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06

もし自分の気持ちに素直になるとすれば、私はまだ純のことが好きなんだと思う。
でもそれは、あんな別れ方をしたからで。
嫌いになることなんてできなかったし、やり場のない“好き”を持て余したまま今までをやり過ごしてきた。
もう二度と会うはずがないから、せめて心の中でぐらい、ずっと好きでいたい。

こんなどうしようもない気持ちを抱えたままでも、私を好きだと言ってくれる人が現れて、私はいずれ、ちゃんとその人のことを好きになると思っていた。





「…タカヤ」


ぐっと息を飲んだのも束の間。
大股で歩み寄ってきた彼に掴まれた腕は痛く、無理矢理に引っ張られたことで地面に膝を突く。
響くようなジンとした痛みに、ストッキングは伝染し膝は擦り剥いてしまった。
でも痛みよりも、彼に対する恐怖の方が上回ってそんなこと気にしていられない。

「お前…なに他の男と楽しそうにイチャついてんだよ!」

見下ろされる視線は冷酷で私の体温を奪うかのよう。
否定しようとする言葉さえも握られた手首の痛みに失ってしまった。

「おい!やめろ!」

後から聞こえたもう一つの低い声は冷静で、私の心を苛んだ。

「違うよ、タカヤ…ごめんね。この人は会社の同僚で、椅子から落ちそうになったところを助けられただけだよ。なんでもないから」

震える声で、精一杯口角を上げた。
ここはお店の中で、ざわつく店内の視線を集めてしまっている。

「嬉しそうにヘラヘラしてたじゃねーか!こいつ…!」

「その手、離せよ!お前自分の彼女に何やってんのかわかってんのか?」

タカヤが振り上げた拳。
痛みを受け入れるために目を瞑れば、それは落ちて来ず、純によって止められていた。

「じ…伊佐敷さん!」

思わず呼びかけた名前は、彼の癪に障るものだとすぐに判断がつく。
もちろん、純のこういう行動さえもそう。

「お前、なんなわけ?人の女にちょっかいかけといて、正義の味方気取りかよ!」

「自分の女だと思うなら、傷つけるような真似してんじゃねぇ!」

純がタカヤに掴みかかった反動で手は自由になったけれど、すぐには立ち上がれなかった。
二人の姿が歪んで見える。
涙が頬を伝っていくのを止めたいのに、擦り剥いた膝よりも胸が痛くて止まらない。

“なんで”泣いているんだろう…。

何事もない平穏で平坦な関係が続けば良い。
波風なんて立たなくて良い。
好きにも嫌いにもなりたくない。
もう傷つきたくなくて、怖くて、胸がヒリヒリ傷んだ。

「は?傷つけてねーし!!こいつが俺のこと蔑ろにしてんだろ!?俺がどんだけ大事に思ってるかなんて…!」

「大事に思ってんなら、ちゃんと愛してやれよ!!お前がやってんのは…」


ねぇ、お願い。
それ以上言わないで…。


「もう良いから!!悪いのは私だから…お願い、タカヤを放して」

掴んだのは純の袖。
タカヤから退けるようにそれを引っ張った。
純はなんで!と呟きながらも憤りを抑えて、タカヤを放してくれる。
ごめんね。
私には、この選択肢しかないんだよ。


「ごめんね、タカヤ…私が好きなのはタカヤだよ。不安にさせて、ごめん」


乱れた彼の襟元を正そうと伸ばした手は勢いよく払いのけられ、そのまま鈍い音が店内に響くほど、周囲は静まり返っていた。
打たれたんだ、ということに気付いたのは、タカヤが静まり返った空気の中で動いたから。


「帰る。気分悪いわ」


荒んだ純が掴みかかりそうになるのをなんとか引き止めた。
私は店を出ていくタカヤの背中に声を掛けることもできないのに、店の外で待っていたらしい女性は彼の後ろを追いかけた。
彼女は、タカヤと同じ職場で彼の所属するチームのマネージャーさん。
私も彼女のように追いかけるべきだったのだろうか?
ジンとする頬に今頃痛みを感じた。

「…純、ごめっ、わたし…」

「外、出るぞ」

こんなところを純に見られたくはなかった。
こんな風になりたいわけでもなかった。
今まで通りで良かったのに、昨日までの“ただの”関係はもうどこにもない。


先ほどタカヤが掴んでいたのとは反対の手を、純は優しく引いてくれる。
この温かさよりも、私は今タカヤと“別れる”かもしれないということに不安で胸が押し潰されそうだった。
自分勝手なのはわかっている。
こうやって純の気持ちを知っていながら、友達でいたいとか仲良くしたいとかそんな甘い考え抱いていて、それでいてタカヤとは別れたくないと思っているんだから。

私は、あの日から“別れ”が怖い。



「なまえ」

「純、もうだいじょうぶだから」

引っ張られていた手を引き返し、足を止めた。
純は苛立ったようにもう一度私を呼ぶ。

「なまえ…」

「ごめんね、驚いたよね。私の彼氏ちょっと感情の起伏が激しくて…」

「……」

「いつもあんな感じじゃないんだよ。本当はすごく優しくて、たくさん愛してくれてて、大切に思われて…」

「大切に!?……大切に思ってんなら、なんでお前の前でキャバ行くって話しになんだよ?愛してんなら、なんでお前に手上げんだよっ!!」

「なんで…知って…」

あの日、飲み会の帰りに純と出会った時はすでにタカヤを見送った後だったはず。
それよりも前から見られていた…?

「ちが…あれは…」

否定しようと見上げた瞳が怒りと憂いを帯びていて、誤魔化しかたがわからなくなる。

「なまえ」

切なく呼ぶ声に耳をふさぎたくなった。
視線を逸らしたのと同時に、ズキズキと痛む頬に彼の温かな手が触れ、私はそれから逃れることはできない。
あの日と同じ温もりが、まるで純から逃げ出した私を責めているように感じた。



「あんなやつっ…!! 俺のとこに戻って来いよ!!」



このまま、純の胸に飛び込めたら私は…。



純に気付かれないように、服のジャケットを強く掴んで精一杯笑顔を作る。

「ごめんね、純」

私は彼から一歩引いた。
頬の痛みはもう麻痺して痛みを忘れてしまった。
純との思い出はどんなに痛くても忘れられないのに、おかしいよね。



「タカヤは私を愛してくれてるよ」



別れが怖かった。
傷つかないための自衛策として、大学時代に付き合った人にはいつも一定の心の距離を保っていた。
けれどそれは、彼氏にとっては冷たく感情のない無関心な女として眼に映り、別れを切り出された。
でも、そうやって距離を取っていたからその結末にさえ傷つくことはなくて…。
もちろんタカヤにも最初からその態度で接していた。
どれだけ好きだと言われても深追いするつもりはなかったし、なにより純に似たその顔は戒めの鎖にも近かったのに。

増えていった思い出は愛情に似て非なる情。

こうやって、タカヤの感情が暴走するたび選択の岐路に立ち、無意味な「この選択肢で合っているのか」という問いかけに悩まされ、関係を続ける道を選んできた。
戒めの鎖だったはずが、いつしか繋ぎ止める鎖と変わっていたことにさえ気付かないまま…。
“彼”を手放したくないと思っていたのは、私だった。



「私はタカヤが好きなの」

言い聞かせるように何度も言った。
私はタカヤが好き。
私を愛してくれているタカヤを傷つけてはいけない。
あの日のように、“彼”を手放してはいけない。

それはまるで呪いのように。


「わたしは…っ!」

「うっせー!何度も言うな!」

純は大きな手で私の顔を隠した。

「好きな女が他の男を好きだなんて言ってるの、そう何度も聞きたくねぇよ」

指の隙間から見える彼の表情に胸がギュッと絞られ息が止まりそうになる。

「…わかったから。お前はもう今日はこのまま帰れ。ミウラ商事の件は俺が部長に報告しとくから。そんな状態じゃ仕事どころじゃねぇだろ」

コンビニで買ってきた大きな絆創膏と消毒液を手渡して、気をつけて帰れよと言ってくれる。
こんなにこんなに純のことを傷つけているのに、なんで純は私に優しくするの?


「暖かいもんでも食って今日は寝ろ」


そんな苦しそうに笑って…。

甘えたいのに、絶対にそうしてはダメだと心が泣き叫んだ。



心の矛盾。
何が正解なのかわからない。
自分でかけた心の呪いに囚われてたくさんのものを見失っている。

ただ、指の間からから見えた純の表情に、私はまた道を間違えたことを思い知った。



やり直せるなら……



ずっと心に閉じ込めたままの、叶わない願い。



[ 06 ]

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