私にはとても不思議な記憶があります。
それは、絵本の中の騎士様が絵本から飛び出してきた記憶です。
騎士様は金の髪を持っていました。空色の瞳を持っていました。銀色に輝く剣を持っていました。彼は私のことを心配するあまり絵本の中から飛び出してきてしまった、と空色を笑わせました。
私はとても嬉しかったです。
彼は私が寂しい時いつだって傍にいてくれました。昔聞いた金色の稲穂の話をして、あなたの髪の毛はそれに似ていると言えば、彼は照れたように笑いました。
私はそれがとても愛おしかった。
何度も何度も私の心を守ってくれているうちに、私はその騎士様のことを好きになりました。私はそれを必死に隠していたのですが、彼にはお見通しだったみたいで、プロポーズを受けました。
恥ずかしくて、嬉しくて、私は絵本の中の騎士様に言われたら言おうと思っていた言葉を告げれずに、ただ頷くのみでした。彼はそれすらも分かってくれて、空色を笑わせたのです。
私は彼のお屋敷に行きました。綺麗なお花畑の中、お茶会を開いて、そこで振舞われた紅茶とお菓子をいただきました。とても幸せでした。
それからどうやって帰ってきたのか、私は自分の部屋に戻ってきていました。
いつの間にか眠ってしまっていたようです。夢の中、彼は私のお母様の病気を治してあげると囁きました。
慌ててお母様の部屋に行くと、お母様は今までの体調不良が嘘だったように元気になっていました。私は泣いてお母様に甘えました。
絵本の中の騎士様は私を、そしてお母様を守ってくれました。
お礼を言いたいと、私は騎士様が部屋に訪れるのを待ちました。
でも、それから私はその騎士様にお会いすることは二度と無かったのです。
もう一度会いたいと、あの夢のような世界にへと行った長い長い廊下の中程をさまよっても、あの扉はありませんでした。
あれは本当に夢だったのでしょうか?
私は一つ息を吐いて分厚い本を閉じました。
自分の部屋から臨む城の外は、白々しくいつも通りでした。抜けるような青空をぼんやりと眺めて、その色に絵本の中の騎士様を思い出してもう一つ息を吐きます。
私はあの騎士様にもう一度会いたかった。
「…………いえ、あれはきっと夢だったのでしょう」
自分の馬鹿な考えに呆れてしまいます。私は今年で十七を迎えました。
あの絵本の中の騎士様が飛び出してきたのは十にならない程のこと。あれからもう八年以上は経っています。あの夢のような出来事は、まさに夢の出来事だったのでしょう。
「……ですが、私は本当に」
彼のことを。
そこまで考えて悲しくなりました。
私は気持ちを切り替えたくて席を立ちます。窓を開けて、白いレースのカーテンが優しい風になびいて泳ぎました。それを見て「おまえたちはいいわね」と先ほど読んでいた本の台詞を言いました。
頬を撫でる風が、あの冷たい手を思い起こさせます。あの手に、もう一度触れられたい。
「…………はぁ」
青空から目をそらして、私は部屋の中を歩きました。
もう何度思えば気が済むのでしょう。私は絵本に恋をする自分に嫌気が差していました。とても苦しいのです。無為な、行き場の無い想いが積もって積もって、溢れてしまってもまた積もって、胸が苦しくて仕方がありませんでした。
「騎士様……」
名前も知らない騎士様。輝く銀色の剣で人々を救う騎士様。私の傍でずっと私を守ってくれた騎士様。思いが、想いが、溢れてしまいそう。
私はたまらず本を手にとって部屋から出ました。もう全て読んでしまったので書庫に返しに行こうと思いました。いつも通りの素っ気無い廊下を歩いて、あの長い長い廊下を歩いて、中庭を通り過ぎて、書庫の前にまで辿り着きます。
私はその扉を開きました。
瞬間、風がぶわっと私の髪の毛を後ろにさらって、思わず目の前に手をかざしました。誰かが書庫の窓を開けたのか、カーテンが風を含んでふくらんでいました。窓の前の人物は逆光でよく見えませんでしたが、どうやら男性のようです。私に背を向けているとかろうじて分かるぐらいで、私はほこりの舞う光景に憤慨しました。
一つだけ文句を言ってやるわ、と本の台詞を思い浮かべ、薄く口を開いて、私はそのまま固まりました。
窓の彼が振り向いて、その金の髪が光を反射するところを見ました。空色が、驚きに開かれるのを見ました。私はその見たことのある顔に、本を落としました。
「え……? あ、え、エステリーゼ姫……?」
私のことを初めて見た、といったように戸惑う彼に、私は何を言ったらいいか分からず、両手で口元を覆い泣いてしまいました。
慌てて駆け寄ってくる彼。私の目の端に、あの時の花びらを見た気がしました。