15 私も好きだと伝えるから
私はまた知恵熱が出そうなほど考え込んでいた。でも米屋くんから傘を借りたおかげで雨に濡れることはなく、風邪を引くようなこともない。
「雨降るよって言ったのに。この傘誰から借りたの?」
「とも、……よねやくんの」
お母さんに見知らぬビニール傘を誰のかと聞かれ、友達のだとは言い損なった。彼を思い浮かべて友達という言葉が上手く出て来ない。
「まぁ! 米屋くん? 制服借りた子でしょ?」
「うん、そう。この前の電話も米屋くんだったみたいだよ」
「へぇ〜、とってもしっかりしてる子なのね。あれが米屋くんか〜」
しっかりしているという言葉には、先生に怒られている彼の姿を思い浮かべながら疑問に思うが、ボーダー隊員としての彼を思えばしっかりしているなんて比じゃないほど頼りになるんだよなぁとも思う。そんなことを考え込んでる私に、ニヤニヤとした笑みが向けられる。「いつ家に連れて来るの」なんて聞かれてもそんな予定ない。もしかしたら一生ない。
「今から行ったら鹿のやさんまだ開いてるかしら」
「いいよ、そんなの!」
「お礼はちゃんとしなさい」
明日の朝ホームルームが始まる直前に返してさらっとありがとうだけ言って終わろうと思っていたのに。勝手に用意され、翌朝渡された紙袋にはどら焼きが箱で入っていた。こんなにたくさん……持っていくにも重たいという苦情は「あんたの一大事を救ってくれた人へのお礼なら足りないくらいよ」と返され反論する言葉を失う。でも二十個入りなんてさすがに大げさすぎない?
こんなにたくさん米屋くんが食べなくても、同じ隊の人や家族と食べるよねきっと。誰と食べるかなんて私が気にしたところでしかたないのに、胸は痛んでしまうし、痛むのに考えるのをやめることはできないでいた。
『ちゃんと諦められるまで、オレの中でなまえを特別にさせといてよ』
唐突に思い出してしまう彼の言葉。換装体の私を助けようとしたことも、弱い私を鍛えようとしたことも、水族館でのことも、全部私が特別だったから? 特別って言われて、嬉しくて浮かれる気持ちもあるのに、その言葉をどう受け止めて良いのか私は決めかねていた。決めかねてるって言いながら、自分の都合の良いようにしか考えられなくて。
つまり、私を好きってことだったら……?
でも「もう少しでいいから」ってことは、あと少ししたらそれもやめるってこと? 特別じゃなかったら、友達に戻るの?それとももう戻れないの? 諦めるって、誰をどう思っていることを諦めるの?
ごちゃごちゃと散らかった考えに終わりはなくて、私は朝のホームルーム前、米屋くんにすっかり声をかけ損なっていた。タイミングを逃した言い訳は色々とあるけれど、どれも自分勝手なもの。いざとなったら足がすくむ。箱どら焼き渡して傘返すだけなのにね。「ありがとう」って言うだけなのにそれ以外の言葉を探している。私は他になんて言いたいのか。
何も言えないままその日放課後は恐ろしいほど早くやって来た。
昨日の雨は結局止まずに今日も降り続いている。傘、無いと困るよね……。さすがに二日も続けて濡れて帰ったら米屋くんと言えども風邪を引いてしまうだろう。
「なまえ」
失礼なことを考えていたから、当の本人から声をかけられて「ひゃ」と過剰に驚いてしまった。振り向いた瞬間、米屋くんも困ったような顔をしていて、これ以上あらぬ誤解を生んではならないと「ごめん、ぼうっとしてた」と急ぎ取り繕う。
「傘、返してもらってもいーい? オレ今から本部行くから。さすがに今日は持ってきてるだろ?」
「うん。返すの遅くてごめんね。あとこれ、お母さんがこの間の事も兼ねてお礼にって」
「おー、アリガトウゴザイマス。昨日は濡れねーで帰れた?」
普通の会話。何の変哲もない会話なのに、それがとても久しぶりで、声が詰まって頷くことしかできなかった。もっと話したい。ちゃんとお礼を言いたいし、前みたいにもっと話したり、くだらないことで笑ったり、個人戦して手加減してもらえなくてボロボロにされて泣かされてもいい。前みたいに、前よりもっと……
「一緒に行く?」
「っえ」
「本部」
そう言って前と同じように笑いかけてくれるから、もっと声は出なくて一度だけ頷いて返事をした。
傘は一人ずつ持っているから二人の距離は遠く、あの日のように肩が当たるほどの距離ではない。聞こえてくるのは雨が傘を打つ音ばかりだ。次第に強まってくる雨足は傘の意味をなさなくさせるほどになっていた。
「うっわー。さすがにこれはひでぇ」
「すぐ弱まるとは思うけど」
集中豪雨ってやつらしい。洗車機の中みたいな横殴りの雨に、私たちは慌ててすぐそばの軒下へ逃げ込んだ。警戒区域付近は空家が多く、私達が逃げ込んだ軒下というのも少し広い空家の玄関先。三方が囲われているから扉に背を預けて座れば濡れないし、古びて穴の開いたテント下よりはマシ。
降りしきる雨を二人してぼんやりと見つめながら会話を探していたら、みっともなくぐぅとお腹が鳴る。赤面止まない私をそっちのけで「情けねえ音」と笑った彼は箱からどら焼きを差し出してくれた。それがまた顔をくれるヒーローのようで小さく笑ってしまう。
「美味い?」
「うん。ハイ、半分あげる」
「いいよ。もう一個食うから」
「こ、これは…………一緒に食べよって意味だから」
齧ったところを避けてはんぶんこにしたどら焼きを、顔も見ずに彼の前へ差し出した。おかしなことに、狭い玄関先は傘を差して歩いていた時よりも近くて肩が触れている。触れた部分から伝わる米屋くんの体温は温かい。これで顔が赤くならないわけがなくて。軽くなった手から受け取ってもらえたことを知る。
色んなことへ意識が散って、美味しいはずのどら焼きもだんだん喉に詰まってくるような気がした。米屋くんに聞かなければと思うとそれは余計にでも。
「どうして、特別、なのかな」
それは、何がとも誰がとも言わなくても彼には伝わるだろう。カバンから取り出したペットボトルのお茶を飲み干した彼は少しだけ唸った。
「ずっと「クラスの女子で誰が可愛いと思う?」って聞かれたら真っ先には思い浮かんでた。ちょっとどんくさいとこも可愛いなぁって思ってたし、笑うと綿菓子っぽいとことか」
「どんくさい、わたがし……」
「ふわふわしてて甘そうじゃん。なまえの笑顔って」
ちらりと見た米屋くんの横顔のほうがよっぽど綿菓子みたいで甘そうだと思う。でも彼の綿菓子にはポップロックキャンディーも混ざってそう。今も胸の中で弾けてパチパチする。
「あとはわかんねえや。気が付いたらぜんぶ……って、オレばっかなの卑怯くね?」
「ど、どら焼きはんぶんこしてあげたじゃん!」
「もとはオレがもらったどら焼きなんだけど。なまえは? オレのことどう思って……あー。嘘。やっぱいいや。なんでもない」
恥ずかしくなるようなことをこのまま聞いていたいような、やめて欲しいような。さっきまで笑っていた彼が口を尖らせ、そっぽを向いてしまう。
煩い鼓動や激しい雨の中でもこの距離なら彼の声ははっきりと聞こえていた。どう思っているかなんて、米屋くん本当はわかりきっているんじゃないの? 私がわからないように、米屋くんもわからないでいるのだろうか。
「これ以上フラれたらかっこわりーし」
「フラ、れた……?」
米屋くんの告白を断る女が居たことに驚いたし、誰よそれは! と焦る気持ちも生まれたのに「なまえにフラれた」と眉間に皺を寄せられ、お互いに目を見合わせること数秒。思わず「へ」と間抜けな声が出ていた。
「いつ!?」
「キスした時。なまえ、ごめんって言った」
必死にあの日の出来事を思い返すが、いつもなら鮮明に思い出せることも今日は焦りもあってやたらと不鮮明だった。それでも私の中でははっきりとした事実もあって。怪訝な顔をする彼にどうかこちらの言い分を聞いて欲しい。
「あの時は、自分の気持ちに蓋して友達でいようと思っていた矢先の事で……それに、…………好きとか、言われてないのに」
そういう関係になりきってもないのにキスをしてきたのはそっち。今度は彼が目を白黒させる番だった。「え」と単音発した米屋くんは驚いた顔で覗きこんでくる。恥ずかしくてたまらないのは、私の中で、この先の答えが垣間見えたから。あの日を思い出すように少し考え込んだあと、どうやら米屋くんにも同じ答えが視えたみたい。
「言ってなくてもわかったくない?」
「わかんなかったからっ」
わからなかったから「ごめん」って言ったんだよ。わかってたら、好きって言われてたら、ごめん以外の言葉があったもん。
きちんと話せばこんなにもすぐ解決できたことだったのに、どうしてこんなにも遠回りしてしまったのか。
ばつが悪そうに笑う米屋くんを睨み見る。けれどすぐに二人とも表情が崩れて笑いが漏れた。緊張もわだかまりもゆっくりとほどけていく。お互いを覗き込む視線、さっきよりももっと近くなった距離。雨音よりも二人の鼓動のほうが鳴り響いていて、目と鼻の先で米屋くんは「スキ」と呟き――
『警戒警報! 警戒警報! ゲートが発生します。付近の皆様は――』
その時、すぐそばでけたたましく警報が鳴り響く。見渡せば先程まで激しく降っていたはずの雨は弱まっていた。
「タイミング最悪じゃん」
「だね」
そう言いながらも目の前の男はすでに換装体へと変わっていて、呆れは隠せない。ちょっとだけ不貞腐れる気持ちもある。自分もスカートのポケットに手を突っ込んでトリガーに触れた。
「なまえ」
呼ばれたまま顔を上げれば、こつんと米屋くんが額を当ててきた。今日はとっくに心臓の限界を迎えているというのに、さらに彼は追い詰める。
「もしオレがなまえより多くトリオン兵倒したら、もう一回キスしていーい?」
「不謹慎だよ、それ。それに、……」
それだと私、本気だせないじゃん。
END
[ 15 私も好きだと伝えるから ]