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03 風評

 無事に論文も提出し終わって、私は身軽な気持ちだった。これで当分は防衛任務と課題を気にして予定を組まなくて済む。個人戦もやり放題だ。この前、太刀川にまたもこてんぱんに負けて精神的ダメージが大きいが、こういうのは同じように模擬戦で勝って負けてをしなければ拭えない。
 風間先輩に鍛えなおしてもらおう。そうだ迅くんが個人戦に復活したと言っていたから、迅くんにも連絡してみよう。しかたがないから太刀川も誘ってあげよう。誘わなかったら、除け者にしたとぐずぐず不貞腐れるし、その後また私が泣くまで個人戦に付き合わされる。

「あ、たちかっ――」

 呼びかけた声が思わず途中で止まった。大学構内の人通りの少ない廊下とはいえ、見覚えのある頭と背中が見えたからと声をかけるものではない。
 一人で壁に向かって打ちひしがれているのかと一瞬戸惑ったけれど、そんなわけないよな。そんなわけなかった。あれはいわゆる壁ドンだ。太刀川と壁の間に可愛い花柄のスカートと白い脚が見える。
 申し訳ない。悪かったよ。ごめんて。私のほうへ視線を向けニヤっと意地悪く笑った太刀川と目が合った瞬間に背を向けて元来た道を走り戻った。カフェテリアへは別の道から行こう。
 完全に私を認識していたのに、あの男ときたら微塵も気にしていないらしい。意地が悪いぞ太刀川。


 心臓に悪い物を見てしまった。気持ち悪いとか、嫌悪感がとかではないが胸は急くように鳴る。友人のそういうところを見てしまったから驚いているだけ。
 そもそもなぜ私が焦らなければならないのか。よくよく思えば私が気を使って遠回りする必要なんてなかったじゃないか。あんなところでキスしているやつらが悪い。見せつけたいのであれば堂々と見てやればよかった。
 深呼吸を繰り返すうちに冷静になってくる頭が導き出した結論は、むしゃくしゃするから甘い物でも買いに行こう。
 歩きだし視線を前へ上げようとした矢先「わっ!」と「おっと」が重なる。随分と勢いよく歩きだしはしたが、ぶつかった感じは相手も急いでいたように思う。だから相手ともども弾き飛んでいてもおかしくはなかったのに、なんとか直立を保てていた。しかし相手の硬い胸板へぶつけた鼻が痛い。

「ごめんなさい、前見てなくて」

「気をつけろよ」

「……なんだ、太刀川じゃん。私の丁寧な謝罪返して」

「お前いつも無理なこと言うよな」

 太刀川と距離を取ってはじめて腰を抱かれていたのだと気付く。転ばないよう支えてくれたのはありがたいがここは大学構内だ。さっきのこともあるし不用意な接触は避けていただきたい。

「どこ行くんだ?」

「売店。お菓子買いに行くの。太刀川こそ急いでたみたいだけど」

「ああ、用があったから」

「ふーん」

「俺にもコーヒー買って」

「ぶつかったんだからそっちが奢りなさいよ。それにこの間のケーキもまだもらってない」

「そういえばそうだな。よし、行くか!」

「は?」

 太刀川が指し示す方向は驚くことに大学の出口。今さっきまであなた急いでましたよね? 用があったって言ってましたよね? それはどうした?
 悪いが忍田さんの胃を守るためにも、目の前で講義をサボるのだけは見過ごせない。

「まさか講義サボろうって腹じゃないでしょうね?」

「オワッタ」

「吐けない嘘吐くな」

 まったく。行こうとごねる太刀川の腕を引っ張り元の道を戻る。今日はこんなのばかりだ。心の中で溜息を吐き、なぜ私が世話をしなければならないのかという考えにいたり、足を止めるとつんのめるようにぶつかる太刀川。必然的に弾かれるのは私のほうで。

「痛い」

「みょうじが急に止まるからだろ」

 後ろから腰を抱かれてまたも転ばないよう手を出されたみたいだが、構内でやめて。本当にやめて。

「早く講義行きなよ」

「ええー……」

「“ええ”じゃない。これ以上忍田さんを困らせないの」

「なら、この講義終わったら行こうぜ」

「今日の講義はそれで終わりなの?」

 頷く太刀川に「まあそれなら、行く!」と元気よく答えてしまう。どこのケーキ屋行こうかな。たくさん買って本部でみんなと食べよう。
 私につられて太刀川まで表情を綻ばせた。伸びてきた手が頭に乗せられ「いい子に待ってろ」と上から目線すぎて、ふはっと吹きだしてまた笑う。




 太刀川と別れ、鼻歌まじりにカフェテリアで九十分を過ごす。二宮くんが颯爽と歩いているのを見たり、生駒くんと嵐山くんが挨拶してくれたり、望ちゃんがやってきて一緒におしゃべりして。太刀川とケーキを買いに行ってくることを話せば「相変わらず仲良いわね」と微笑まれる。
 そうして過ごせばあっという間に過ぎていく時間。

「あの」

 望ちゃんが提出物を出しに行ってくると抜け、私は一人携帯でランク戦の日程や防衛任務の予定を確認していた。突然かけられた声には少しだけ緊張が入り混じっている。

「あの、みょうじ先輩って太刀川先輩と付き合ってるんですか?」

 返事をするとか何より、こういうのそういえば久しぶりだなぁと頭の隅で思い返していた。高校時代も、先輩やら後輩やらはたまた友人だった子に校舎裏とか体育館倉庫とかに呼び出され同じような質問をされたことがあったなぁと。途中からぱたりとなくなってここ数年は落ち着いていたのに。

「不躾な質問だね」

 真っ直ぐな視線で「私、太刀川先輩が好きなんです」とはっきりと言いきる彼女の本気。よく見れば見覚えのある可愛い花柄のスカートから白い脚が伸びている。なるほど、と納得すると同時にさっき見た光景を思い出してしまう。というか、ユキちゃんはどうしたどこへ行った……。

「ただの友達だよ」

「なぁんだ。付き合ってるってただの噂だったんですね。……なら、私が太刀川先輩に告白してもいいですよね?」

「それ、私に了承取る必要ある?」

 友達という関係に安心したのか、彼女は「一応聞いておこうと思って」と恥らいながらとても可愛い笑顔を向けてくれた。さっきまでの緊迫した雰囲気はどこへやら。私は「頑張って〜」と笑い返して、ひらりと手を振り恋する乙女の背中を見送った。
 にしても、当事者の男ときたら……どこそこ色気を撒いて歩いてるのか? 女の敵だな。

「了承して良かったの?」

「おかえり、望ちゃん。ダメな理由ある?」

 どこから聞いていたのか問う前に、「揉めているのかと思って面白そうだから声が聞こえる距離で見てたわ」って。止めて。助けに入って。私も面倒事になりたくないのよ。

「太刀川くんに彼女ができたら、なまえが寂しくなるんじゃない?」

「ならないならない。ぜひとも彼女にあのおバカさんの世話してあげて欲しい」

 望ちゃんまでそんなこと言う。本当に私と太刀川はそんな関係にならないし、永遠にただの友達だ。それはこの間実証済み。


 講義はもうすぐ終わるだろうから、望ちゃんと別れ太刀川の教室近くまでぼんやりと歩く。ユキちゃんも可愛かったが、さっきの子もとっても可愛い。細くてちいちゃくて手折れそうな花そのもの。私とは全然違――

「あ、なんで私いま自分と比べたの?」

 望ちゃんが変なことを言うからだ。私と太刀川の恋愛事情はまったく関係ない。太刀川がどんな子と付き合おうと私は彼女の味方ができる。

 講義が終わり雪崩れ出てきた生徒たち。行き交う人波に突っ立っている太刀川を見つけてさっきと同じように声をかけようとした。でも声は喉を過ぎることはなく飲み込む。一人で突っ立ってるなんてそんなことあるわけないよな。学べよ私。
 さっきの子はよっぽど性急な性格らしい。ひらりと揺れる花柄が人の波間にでも見える。

「いいよ。付き合っても」

 この間はユキちゃんへ向けていたのに、私には向けられない笑顔。そんな表情で太刀川は了承の言葉を告げていた。花柄スカートの女の子はキラキラした満面の笑みを浮かべている。
 私はというと、そうか、と一人納得してその場に踵を返していた。
 花柄の子は本気だった。太刀川はそれを受け入れた。朝の廊下でのこともあるし順番は違ったけれど、花柄の子からすれば上手くいって万々歳だ。応援した身として、今日の太刀川との約束はなかったことにしようと勝手に決めた。







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