍にしゃがみ込み、四つん這いで顔を覗きこんだ。
「アリス、大丈夫だった?」
「…………」
「ん、パンが口の中にあるね」
「…………」
「ダメだよ僕らのアリス。あいつは腐ってるから、食べたりなんかしたらお腹壊す」
「…………き、みは」
「アリス、僕が取ってあげるね」
「…………んっ」
リンクの両頬を包み込んだ冷たい手。近付いてきた黒いローブの男の顔。口と口が合わされ、口内に侵入してきた舌の感触にリンクは吐きそうになった。口の中に広がる血を舐め取るように、ぐるりと掻き回される。舐め取り、嚥下する音が聞こえた。何がどうしてこうなっているのか分からない。眩暈のする視界に、リンクは泣きそうになった。
口の中の血の味が無くなってきた頃、口の隙間を覆うように食まれる。そして、吸われた。肺の中の空気を奪うように激しく吸われて、リンクは驚いて男を突き飛ばそうとした。だがその前に自身の喉を通る異物の感触に鳥肌が立つ。ずるりと舌を滑る肉に、リンクは男の手を振り払って吐いた。
胃液と一緒に赤黒い肉が砂浜の上に落ちる。それを見て、涙が滲んだ。内臓すら吐き出そうと、リンクは吐き続けた。そんなリンクの横で、黒いローブの男が楽しそうに笑っている。
「良かったねアリス。これで全部だよ」
「……お、まえ」
「どうしたの、僕らのアリス。……ん? リンク?」
「おまえ、は……」
「僕? 僕はチェシャ猫だよ。忘れっぽいアリスを導く猫だよ。さぁアリス、白ウサギを追おう」
「…………おま、えは……」
何を、言おうとしているんだろうか。口元を血と胃液で濡らしたリンクは、力無い目で黒いローブの男を睨みつけた。チェシャ猫と名乗る男は、何が楽しいのか口を笑みに歪めている。男が手を伸ばした。リンクの口元についている吐瀉物を袖で拭い、もう片方の手で労わるようにリンクの頬を撫でた。
「アリス、……ん? リンク。迷子のリンク、僕が君を案内してあげよう。僕と一緒なら、君はこの世界で迷わない。何にも惑わされない。僕を連れて行って。……ついてくるなって、言わないで……」
「…………」
何を、言っているんだろうか。孤を描く口から吐き出される寂しげな声色に、リンクは何を考えたらいいのか分からなかった。ただ、黒いローブの男の言葉が頭の中に染み込んで行く。この世界で迷わない。惑わされない。……今のような、ルト姫の幻影の凶行を見なくて済むんだろうか。リンクは迷った。
「ここから出よう、リンク。僕が案内しよう。君を外に出してあげよう。僕は君が狂うところを見たいわけじゃない。僕は君の幸せを願っている。……首狂い共はアリスを自分の物にしようとしてるけど、そんな奴らからは僕が守ろう。アリス、だから、ねぇアリス。僕を連れてって。置いてかないで……」
「……………………」
外に、出られる。その言葉にリンクは頷いた。目の前の男が嬉しそうに笑った。常時口が笑っている男に、特に変化は見当たらなかったのに、何故だか嬉しさが伝わった。
「やった! やった! じゃあアリス、白ウサギを追おう! 僕らのアリスが求める物はそいつだから。僕が案内しよう! 僕はそれが役目だ。さぁアリス、白ウサギを!」
嬉しそうに声を上げるチェシャ猫。立ち上がってリンクの腕を引っ張る彼に従うように、リンクはふらつきながら立ち上がった。
ぼんやりする頭で見る視界は、全てが赤かった。赤の中にある黒に、リンクは少し安心する。……そんな自分に、吐き気がした。
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