二話 天馬

──夢を見た。遠い昔、大好きだった絵本の夢を。タイトルは…もう覚えていない。


…森の奥深く、小さなお城がありました。そこには、蕀姫と呼ばれるとても可愛らしいお姫様が住んでいました。蕀姫は外の世界を知りません。彼女の両足の代わりに生えた蔦が、地に深く根を張って動けずにいたのです。何処にも行けない蕀姫、自由になれない蕀姫。彼女はいつも一人で泣いていました。そんなある日、重たいお城の扉が初めて開いたのです。

『やっと見つけた』

射し込んだ光の向こうで微笑んだのは、とあるお城に仕える一人の騎士。そして、彼は蕀姫に傷だらけの手を差し伸べ───…。



「兵太夫!兵太夫ー!」

「……団蔵?」

重い瞼を持ち上げると、そこにはよく知った少年の姿があった。

「お前、なんで……っ!」

此処は整備科兵舎、飛行兵舎にいる筈の彼が何故此処に。驚いて飛び起きる兵太夫に、団蔵はお早う、と暢気に笑いかけた。

「今日はいつもより早起きしたんだ!なぁ、ちょっとメンテナンスしてくれないか?」

寝起きの兵太夫に、彼の声はいつも以上に大きく響いた。

「…僕、朝飯抜きで?」

「お前にとっては、それくらい朝飯前だろ?」

それは比喩だろ馬鹿、と眉を潜める兵太夫などお構いなしに、団蔵は笑う。

「仕方ないなぁ…十分待ってて」
「わかった!」


その言葉に嬉しそうに頷いた彼の黒髪が、視界の端でふわりと揺れた。

**********

兵太夫は髪を結いながら整備科兵舎の廊下を歩く。食堂に辿り着くと、数人の整備員がテーブルで食事を摂っていた。

トレイを持って適当に空いている席についた兵太夫は、乾いた黒パンを一口かじり、薄いスープを音をたてて飲んだ。


「行儀が悪いぞ、兵太夫」


隣の席に座る少年が、小声で兵太夫を諫める。

「……なにさ、伝七」

──黒門伝七、十三歳。兵太夫と同い年である彼は、一破以外の飛訓の整備を担当している。

「こーんな粗末な食事を行儀良く食べろって?」

馬鹿げてる、と兵太夫は鼻で笑う。酷い時なんかは黴が生えているパン、野菜の皮や切れ端が浮かぶ水のように薄いスープを、一体どう味わえというんだ。

兵太夫の言葉に、伝七は何も言い返さなかった。ただ静かに、目の前の食事を口に運ぶ。

当時、陸海空軍の兵士と通信整備救護隊員とでは、食事に比べ物にならない程の差があった。

「ご馳走様」

伝七はトレイを持ち上げて席を立つ。兵太夫はその姿を横目に、黒パンを咀嚼した。


味の無い冷めたスープを飲み、一人残された彼はふと思う。

…まだ眠っていたかった。そうすれば、大好きだったあの絵本の続きが見れたかもしれないのに。
…そう。あの物語の結末だって、きっとわかった筈なんだ。


時計の針は約束の時間を指す。兵太夫はトレイを下げ、足早に食堂を後にした。その皿の隅に、一欠片のパンを残したままで。


**********

──その頃。飛行場では、兵太夫を待つ団蔵が身支度を整えていた。帽子を深く被り、首にかけていたゴーグルを額の位置まで押し上げる。

「団蔵、今日は自棄に機嫌がいいじゃないか」

「あ、左吉ー!」

──任暁左吉、十三歳。団蔵と同い年の彼もまた、飛行兵であった。といっても、一破のメンバーではない。現在一破に所属するのは、団蔵、金吾、虎若、きり丸、庄左ヱ門の五人だけだ。

二人は、空の上では手柄を奪い合うライバルだったが、地上に降りれば仲の良い親友だった。

「これから兵太夫にメンテナンスしてもらうんだ」

団蔵は手袋のベルトを絞めながら嬉しそうに笑う。

「そしたらまた、思いっきり“天馬"で暴れてやる!」


天馬とは、団蔵の機体の愛称だ。名付けたのは彼本人ではない。鮮やかな飛行技術から、いつしか周りからそう呼ばれた。彼もまた、その名を気に入っていた。

「天馬って…いい加減その間抜けな呼び方止めろよ」

呆れたように溜め息を吐く左吉の言葉に、団蔵はむっと唇を尖らせた。

「…間抜けなんかじゃない!」

「いいや、間抜けだね!」

「なんだとぉ!?」

団蔵が向きになるのには、理由があった。幼い頃読んだ絵本に登場する、背中に白い翼が生えた馬。彼はそれが大好きだったのだ。



──明け方、夢を見た。誰かの手が、絵本を捲っていた。幼い俺は、それを覗き込む。開かれたページには、背中に翼が生えた真っ白い馬が描かれていた。

『この馬、ペガサスって言うんだって!』
『…へぇ』
『俺も空、飛んでみたいなぁ。』
『…団蔵、空飛んでみたいの?』
『うん!』
『…なら、飛ばせてあげようか?』
『…え?』

『僕が飛ばせてあげるよ、空』

目の前の少年の姿は、ぼんやりと霞んでよく見えなかった。


夢は、そこで途切れた。…全くおかしな夢だ。どうして今になって、絵本のことなんか。お陰で今朝は随分と早く目が覚めてしまった。



「天馬を馬鹿にするな!」

団蔵は声を荒げる。──天馬とは、ペガサスを意味するのだった。

「なんだよ、僕は本当のことを言っただけじゃないか!」


「止めんかお前達!」


睨み合う二人の間に、一人の少年が割って入る。

「「た…滝夜叉丸先輩!?」」


──平滝夜叉丸、十六歳。特別教官として飛行兵の指導を行う、空軍の先輩パイロットだった。

「まあお前達、喧嘩など下らんことは止めて私の話を聞け!特別に私の空戦における華麗なる活躍の数々を語ってやろう!まず私は十三歳の頃空軍に入隊し、その余りの優秀さから、僅か一年で飛訓を卒業するという異例の…」

すっかりと争う気力を失った二人は、延々と続く滝夜叉丸の自慢話に溜め息を吐いた。

「団蔵ー!」

その時聞こえてきた、団蔵を呼ぶ声。

「兵太夫!」

遠くに見えるその姿を確認すると、助かったと言わんばかりに団蔵は駆け出した。

「あっこら待て、まだ私の話が……まぁいい、さあ話を続けるぞ左吉!」

「えぇ!?」

滝夜叉丸が左吉の肩を掴む。その背後を、一人の少年が通り過ぎた。

「三木ヱ門……!」

滝夜叉丸が、その少年の名を呟く。


──田村三木ヱ門十六歳、元陸軍第六部隊所属。彼は、少し前にとある事情で戦線から離脱していた。

そいつがどうして飛行場に、と滝夜叉丸は思わず三木ヱ門の横顔を見詰める。その視線に気づいた彼は、じろりと二人を睨み付けた。

「…潮江文次郎先輩は何処にいる」

掠れた声で彼はそう訊ねた。その目の下には酷い隈があり、伸びた髪は無造作に束ねられている。

「あ、その…潮江先輩なら確か、通信塔の立花仙蔵先輩のところに行かれています…!」

左吉がおずおずと答えた。それを聞いた三木ヱ門は、無言で踵を返す。遠ざかるその背を、滝夜叉丸もまた、黙って見送った。


──季節は、春。本土に桜の蕾が色づく頃、この島へやってきた十三歳の少年達。そして、彼らが此処に来てからもうすぐ二月が経とうとしていた。


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