私はイスに座っていました。私の前にはかわいらしいお菓子と紅茶のカップがあります。カップがひょいっとなくなりました。陶器のポットに淹れられた紅茶がそそがれます。澄んだ色でした。
中庭は、とてもキレイなところでした。
水を統べる精霊、ウンディーネをかたどった像が持つつぼから水が流れ出し、その周りを噴水がぐるりとかこっています。その近くのしばふの上に出されたテーブル。そこに私と男の人が座っています。かだんに植えられた花が風にゆられて、色とりどりの蝶がその上を楽しそうに舞っていました。
小鳥の鳴き声もどこからか聞こえます。夢のような場所でした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ソーサーに乗せられたカップ。私はその紅茶の色をじっと見ました。
なんだか、本当に夢のようです。
私は、本当は夢を見ているのではないでしょうか? 男の人の屋敷にいるのは夢で、起きたら私の部屋なんじゃないでしょうか。もしそうだったらどれだけいいか。
そう考えて、私はハッとなりました。慌てて頭をふります。この考えは男の人にしつれいです。
なんとかがんばって今の考えを追い出そうとするのですが、やはりおかあさまが気になってなかなかどこかに行ってくれませんでした。
おそるおそる男の人を見ると、しょうがないなといった顔で笑っている彼がそこにいました。
「エステリーゼ、さびしい?」
「…………いえ」
「そう」
男の人が紅茶を一口。私は自分のカップを見て、その色をながめました。
とてもキレイで、とても良い香りがします。ぼーっと見ていると、男の人が言いました。
「これは最後の通達なんだけど」
「……はい、なんでしょうか」
「俺の屋敷の物を食べたり飲んだりすると、もう戻れないよ」
「えっ、と……」
「うん。君がとてもさびしそうにするからねぇ。一日、この屋敷の物を口にしなかったら君を元の場所に帰してあげよう」
「え、でも、あの」
「約束を自分から違えるのはちょっと嫌なんだけども、しょうがない。でも大丈夫。エステリーゼのお母さんの病気はちゃんと治すから安心して」
「でも、それじゃあ」
「いいよ。俺はエステリーゼが悲しい思いをしているのが嫌なんだ。大丈夫、一日だけでいい。一日だけ、君を俺にくれ。……そうしたら元の場所に帰そう」
男の人は優しく笑っていました。
よもつへぐいを知っているか、と男の人が言いました。私は知らなかったので何かと聞いてみましたが、男の人は答えてくれませんでした。
私は紅茶とお菓子に目を落とします。とても美味しそうだと思いました。食べなければ、飲まなければ、私はおかあさまのもとへ帰れます。……ですが、それは。
「あの、わたしが帰ったら、またあなたはわたしのへやに来てくれますか」
「もう行けない」
「えっ……」
「これ以上命を削れないんだ。ごめんねエステリーゼ」
「では、わたしが帰ったらあなたはここで一人ですか?」
「そうだね。この屋敷には、今のところ君と俺しか生きている人はいないね」
「……そう、ですか……」
「大丈夫だよエステリーゼ。今までだってそうだったから、俺のことは心配しなくていいよ」
私は男の人の言葉に目を伏せます。この人は、この広いお屋敷の中で一人で生きていくんでしょうか。私が、私さえここにいたら、男の人はさびしくないんでしょうか。
ちらりと男の人を見ると、彼はおだやかに紅茶を飲んでいました。
その顔はとてもさびしそうには見えませんでしたが、私はおもいきって聞いてみました。
「わたしがかえったらさびしいですか?」
「…………さびしいね」
「さびしいんですか?」
「……また一人になってしまうからね」
「……さびしいのはきらいですか?」
「そうだね、もう飽きた」
「…………わたしも、さびしいのはきらいなんです」
私はカップの持ち手に指をかけました。
おぎょうぎ悪いですが、カップを両手で支えて男の人を見上げます。
男の人はちょっとびっくりしたあと、ふんわり空色を笑わせました。
私はこの人と生きていこうと思います。
私もさびしいのはきらいです。私は、私の好きな人にそんな思いをさせたくありません。ですから、二人でおだやかに笑って生きていこうと思います。
この人となら、きっと生きていけます。
私はすべてを捨て去る決意をしました。こんなになごやかな気持ちになったのは初めてかもしれません。ゆっくりと、私はおだやかに笑いました。
私のすべてにさようなら。いままでありがとうございました。みなさん、とてもとても、好きでした。
紅茶を飲もうとした瞬間、中庭のとびらが荒々しい音を立ててひらかれました。
おどろいてそちらを見ると、男の人そっくりの騎士様が、とても恐ろしい顔で剣を持っていました。
「エステリーゼ様!!」
「っ! エステリーゼ!!」
二つの、とても良く似ていて違う声が聞こえます。
男の人が私の顔を強引に掴んで、私は痛いと思いました。
男の人の、今まで見たことのない恐ろしい顔がありました。
騎士様の、今まで聞いたことのない恐ろしい声が聞こえました。
男の人の身体をつらぬくぎんいろのつるぎを見た時、わたしのきおくはそこでおわりました。