じっとりと湿気た地下を這い上がるように、ゆっくり、ゆっくり石造りの階段を登る。古びたそれは歳月を感じさせるかのようにところどころが欠け、まるで蜘蛛の巣が散らばるように亀裂が入っていた。この辺りにも夏が訪れようとしているのだろう。危うい足場を一段と踏みしめる度に、熱気を含んだ風が髪を揺らし、頬を掠めるのでいっそう汗が吹き出した気がする。螺旋状のそこから外に視線を向けると月光に照らされ、まるで海の底から見上げたかのような深い紺色の空とそこにソーダ水から浮き出た気泡を思わせる星が見えた。
頂上へと足をついた頃には、紺色はいつの間にか地平線に近づき、頭上は黒く輝いていたのだ。やはりここは何度来ても落ち着く場所なのだなと、その雰囲気を変えることなくあり続けているそこに安堵にも似た考えが過ぎ去っていく。些か荒れた呼吸を整えながら、ゆっくりと息を吸い込むと身体の中を森のにおいが巡るように埋め尽くした。
深呼吸をしてから、何とはなしに辺りを見回す。
「なんだか珍しい人がいるね」
「…君こそ、こんな夜更けにどうしたんだい」
一瞬だけ目を見開いた彼に、少うし寝付きが悪かったのだと笑うと怪訝そうな表情でため息をつかれてしまった。先程まで熱気を感じていた身体は、いつの間にか、すーっと汗が引き、やはり夏が近づいているとはいえ肌寒いと思わせるには充分だ。
「罰則されると、君と同じ寮の僕が困るんだけど」
まるで譫言のように呟いて、彼はもう一度と広い世界を見つめた。肩にかけていた上着を片手で胸元にまで引っ張り、同じように美しい景色を視界におさめながら、彼の隣に腰を下ろした。
「…まあ、少うしくらい良いじゃない」
こんなにも綺麗な景色を独り占めするなんて、やっぱりもったいないと思うのだ。それに少うしだけ寂しい感じがする。口には出さなかったけれど、彼の瞳は広がる大地も、夜空に散らばる星も、ゆらゆらと揺らめく湖の輝きも、景色というどれをも同じ風景を見ているとは思えなかった。激昂こそしていないためか、その目は澄んだ色をしていたのだが、やはり彼はどこか"ここ"ではないところを見ているのだろう。不思議とそんな気がしていた。
「お茶でも、飲む?」
「…なに、持ってきたの」
「紅茶だけなんだけどね、この間…教えてもらった淹れ方で作ってみたんだ」
杖を振るうだけで簡単にティーカップも出せるのだが、何となく不自然な感じがしたので持ってきていた水筒を軽く揺らして見せた。この世界ではこちらの方が不自然なような気もするのだけれど。
「そう…、せっかくだからもらうよ」
こぽこぽと二重になっていた蓋に湯気のたつ紅茶を注ぐと、彼は目を細めてゆっくりとそれを味わっていた。会話は、ない。しかしだからといって、それが窮屈でも煩わしいわけでもなく緩やかに流れるその時間がそのときは、とても大切に思えていたのだった。
瞬きを、ひとつ。景色は変わらない。あのとき彼が探していたものはなんだったのだろう。空は明るくなり始めている。
「ねえ、リドル…」
死ぬことが怖いとそう思えるのは生きているから、だからこそ大切にできるものがあったかもしれなかったのに。血も力も関係なく、生きている私たちはいつかは死を迎える。そう、生きているからこそ。考えてみると、隔たりなんてお互いの身体以外に何ひとつもなかったのだ。


不意に、彼の血の気が失せた顔を思い出したからなのか、呼吸が苦しくなった。
彼はいつの日か言っていた。それは静けさに包まれた談話室だっただろうか、底冷えする冬の終わりに見た大きな湖の畔だったかもしれない。しかしそれほどまでに綻んだ記憶でも、彼の話した昔話の内容だけはいくら季節が移り変わろうと色褪せずに今でも鼓膜を震わすように、鮮明に思い出すことができた。

彼は忘れられたくなかったのかもしれない。生まれてから何者かの代わりのように固定され、その力があるばかりに恐れられ、それがまるで当たり前のように奥底に根付いてしまった。自分を守るために、偽ることを覚え、いつしか"自分"がいなくなってしまっていた。彼が被ってきた、それは彼が必死に生きようとしていた証だったのかもしれない。全ては彼にしかわからないことだ。
「ねえ、こんなところで何をしているの?」
「……ちょっと、思い出を探しに」
どこからか懐かしい声が聞こえた。ゆるゆると目蓋を閉じると、夢のような眩しい光が輝いていて、頬を温かい何かが包んでいたような、そんな気がした。小さくて、震えた手。いつの間に、ここまで、来てしまったんだろうね。

「ひとりじゃなかったんだよ。遠くても近くても、貴方は独りなんかじゃない。」

少なくとも、私はそう思うのだ。もうずっと昔から。伝えたかった伝えなかった伝えられなかった。どれも、違う。本当はあなたに伝えようとしなかっただけなんだよ。
頬を水滴が伝った。耳をすましてみても声はもう聞こえなかったけれど、頬に流れる一筋の涙は確かに彼が流したものだったのだろう。もしかすると、私も同じように。臆病者だったけれど。
呟いた名前は音として空気を震わすことはなく、風が吹いたその場所には、もう何もない、ただ穏やかな静寂と微かな紅茶の香りが広がっていた。


                      い っ し ょ に か え ろ う

遊泳回帰




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